第46話 悪役令嬢なんてどこにもいない
ヴァリスは、レイナから目が離せなかった。
これほどの情愛を抱きながら、ここに至って“この結論”へ辿り着いたのか――その苦悩を思うと、胸の奥が焼けるように痛む。自分の不甲斐なさに、いっそ逃げ出したくなる思いさえ過る。
正気を保っているように見える。
だが、頭上には魔族特有の角、背には烏のような黒い翼。
(支配に抗っている。高貴な精神と、昏い情愛を両手で抱えたまま)
婚礼のとき、ミナに声を掛けられてこぼした涙と、いま頬を伝う涙は同じ質の光を帯びている――それがヴァリスの信じたい証だった。
だからこそ、揺らぐ言葉を探す。
レイナの中に、ヴァリスを害する意思は感じない。だが、彼女の言うように、時間は限られている。
教国が聖戦を発動したとしても、アルヴェリアが負ける可能性は低い。
しかし、犠牲は出る。とりわけ聖戦で恐怖とためらいを奪われた軍勢は、多大な犠牲を伴う。
レイナは、いまこの姿であってすら、それを由としない。
無用に時間を稼いで犠牲が生まれれば、たとえモリガンを封じ元に戻せたとしても、レイナは自分を許さないだろう。
「……レイナ。一つだけ聞かせてほしい」
「……?」
時間を稼ぐつもりはなかった。けれど、考えあぐねるうちに、言葉が浮かんだ。
「なぜ、君は、それほどまでに俺のことを好きになった? そのきっかけはなんだったんだ?」
レイナが情に厚いことを、ヴァリスは誰より知っている。
自分の意思でなくとも“婚約者”に選ばれた以上、全身全霊で向き合う性格であることも。
だが、それにしても幼い頃からここまでの情念を抱く“きっかけ”とは、何だったのか。
それはこの広間に来る前、心に刺さって外れなかった疑問へと繋がっていく。
(……なぜ、レイナを“王太子の婚約者”にする必要があった?)
ローラの願いは、自分を捨てたアルスと、そのきっかけとなったミナ、ひいてはアルヴェリア王家への復讐。モリガンの願いは、おそらく封印からの解放。
ならば効率的なのは、幼いレイナへ王家への憎悪を植え付け、ライナス・ウォルムのように魔神召喚、封印解除へ誘導することだ。
レイナのヴァリスへの恋慕のきっかけは一体どこにあるのか。その答えを知りたかった。
レイナは、訥々と呟くように言葉を繋いだ。
「……お母様が……王家に……王太子に相応しい淑女におなりなさい、と……そうすれば、あなたはきっと幸せになれるから、と……」
「……きちんと自らの役割を果たして、真摯に愛することをすれば、自分のように幸せにきっとなれるからと、お母様がわたくしに……」
声が弱くなる。
「……だから、あなたへの振る舞いも、お母様は全部教えてくれた……」
レイナの様子がおかしい――いや、それ以上に、この言葉が予想もしなかった方向へ“鍵”を回す。
(……母ローラのように“幸せに”?)
ヴァリスは目を閉じ、肺の底まで息を入れた。
レイナの母ローラは、幸せになどなっていない――そう決めつけていた。
アルスに婚約破棄を言い渡され、諦めきれずにライヴェールと結婚し、娘を王家に嫁がせる遺言を残した。
そして、その実現のために魔神モリガンを利用したのだと。
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「……婚約破棄。その後の王子と、別の女性との結婚……レイナ姉様よりも、ローラ様の方が“悪役令嬢”としての条件を満たしている」
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フェリルの言葉が、ふたたび頭の内側で反響する。
(だが――もし前提が間違っていたとしたら)
モリガンとレイナの母ローラの間に契約など存在せず、復讐など考えていなかったとしたら。
ヴァリスは静かに目を開き、明確な言葉へ結晶させる。
(悪役令嬢なんて、最初からどこにもいなかったとしたら!)
ヴァリスはレイナを見つめた。
先ほどの問いかけで、レイナ自身にも揺らぎが生じている。
――この可能性に、賭ける。
ヴァリスは古代魔法で編まれた片手剣を水平に上げ、声高に告げる。
「わかったよ、レイナ。君の望みを叶えよう。魔神モリガンをキミごと打ち倒し、そして、キミのことは永遠にこの心に刻みつけて、俺は生き続けよう」
「……っ!」
レイナの瞳が、幸福にも似た光で潤む。張り付いたように流れる涙だけが、その歪さを告げている。
両腕を広げ、招くように――
「そうです。このわたくしという幕を貴方の手で閉じてください!」
次の瞬間、ヴァリスの姿が、レイナの視界から弾けるように消えた。
古代魔法――跳躍。
短距離で空間ベクトルを“跳ね上げ”、視界の中心へ正面から突進する。鋼の線が一直線に伸びた。
「あうっ……!!」
くぐもった呻きと共に切っ先がレイナの胸元から吸い込まれ、そのまま背へ抜けた。
突き通す一刃。だが、そこで終わらせるための刃ではない。さあ、動け――
レイナの頭上の角と、背の黒い翼が瘴気となって渦巻いた。
そうレイナが死ねばお前も終わるのだから、そうなるはずだ。
ヴァリスは剣を消し、即座に法衣の術式を解き放つ。
ミリアが編み込んだ神聖魔法の回復が白い光となってレイナの胸を包み、貫通創は瞬く間に塞がっていく。
死んでさえいなければ治してみせる――ミリアがそう語った力をレイナに使う。
先ほどのレイナでさえ読みきれなかった一瞬の“跳躍”は、かのワーロックが得意としたという重力制御の術式の応用。
まだヴァリスは戦闘に使えるほど洗練はしていないが、動かない標的の懐へ一直線に入るには十分だった。
その一手が、モリガンの離脱をわずかに遅らせた。
なおも手の届く距離に、瘴気が渦まく。
チャンスはここしかない。
ヴァリスは気を失ったレイナを抱き寄せ、そのまま詠唱を開始する。
「……時空環牢」
アモンの力を宿したモリガンの書が、ぶうん、と音を立てて複製を生み出していく。
開いたままの書が半月形の軌道を描き、瘴気の渦を囲い込むように展開する。
アモンの力を吸って発現する時空間魔法。
周囲の時間ごと瘴気を固定化し、書が撹拌し、分解していく。
書が通り抜けた跡は、不可視の瘴気そのものが凍り付いたかのように黒い粒子となり、遺構の壁面へ吸い込まれていった。
断末魔すらない。魔神モリガンの静かな消失。
レイナの頭上の角は消え、黒翼も消えた。
「……ヴァリス?」
胸の中で、レイナがゆっくりと目を開ける。ヴァリスは顔を寄せ、額を合わせる。
「……レイナの馬鹿」
頬が歪み、熱いものがこぼれた。レイナはその涙の跡を指で拭い、「ごめんなさい」と呟く。
そのとき、レイナの身体の奥からぼんやりと輝く銀の腕輪が浮上した。
(……ライナス・ウォルムのものと同じ。二つあったのか)
おそらく、こちらが本物。
ライナスのものは複製だろう。
モリガンは復活のため、複数の悪あがきを仕掛けていたのだろう。
だから見つからなかった――本物は、レイナに宿っていた。
もはや瘴気は感じず、腕輪からは柔らかな光が漏れている。
(レイナ……)
優しい、柔らかな声がヴァリスの耳にも届いた。
「……お母様」
レイナが囁く。魔に由来する遺物であっても、そこに残るのは人の声だった。
おそらくは、ローラの残留思念。
(私の大事なレイナ……どうか私のように幸せに生きて)
「……私のように……確かにお母様は、そう言ってた……」
レイナが嗚咽まじりに頷く。ヴァリスにも、確かに聞こえた。
声は、穏やかな鈴の音のような調子で続く。
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――レイナ、わたしは幼い頃から王妃の作法を学んできたけれど、身体が弱くて、きっとアルス様の御子を産むことはできないと十を過ぎた頃には分かっていたの。
だから、婚約破棄を告げられ、ミナ様とご結婚なさると聞いたとき――ほっとしたの。
もう、頑張らなくていいのだって。
でも、じゃあ私は何のために生まれたのだろうと迷った。
そんな時、ライヴェールが“自分と結婚してくれませんか”と言ってくれた。
昔から兄のように側にいてくれた人。
彼はすでにアグレイアを継ぐことは決まっていたし、私みたいな欠陥だらけの女でなくても、誰とでも結婚できたのに――それでも、私を選んでくれた。
嬉しかった。
王妃になるため頑張ってきてよかった、と初めて思えたの。
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レイナの瞳から、大粒の涙がこぼれる。
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――ライヴェール。大好きなライヴェール。愛しています。
あまり長くない命で、あなたの長い人生に疵をつけてしまうことだけが悲しかった。悔しかった。
でも、レイナが生まれてくれた。
あなたは反対したけれど、これだけはやり遂げたかった。
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声が、少しずつ遠くなる。
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――愛してるわ、レイナ。
あなたも誰かを愛して、一生懸命に生きることは、決して無駄にならない。
私と同じように、あなたも王子様には選ばれないかもしれないけれど、きっとライヴェールのように“見ていてくれる人”がいる。
近くで生きられなくてごめんなさい。
あなたもどうか、私と同じように、幸せに生きてね。
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光が、指の隙間から零れるみたいに薄れていった。
代わりに、レイナの嗚咽が広間に満ちる。
レイナはローラの復讐のために生まれたのではない。
レイナの父ライヴェールがあのとき、国に弓を引くとまでの言葉をアルスに叩きつけてしまうほどローラを愛したように、ローラもまたライヴェールを深く愛していた。
――悪役令嬢なんて、どこにもいなかった。
その事実だけは、もう揺るがない。
ヴァリスは、胸に顔を埋めて泣くレイナを強く抱きしめ、帰還の詠唱を始めた。
ラストの挿絵はレイナを生んで亡くなった母、ローラです。
顔は似ていますが健康的に育った娘と異なり、かなり小柄です。
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