第44話 神をも謀るチート
最初に走ったのは、世界が細くたわむような感覚だった。
視界の縁が波紋のように揺れ、ひと呼吸ののち、ヴァリスは石壁と石床に囲まれた"暗いダンジョン"の中に立っていた。鼻腔を刺す瘴気は強い。だが、肌にまとわりつく不快な冷たさは、ミリアに託された"白の法衣"が淡く発した護りの気配に遮られて、深く侵入してこない。
(効いている――まだ大丈夫だ)
振り向けば、入ってきた際に通った"魔力渦の歪み"が壁の陰に小さく残渣を残している。ヴァリスは古代魔法で仕込んでおいた"通信用要石"の“手ざわり”を探り、外部とつなぐ“線”が確かにそこにあることを確かめて、小さく息を吐いた。
(よし。連絡はやれる。まずは無事の報告を――)
ヴァリスは要石の回路に触れ、外へ向けた信号を放つ。胸にゆっくり安堵が降りてくる――はずだった。
……おかしい。
経路は繋がっている。返答も“ある”。なのに、"聞き取れない"。遠雷が早送りで流れていくような、音だけが潰れて意味を成さない。
「これは、もしかすると……」
ヴァリスは即座に術式を切り替えた。
「古代魔法――孤高の記録者」
不可聴の情報を"記録紙に転写"する。白紙の巻物がひとりでに走り、墨色の線が怒涛のように文字へ変わっていく。浮かび上がったのは、外から送られてきたであろう"確認の連絡の数々"――同じ文言が、時間をずらしながら何度も、何十回も重ね書きされていた。
「外と中で時間の流れ方が違う……」
記録の密度から導き出される比率は明白だった。"内部の一日=外部の十日以上"。つまりこの遺構の中では、"時間の流れが極端に遅い"。
(婚礼から外で五日。ここでは、まだ半日も経っていない)
胸の奥の強張りが、少しほどけた。最悪の懸念――"レイナの衰弱"――だけは、いまのところ薄い。体力と水分の限界より先に辿りつける、ということだ。
ただ、別の懸念が頭をもたげる。
「……アモンを維持できるのが最大2日、それはあちらでは20日が過ぎるということになる」
モリガンの書を“開く”ために研究室で行った異端魔法の小規模起動は、結界と遮断で抑えきった。だが――遺構の"封印を解いた瞬間"に天へ奔った、あの"濃い瘴気の柱"は、きっと誰かの目に映っている。
「あれはおそらく取り繕うことは難しいだろう」
そう呟いて、ヴァリスは視線を前へ向けた。暗闇の向こうへ続く通路が、冷たい風の筋でこちらを誘う。
「……悠長にしてはいられない」
一歩、石を踏む。足音は早く吸い込まれ、小さく返ってきた。
* * *
王城・要石室。円卓に並ぶ要石は、灯のような淡い光を脈打たせていた。
「中に入れたとの合図は取れたのに……声がスキップしてしまう」
要石を運用する学者が顔を上げる。ミリアは胸元の祈りの印を握り、耳を澄ませた。返ってくるのは、意味の抜けた断片だけ。
その時、別の学者が叫ぶ。
「ヴァリス殿下から"文字連絡"です! 転写に成功――“"中は外より十倍以上、時間の流れが遅い"”と」
空気がふっと緩む。ミリアもフェリルも、胸をなでおろした。
「……よかった。じゃあ、レイナは――まだ“こちらの半日”も経ってない」
だが安堵のすぐ背後に、もうひとつの数字が立ち上がる。"内部2日=外部20日"。それは、ヴァリスに残された"実質的な猶予"の形でもあった。
その報を受けるやいなや、国王アルスとエルフェイン公の動きは速かった。
「教国方面の国境に騎士たちを回せ。私もそちらへ向かう」
短く命じ、ミナを伴って歩を返す。重い足音が、次々と要石室を離れていった。
フェリルが心配そうにミリアを見る。ミリアは小さく頷き、努めて明るい声で言った。
「大丈夫、20日なら、もし教国の連中が聖戦をアルヴェリアに行使しようとしたとしても、間に合わない。ヴァリス君がレイナを連れて戻ってきてくれれば……」
ベルテアの時と同じだ。"監察官を招き入れ、異端の排除を確認"させれば、開戦は避けられる。
客観的に見ても、いまのアルヴェリアは強い。エルフの森都シルヴァ=ハルナとの盟約、港湾の回復、城塞構築による防衛線。名実ともに中原の最強国――。
ただし、その強さ故の"疑念"は消えていない。ベルテアの魔神騒ぎはアルヴェリアの自作自演では、という悪意。
王都で異端魔法が"使われた“気配”"が外へ漏れれば、火に油を注ぐことになる。
それは、翌々日――内部のヴァリスにとっては“数時間後”に、形を取った。
「教国が……聖戦の発動を宣言」
「なんでこんなに早く?!」
ミリアは思わず声を荒げる。エルフェイン公の顔は硬い。
「ベルテア平定後も、準備を維持していたのだろう。周辺国も兵を送っている。進軍は時間の問題だ」
ミリアは唇を噛む。勝てるかどうかではない。"勝ったあとに残るもの"が、あまりにも大きすぎる。
聖戦は“敵”を滅ぼすための祝福だ。
恐怖を消し、ためらいを消す。
――アルヴェリアが勝つとしても、聖戦の影響を受けた兵たちの殲滅が前提になる。そうなれば
(レイナが戻ってこれなくなる)
ノブリス・オブリージュを体現する親友は、自分の責で人々が無為に死ぬことを耐えられない。
たとえヴァリスが救い出したとしても、その後の世界が"レイナの居場所"にならなければ、意味がない。
ヴァリスがレイナを救ったとしても、そこにレイナの居場所がなければ意味がないのだ。
すでにミリアには、教国がアルヴェリアに対して聖戦を発動する可能性を踏まえ、それに対して戦争を起こさせずに防ぐ手段を思いついていた。
しかし、その手段を使ってしまえば、結果的にレイナが戻ってこれなくなるのは変わらない。
それがわかるだけにジレンマに陥っていた。
とはいえ、被害のレベルが違いすぎる以上、最終的にその手段を取りうるしかない。
そう思ったミリアだったが、禁書庫の光景を思い出した。
フェリルのアモンによる魔力供給により、本来はヴァリスは使用できない魔法――歪曲領域で時間を切り離し、知をかき集めた、あの方法。
(これなら――全部、クリアにできる)
ミリアは立ち上がると、エルフェイン公にまっすぐ向き直った。
「お父さん! 今すぐアルス様も含めて貴族たちを集めて!」
「お、おい。何をしようというんだ」
「後で話すから!」
その足でミリアは、フェリルの元へ行き、事情を伝えると、フェリルは一拍で頷いた。
「急いで準備します」
* * *
御前会議の場。アルスをはじめ、主要貴族が集う。
ミリアが提案を終えると、室内にざわめきが走った。だが、動揺は長く続かない。アルスは短く息を吐き、頷いた。
「まさか、そんなことが……」
「この手段なら犠牲は敵味方関係なく出さずに済みます。ただ国内に大きな混乱が起きますので、それを皆様にはなんとか抑えてほしいのです」
ミリアのその言葉に不意に立ち上がったのはロズハイム公だ。
「問題はありませんな。こういう時に備えてヴァリス殿下と準備を進めてきた"危機管理手順"が既にある。不詳、このロズハイム、手順に従い、混乱を起こさせませぬ」
一同が力強く頷き、ここに議は決した。
* * *
二日後――内部では数時間ほど。
アルヴェリアの神殿に、白の法衣を纏ったミリアが跪く。傍らの"臨時要石"から、フェリルの声が流れた。
「ミリア様、こちらは準備が出来ました。ミシェル様とマリー様も私の補助に入ってくれます」
シルヴァ=ハルナに精霊機関車で向かったフェリルからの連絡。
フェリルが宿している絶大な力を持つ複合精霊アモン。
半分は、フェリルと共にあり、その力は現在、レイナを救う為、ヴァリスに託されている。もう半分は、シルヴァ=ハルナの世界樹の元にあり、国内の精霊インフラの源泉となっていた。
その力を世界樹の下、エルフのミシェル王とマリー王妃が臨時の“回線”を開き、フェリルが"莫大な精霊力"を制御して要石へと流し込む。
国内の"精霊インフラ"は一時停止し、生活は乱れる。だがロズハイム公の指揮の下、ヴァリスが整えていた危機管理手順で混乱は小さく抑えられていく。
そして、同時に国境沿いには、アルスとバルムート公が率いる騎士団が展開していた。
すべての準備はここに整った。
ミリアはゆっくり息を吸い、祈りの言葉を唇に載せる。
「創世神降臨」
本来は自らの命を"贄"として創世神ザイ=アリオスを降ろす神聖魔法最高の秘奥――その欠落を、世界樹とアモンの"膨大な魔力供給"で“置換”する。
「―主よ、この身を捧げます」
フェリルの精霊の力をヴァリスの知識で整えた魔導基幹。
それを使った神をも騙すイカサマが成立した瞬間、光が天を貫いた。
万能感が奔流となってミリアの身体を駆け抜ける。
瞳に映る世界が、細部まで清澄に見える。
彼女はそのまま次の詠唱へ移った。
本来であれば何人もの高級司祭が数か月かけて準備を行い、初めて成立する儀式魔法。
それを創世神の力は、単独で、即座に、可能とする。
「―創世神ザイ=アリオスの名において
邪を滅する為にすべてを賭すことを
ここに誓い、ここに奉り、ここに捧げ
我ここに聖戦の開幕を宣言する」
王都の神殿から放たれた光は、寸分違わず"国境の自軍"へと降り注いだ。
強化と護りの祝福が、アルヴェリアの戦列を黄金に染める。
対岸でこれを見た教国の司祭たちは蒼白になった。
――聖戦は創世神の怨敵を滅ぼす祝福。
創世神と"対立"して遂行することは、"矛盾"そのものだ。
趨勢は、この瞬間に決した。
周辺国から寄せられていた兵も、足を止めるしかない。
ミリアは光の中で、胸に手を当て、かつて自らが誓った言葉を振り返る。
――私の想いも神聖魔法も、レイナとヴァリス王子のために。
そのためなら、この命どころか、神様だって差し出せる。
命は差し出さなかった。
代わりに、神様だけをイカサマで差し出した。
「――あとは、あなたが戻ってきたらハッピーエンドだよ、レイナ。
ヴァリスくん、お願いね」
祈りの光は、国境を覆い、空に消えた。
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