第43話 英雄に背を推されて
学院研究棟の夜は、静かに冷えていた。
遺物の検証が続く研究室へ、ヴァリスたちは禁書庫から持ち帰った一冊――"モリガンの書"を携えて戻ってきた。
中央卓には、ベルテアから届いた"銀の腕輪"をはじめ、短剣の柄、水晶片、焼けた羊皮紙が整理されている。
結界は三層、記録班の筆記が絶えず、気配は張り詰めていた。
「これから、異端魔法の発動を試みる」
ヴァリスがそう告げた瞬間、室内にいた学者たちの肩がわずかに上がる。誰かが喉を鳴らし、誰かがペンを握り直した。
(無理もない)
「全責任は自分が取る。発動も私が行う」
はっきりと言葉にすると、ざわめきはすぐに鎮まる。
しかし緊張は残る。それでも、ヴァリスは続けた。
「今回の目的は発動のみ。とはいえ、万が一にも当然備える――ミリア、頼む」
ミリアが一歩進み出る。
「近衛の精鋭、神聖魔法を扱える子を数人、呼んである。もう配置につけるよ」
扉が開き、白い外套の近衛がやってくる。
(贄なし――ビブロスのような魔神級は呼ばれないはずだ。だが、万一はあり得る)
銀の腕輪が中央に据えられ、周囲に遮断と中和の帯が描かれていく。準備は整っていた。ミリアは戦闘用の法衣で側に待機し、近衛騎士たちも万全の構えを取る。
その時だった。
「俺たちも参加させてくれ」
声に振り向けば、入口に"アルス"と"ミナ"の姿。アルスは完全武装、ミナはヴァリスも初めて見る"戦闘用の法衣"をまとっている。
「父上、母上……」
ミナが微笑んで近づいてきた。
「エルフェイン公が連絡をくれたの」
そして、ヴァリスの手を短く握る。
「ヴァリス。私たちはもう大丈夫。息子が……大事な娘となる子のために戦っているときに不甲斐ない親でごめんなさい」
隣でアルスが鎧を鳴らす。
「何が出て来ても俺とミナがお前には指一本触れさせない。思い切ってやってくれ」
ヴァリスは二人へ笑みを向け、近衛の布陣を修正した。
精鋭はアルスとミナの支援に。
記録・隔離・結界の担当へ合図し、ミリアへ頷く。
「始める」
ヴァリスは中央卓へ歩み出て、銀の腕輪とモリガンの書の間に立った。深く息を吸い、詠唱の調子を整える。
「異端魔法……妖魔召喚」
詠唱に呼応して、"銀の腕輪"から黒い瘴気がふつふつと溢れ出す。瘴気は蛇のようにのたうち、すぐ傍らのモリガンの書の背へと吸い込まれていった。紙が熱を含むように反り、背表紙がわずかにきしむ。
同時に、床に影が生まれる。影は盛り上がり、"蝙蝠の翼を持つガーゴイル"の形を取った。
「――来るぞ!」
ヴァリスが声を上げるより先に、アルスの足が石を蹴る。
閃光のような踏み込み、一閃。ガーゴイルは断たれ、耳を刺す名状しがたい断末魔を残して霧散した。
近衛の結界が瘴気を弾き、祝祷が残滓を洗い流す。
残ったのは、"背表紙が青に変わったモリガンの書"。
ヴァリスは急ぎ本を開く。本文の大半は変わらない。だが、"巻末に数ページ"が継ぎ足されていた。
――そこには、古代魔法の"開錠の追加コード"が記されていた。
「これが封印解除のコード、まさか封印そのものも異端魔法ではなく、古代魔法によるものだったとは……」
あれほど強固な封印が古代魔法で実現できるものなのか。
古代魔法に精通しているヴァリスだからこそ、驚きを隠せなかった。
ページを追う指が止まらない。文字が、封印の性質を明らかにしていく。
(古代魔法が使われたのであれば、あの封印は内から閉じられたのではない。――外から掛けられた“鍵”だ)
著者自身が記したであろう注釈がある。
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もしこの記述が見えているなら、この国が異端の軍勢に侵攻されたか、封印した復讐の女神モリガンが何らかの理由で復活したか、のどちらかだろう。
前者であった場合、決してこの封印を解いてはならない。
だが、もし後者であったのであれば、遺構そのものに用いた時間封印が劣化しているということだ。
その時に備え、ここにその時間封印の術式を残す。
扱えない場合は、依代となっているだろう魔族か……人を消滅させることでもその場を凌げるだろう。
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胸の奥に、小さくも確かな光が灯る。
(封印を解き、レイナを救い出す手段が、ここに)
ページの最後――端正な手書きのサイン。おそらくこれが、過去に"ワーロック"を名乗った英雄の名なのだろう。
記された時間封印の術式は、ヴァリスが先ほどミリアとフェリルの力を借りて用いた"歪曲領域"と近い構造を持っている。
ならば、同様の手段で扱えるはずだ。
(英雄は、自分が特別であると理解していたのだろう。扱えない場合の“代替手段”の記述が、その証明だ)
救いの道が現れただけではない。
ベルテア以降にヴァリスが己を磨いていたことへの努力が意味を為している。
ヴァリス自身が、レイナのもとへ“届く”ための力を得つつある――その実感が血に熱を戻していく。
* * *
短い休息を挟んで、突入準備が始まった。
ミリアは当然同行を申し出、アルスとミナも武装を解かずに構えていた。
だが、遺構の中に残滓として残っているであろう時間封印の術式がどう作用するかは未知だ。
術式の理解が深いヴァリスなら自己保護の目はあるが、複数名を同時に守れる保証はない。
「――俺が一人で向かいます」
結論は静かに下りた。
ミリアも、アルスも、ミナも、駆け付けたレイナの父ライヴェールも、反対はしなかった。
救出の成否を左右するのは、"レイナの精神と意志"だ。
最も彼女に届くのは、ヴァリスだと、誰もが知っている。
* * *
そうと決まれば準備は手早かった。
「うーん、ヴァリスくんがあまり背が高くなくて良かったよ。あまり直さなくて済んだ」
「一言多いな」
ミリアは自分の"白の法衣"をヴァリス用に仕立て直しながら笑う。
「あたしの法衣には、編まれた神聖糸そのものに神聖魔法の力が込められてるから瘴気に対しても抵抗できるはず。あと強化もかけておくけど、コマちゃんの供給があっても、1日もてば良いところだから、早くレイナを連れて戻ってきてよ」
隣で支度を整えるフェリルが頷く。
彼女は"アモン"の半身を“コマちゃん”モードにして、モリガンの書に宿す。
携行できる“魔力供給源”として。
「王子、こっちもたぶん2日ぐらいが限界だと思う。たぶん、それぐらい経つとコマちゃんは勝手に私のところへ戻ってきちゃう」
「フェリル以外に懐かないのも難儀だな」
軽口に、緊張が少しほどけた。
ヴァリス自身は古代魔法の発動体として調整した"片手剣"を準備する。
もしレイナが剣で持って拒否を示したのであれば、とても敵うことはないが、それでも一撃ぐらいは防いでみせるとヴァリスは決意を新たにする。
* * *
城の中心、黒い封印はまだそこにあった。あの夜と同じ場所、同じ静けさで、ただ待っている。
ヴァリスは前に出て、掌をそっと当てる。背後で、ミリアとフェリルが息を飲む。
「開錠――魔神解放」
モリガンの書に記されていた、特殊な施錠を解除するためのキーワードを開錠へ組み込む。
黒が、ぐにゃりと歪む。鎖がほどけるように、幾重にも重なっていた封が解かれていく。
「っ!」
解かれた孔から、高濃度の瘴気が天へ向かって奔ったが、それは一瞬であり、やがて黒は薄れ、白い痕跡を縁に残して"柱の孔"が露わになった。
「お願い、ヴァリス君。レイナをどうか連れ戻して」
ヴァリスはその縁に掌を当て、振り返らずに告げる。
「みんなの願いは確かに預かった。――あとは任せて」
世界がひとつ、反転する。
ヴァリスの姿は、孔の向こうへ消えた。
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