第42話 禁書庫の渦、黒翼の名
ベルテアからの荷が、夕刻、学院の研究室に運び込まれた。
ロズハイム公が手配したそれは、木箱に分けられ、封蝋と結界札で何重にも固定されている。学者と結界師が順に確認し、最後の札が解かれたところで、ヴァリスも一歩、前へ出た。
「ここからは立会いの下で開封する。記録班、記録を」
短い指示に、砂の落ちるような筆記音が重なった。
最初の箱から現れたのは、言い伝えにあった銀の腕輪だった。細工は簡素で、装飾らしい装飾はない。ただ、輪の内側に擦れた痕が幾筋か見える。
続いて、焼け焦げた羊皮紙の束、刃が失われ柄だけになった短剣、ヒビの入った水晶片。どれも一度は熱と瘴気に晒された気配を宿しているのに、不思議と今は鼻を刺すような臭気がない。
(……禍々しさはある。魔力の残滓も確かに。だが、瘴気はもう感じない)
ヴァリスは腕輪の気配を確かめ、すぐに手を離した。油断しないに越したことはない。
「遺物は学院の結界内で保管する。調査は三系統――結界・隔離・記録――で同時に進めてくれ。触れるたびに残量を測定、由来と符号は照合して逐次報告。安全手順は最優先だ」
「承知致しました」
学者たちが持ち場へ散っていくのを見届け、ヴァリスは深く息を吐いた。
(遺物は専門班に任せる。では、俺が今この瞬間にできることは――)
「図書塔へ行く。禁書庫の中身をすべて洗い出そう」
学者たちにそう告げて、ヴァリスは外套の襟を正した。
* * *
日が落ちかけた図書塔は、普段より静かだった。禁書庫の重い扉には幾重にも封鍵があり、番司に札を渡すと、鈍い音とともに金具がひとつずつ外れていく。
そのとき、階段の踊り場から明るい声が飛んだ。
「ヴァリスくん!」
ミリアだった。隣で足並みを合わせるフェリルも、息を整えながら小さく手を振る。
「王子、私たちにも手伝わせて。図書塔で本を探すのでしょう?」
「頼む」
短く、しかしはっきりと返す。二人の顔に、迷いはなかった。
禁書庫の扉が開き、冷たい紙と革の匂いが押し出される。学者たち十数名が搬出用の台車を押し、目録と棚番号に従って書を運び出す。
「搬出は第一列から第三列まで。儀礼・魔族・古戦史、重複は後回しでいい」
ヴァリスは塔の中央卓に座り、掌を一度重ねて術式を起こす。
「古代魔法――頁環読解、起動」
ぱらり、と最初の一冊が自動で開いた。視線を走らせるたび、ページが水車のように回り、必要な箇所に薄い光が残る。もう片手では、白紙のカードが淡い燐光を灯した。
「孤独の記録者――索引、リンク」
触れた光がカードへ吸い込まれ、索引語と所在が自動で刻まれる。ヴァリスの周囲に白い小片が積まれ、息を合わせるように次の本、また次の本が置かれていく。
(――封印の解き方はどこにある)
額に脂汗が滲む。エヴァレット邸のときの数倍の規模だ。レイナの状況は分からない。あの孔の向こうに食はあるのか、水はあるのか。そもそも時間の流れは同じなのか。考えたくない問いほど、考えをせき立てる。
ページが一瞬、二重に見えた。視界がふらりと揺らぐ。椅子の背が遠のく――
「危ない!」
横にいたミリアが素早く肩を支える。温かい掌の感触で、呼吸が現実に戻る。
「大丈夫? 体力ならあたしの魔法で増強できるんだけど……力になれないのが悔しい。何が聖女よ」
自嘲とも苛立ちともつかない声音に、胸の中で何かが弾けた。
(――そうだ。増強は、できる)
ここ数か月、剣の修練と並行して、ヴァリスは“戦える力”を得るために過去の文献にある古代魔法を集中的に研究してきた。
その中で目を留めたのが、古代魔法と剣技を両立させた“魔法戦士”――ワーロックを名乗る英雄に関する記述だ。
彼は重力と時間の制御術式を得意とし、局所的に時間の流れを歪ませ、高速の跳躍と剣技を組み合わせて“切り札”として用いたという。
原理そのものは理屈としては理解できた。
だが、時間が歪むほどの力場を発生させる魔力の総量が足りない。
仮に発生できても、肉体が耐えられるように出来ていない――そこが壁だった。
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このワーロックと名乗ったという冒険者も、結局は個人の資質が傑出していただけ。どの道を選んでも英雄になっていただろう。
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先日この結びを読んだとき、ヴァリスは頷いて苦笑した。
そんな大規模な空間魔法を無理なく回しきれる魔力と、耐えきれる肉体を同時に備えるなら、ほかの手段を使ったほうが強くなれる――それは納得の結論だった。
だが。
今のヴァリスなら実現できる手段がある。
ミリアの神聖魔法による肉体強化は、凡人でも英雄水準まで底上げする最高位の性能を持つ。
そしてアモンを擁する精霊使いフェリルは、国を支えるほどの精霊力の流量を扱える。
換言すれば、世界樹のように経由の大きな流れを魔力へ変換できるということ。
ヴァリスは顔を上げ、二人をまっすぐ見た。
「二人とも頼みたいことがある」
言葉を交わすより早く、準備は整えられた。
ミリアは神聖魔法で視覚と集中の持久を底上げし、フェリルは精霊魔法で魔力の供給を回す。ヴァリスは術式の重なりを確認し、深く息を吸った。
「古代魔法――歪曲領域」
古の英雄譚から解析し、再構築した魔法を発動する。
周囲の音が一段階、遠のく。
ヴァリスの肉体と視界の周縁だけ、わずかに時間の流れが遅くなる。
体感の秒針が一本、余分に刻まれる感覚。指先の動きと視線が同期し、頁環読解の速度が一気に跳ね上がった。
ぐんっと負荷が身体と頭の中全体にかかるが、支えてくれる二人のおかげで問題なく維持できる。
本が開いては戻り、索引カードが雪のように積もる。搬出班が追いつけないほどの速度で卓上の渦が回り続けた。
(――持つ。まだ持つ。もっと)
時が削られていく音を背に、ヴァリスはただ読み続けた。やがて――
「……見つけたっ!」
指先に違う重みが触れた。中ほどで止まった書物を、ヴァリスは丁寧に開き直す。古い紙に、黒い文字がくっきりと刻まれていた。
――魔神モリガン。
黒い烏の翼を持ち、魔族(ヴァル=ノスティア)の中で“復讐の女神”とも称えられ、モリアンとも呼ばれる。バイブカハと呼ばれた三姉妹の長女で、妹にネヴァン、マハ。妖鳥ハーピーたちを率いる長であり、精神操作を得意とし、多くの人間を操り、戦力とした――。
ページの端を押さえる指が、かすかに震えた。あの時、レイナが囁いた名と一致する。
(精神操作……。ずっと、抗っていたのか)
さらに読み進める。
――モリガンは実体を持たず、人や他の魔族に寄生することで肉体を得る。ゆえに完全に滅ぼすことは難しい。一方で、寄生する肉体が正常でない限り、真価は発揮できない。
息が少しだけ楽になった。希望は、ある。
(レイナの肉体は無事でなくてはならない。精神が、今も抗っている可能性が高い)
――かつての魔族戦争において、モリガンは神代の遺構に封じられた。
そこまで記されていて、肝心の“遺構への行き方”については、一切の記述がなかった。
頁を繰っても、注釈が現れない。関連索引にも、道は見えない。
「……ここまでか」
ヴァリスは小さく息を吐き、孤独の記録者にこの一冊のカードを最優先で記した。残りの山へ肩を向け直し、さらに読み進める。
だが、以降の書からは有力な追記は見つからなかった。光の滑りが、わずかに鈍る。
「――まだ、探せる」
フェリルが、そっと言った。ミリアの肩へ短く視線を送り、ふたりで頷き合う。
「大丈夫、きっと見つかる。ほら、思い出して。ひいお爺様の手記だって、何十年も書庫にあったのに、あの時になるまで見つからなかった。まだ“探していないところ”があるはず」
ヴァリスは、はっとした。胸の奥で、別の線が繋がる。
(ローレルの手記に書かれたアモンと世界樹に纏わる物語は、フェリルの中のアモン、精霊の力に反応して“封印”が開いた)
思考が跳ねる。ならば魔神モリガンについて書かれた本の封印は――
ヴァリスは索引カードの束をまとめ、決断を口にした。
「図書塔での調査を終了し、ライナス・ウォルムの遺物を調査中の学院へ戻ろう」
禁書庫の重い扉が閉じる音が、塔の芯をゆっくり伝わっていく。
――道は見えた。
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