第41話 過去の残滓と異端の因果
御前会議というには、あまりにも人が少なかった。
夜の小会議室。
長卓の端に置かれた燭台が二つ、壁の紋章旗が揺れるたび、炎が細く伸びたり縮んだりしている。
荘厳さは保てない。重臣の列も、見届ける侍従もいない。
ここにいるのは、ヴァリスと、ミリアの父であるエルフェイン公の二人だけだ。
「……殿下」
エルフェイン公にヴァリスは小さく頷く。
「父上と母上は、自室で休んでいます。……正確に言えば、私が休ませました」
言いながら、喉の奥に苦いものが残った。
「あの時、レイナが変わった瞬間――父上と母上には、レイナの母である“ローラの声”が聞こえたそうです。二人とも……憔悴しています」
自責の色を帯びた顔を前に、かける言葉をヴァリスは持てなかった。もし、レイナの母ローラが今回の件の仕掛け手なのだとしたら、二人の責であることは否めない。だからこそ――
――今回の件は、私に任せてください。
二人は何も言わず、ゆっくり頷いた。それが、今の現状だ。
エルフェイン公も過去の出来事は知っているのだろう。ヴァリスの話に対して改めて問いただすこともなく、静かに頷いた。
その時、扉の外から近侍の声がした。
「アグレイア侯爵がお見えになられました」
「入ってもらってくれ」
ヴァリスは短く答え、視線を正面へ戻す。レイナの父、ライヴェールと腹を割って話すなら、父上と母上は席を外していた方がいい。そう判断したのは、ヴァリス自身だ。
扉が開き、アグレイア侯爵ライヴェールが入室した。軽く会釈し、正面に腰を下ろす。
先ほど会場で見せた狼狽はすでになく、いつもの寡黙な落ち着きを取り戻している。それだけで、少し胸の緊張がほどけた。
「殿下、お待たせしました。先ほどは取り乱してしまい、申し訳ございません。また我が娘、レイナが殿下を危険に晒したこと、深くお詫び申し上げます」
形式ばった言葉に聞こえるかもしれない。だが、本心でもあるのだと、彼の声で分かった。
ヴァリスは首を横に振り、そのまま本題に入る。
「アグレイア侯、先ほどの貴方の様子を見るに、レイナの変貌に何か思い当たることがあったのではないだろうか」
ライヴェールは一度だけ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げた。
「この場に王……アルス様が居られないというのは殿下の御采配でございましょう。……私と妻ローラのことを御存じなのですね。……感謝致します」
「父から、聞きました」
「正直、今このような状況に至るまで確信が持てず、手をこまねいていた私の罪は重い」
そう言って、侯爵は遠いものを見るように目を細め、語り始めた。
「もともと、ローラは先のアグレイア侯爵の一人娘でした。アルス様との婚約破棄からほどなくして、私は分家の身からアグレイア家に養子として入り、継ぐことが定められ、彼女と結婚いたしました」
アグレイア家の伝統――王家に仕えることを第一に、血に偏らず、分家からでも実績のある者が家を継ぐ。王家と近すぎるがゆえに、権力を避ける意味で侯爵位に留まる。その理屈は、ヴァリスも知っている。だが、当事者の口から聞くと、過去の重さが違った。
「そのような家風ゆえ、当時はローラがアルス様にそこまでの執着を持っているとは、私も含め、深くは思っておりませんでした」
ライヴェールは淡々と続ける。ローラはすでに病が進み、子を産むことはできないと周囲に認識されていたこと。
アルスが婚約破棄を願い出なくとも、いずれそうなっていただろうという見立て。
「正直に申し上げれば、幼い頃からの彼女を知る私は……不憫さから、彼女の望むままに婚姻を決めたのです。そして、自分の生きた証を残したいという彼女に絆され、子を産みたいという願いにも――加担しました」
そこでライヴェールは苦笑とも嘆息ともつかない息を吐いた。
「結局、あの当時、彼女の遺言を見てアルス様とミナ様にぶつけた私のひどい言葉は、私自身の罪悪感の裏返しに過ぎなかったのです」
ライヴェールは続ける。
「レイナは本来、無事に生まれる可能性がほとんどなかった。私は諦めていた。ひどい話ですが、彼女自身が望むなら……という思いしか当時はなかったのです」
「ですが――」
侯爵は真っ直ぐこちらを見た。
「生まれたレイナは、身体的にはまったく問題のない子でした。当時は、ローラの強い願いが奇跡を起こしたのだろうと、そう考えました。同時に、遺言を見て、その原動力がアルス様への執着であったことも知りました」
予想できる次の言葉にヴァリスの胸の奥がざわつく。
「おそらくローラは、何らかの方法で異端の力に縋った。そしてレイナは、その力を持って産まれた。……先ほどの娘の姿を見て、私はそう確信しました」
侯爵の声は掠れていた。あの黒い翼、角、気配――あの威容は、誰の目にもただの魔族を超え、魔神の威容であった。
「実際、レイナが幼い頃、知らぬはずの母の話をすることがありました。不思議ではありましたが、そのうち母の話をしなくなり、殿下への想いを強く語るようになった。……母ローラの気持ちが宿ったのではないか――漠然と、そう考えた時期がありました」
ヴァリスは疑問を素直に、問う。
「しかし、さすがに病弱だったレイナの母君が、異端の力にどうやって……」
侯爵は目を伏せ、息を整えた。
「今戻って確かめたのは、そのことです。ローラの墓を確認しました。いくつかの埋葬品は、彼女が生前使っていたものもありましたので」
墓を――検めた。胸が強く鳴る。ライヴェールの心を思えば、そう簡単に踏み込めることではない。だが、それを行ったのだ。ヴァリスは黙って続きを待った。
「当時の埋葬目録を確認した結果、遺品のうちの腕輪が一つ、無くなっていました。“特に変哲のない銀の腕輪”。……一方で、墓が荒らされた形跡はありませんでした」
「腕輪……」
ヴァリスは記憶を探る。レイナが銀の腕輪を身につけていた覚えはない。
侯爵はさらに言葉を重ねた。
「そして、その腕輪と類似するものが、ベルテアでロズハイム公が調べてくださっていた――かのビブロスを召喚したライナス・ウォルムの屋敷地下から接収された遺物の中から見つかっています」
「……っ!」
息が詰まる。ライナスが王国内を巡っていたこと、各地の貴族を訪ね歩いたことは報告で知っている。
アグレイア家を訪れた記録はない。
貴族たちの墓は埋葬品も多く、墓荒らしを防ぐ為の警備は万全だ。にも関わらず、ここで線がつながる。
「正直、私もどこまでの因果が繋がっているのかは想像だにできません。しかし、少なくともベルテアで起きた異端魔法の発現、魔神ビブロスの現出の“発端”となったのが我が国である可能性は高いと考えております」
ヴァリスは目を閉じ、息を整えた。喉の奥に棘が残るような感覚。それでも、思考は一本に束ねられていく。
――あの黒い封印が異端の力である以上、賭けるなら、この腕輪だ。
「ロズハイム公は、遺物を王都へ送る手配を、今回の件の前から進めてくださっていました。一両日中には届く見込みです」
ライヴェールの言葉に頷く。到着し次第、すべての手を打てるように準備を進めるのがヴァリスが今、できる最善だろう。
なんとしてでもあの黒い封印を解除し、レイナの後を追わなくてはならない。
ライヴェールは、ふと立ち上がり、深く頭を垂れた。
「殿下、夫としても父としても、このような事態になるまで気づかずにのうのうと生きてきた私が言えることではありませんが……どうか、レイナを救ってやってください」
声音は低く、しかし、震えてはいなかった。
「それに……責任の多くを占める自分が言うのはおこがましいのですが、アルス様とミナ様がこれ以上、罪悪感に苛まれる姿は見るに忍びない。あのお二人は、本来であれば何の罪もないのです」
ヴァリスは椅子から立ち上がり、深く頷いた。
「……もちろんです、アグレイア侯。レイナは私の伴侶であり、王妃です。必ず取り返してみせます」
言葉にした瞬間、胸の奥に一本の芯が通る。黒い封印の向こう側が、まだ見えない闇だとしても、行くと定めた道は一本だ。
あの孔の先で、レイナが今、どういう状況にあるのかは分からない。命の気配がどう保たれているのか、食も水も、何も分からない。時間は、多くはない。
「殿下」
エルフェイン公が静かに言った。「手配は私が。殿下は、休息を」
「……ありがとうございます。エルフェイン公には申し訳ございませんが、御息女にも協力してもらわなくてはなりません」
ヴァリスは短く礼を言うと同時に心より信頼するミリアのことを口にする。エルフェイン公もわかっているとばかりに強く頷き返す。
視線を閉じた。暗闇の中に、白い笑顔が揺れる。あの時の、静かな笑み。
――必ず、行く。
ヴァリスは心の中で、もう一度誓った。
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