第38話 幕間:風の声と異端の娘
白い手袋をはめた指先が、ほんの少しだけ震える。
王妃の衣装は美しくて、眩しくて、でもどこか冷たい。滑らかな絹の感触は、まるで水のように形を持たず、掌から零れ落ちていきそうだった。
「はい、レイナ姉様。もう少しだけ腕を上げてくださいね」
フェリルが優しく声をかけてくれる。その声を聞いて、私は小さく頷いた。
鏡に映る私は、きちんと笑っていた。姿勢も、指先も、髪の流れさえも――完璧。けれど、その完璧さの奥にあるものを、ミリアとフェリルは気づいているような、気づかないような……そんな絶妙な距離感で寄り添ってくれていた。
ミリアは、いつも明るくて、周囲を笑顔にしてくれる。でもその笑顔の奥に、誰よりも細やかな気遣いがあった。私が黙り込んだとき、一番に気づいて、自然に話題を変えてくれる。あの軽やかさは、演技なんかじゃない。彼女の優しさの形。
フェリルは、控えめに見えるけれど、決して折れない芯を持っている子だ。静かに、でも確かな視線で前を見て、必要なときには言葉を選ばずに伝える強さがある。
……本当に、いい子たち。
だからこそ、私は、彼女たちと一緒にヴァリスの隣に立ってきたことが、何よりも嬉しかった。
――本当に、そう思っていた。
「ふたりとも……ありがとう」
言葉は自然にこぼれたけれど、胸の奥では、小さな波紋が広がっていた。
* * *
思い出す。
初めてヴァリスと出会った日のこと。
たった一つ下の男の子。でも、あのときの彼は、大人びた瞳で、少し考えるような仕草をして、私の手を取ってくれた。
私は、必死だった。お母様に教えてもらった通り、「高慢なお嬢様」を演じなきゃって、笑い方も、言葉の選び方も、何度も頭の中で練習してきた。
だけど、いざ目の前にしたら、全部飛んでしまいそうだった。
* * *
「あなたが……私の婚約者になる方なのね?」
「礼儀は心得ているのね。まあ、悪くないわ」
* * *
(嫌われたらどうしよう……)
そう思いながら、ヴァリスの手を握り返した。
あのときのぬくもりは、今でもはっきり思い出せる。
* * *
私には、お母様の記憶はなかった。
けれど――声だけは、知っていた。
物心がついたときから、頭の中で、お母様の声が響いていた。姿は見えなくても、その声はいつも私のそばにあって、私にとっての“正解”を教えてくれていた。
立ち居振る舞い、ヴァリスへの態度、言葉遣い……全部、お母様が教えてくれた。
でも、十歳を迎える前後から、その声は少しずつ遠くなっていった。
ヴァリスが私から距離を置き始めたのと、ほとんど同じ頃。
私は何か間違えたのかと、お母様に何度も尋ねた。でも、返事は、来なかった。
お母様もヴァリスも離れて、どうやって生きていけばいいんだろうと思った。
それでも私は、ヴァリスに王妃として選ばれるために、自分で考えなきゃいけないと思った。
けれど――何も、思いつかなかった。
(あなたは魔法が使えないのよ)
古代魔法をヴァリスと一緒に学びたいと願ったとき、頭の中でそう告げられた。
そんなときに、手を差し伸べてくれたのが、御師様――国王アルス様だった。
「賢すぎる息子が相手をしてくれなくてさ。レイナちゃん、俺の相手をしておくれ」
なんて、困った顔で笑いながらそう言って、剣を教えてくれた。
最初はただ、ヴァリスの隣に戻りたい一心だった。けれど、剣を振るうちに、少しずつ、自分自身の輪郭を取り戻していった気がする。
* * *
ミリアを教国から連れ戻したときのことは、今でも胸が苦しくなる。
あれだけ偉そうなことを言っておきながら、本音はきっと、もっと利己的だった。
――誰からも愛される聖女の彼女と一緒にいれば、私も愛してもらえるかもしれない。
創世神ザイ=アリオスに愛された神の娘。この世界にとっての特別。
それに、こんなにも特別な女の子なのに、私のために身を引こうとまでしてくれた、こんなに素晴らしく、思慮深く、優しいミリア。
そんな彼女が、ヴァリスに愛されないわけがない。
そして、彼女が側に居てくれるのなら、私も一緒に愛してもらえるかもしれない。
そんな浅ましい考えが、私の中には確かにあった。
けれど、初めての夜。ヴァリスに「好きだ」と言ってもらえたとき――
私は、心から、嬉しかった。涙がこぼれそうになるのを必死で堪えて、心の中でお母様に報告していた。
「お母様、叶いましたよ」って。
* * *
フェリルに出会ったとき、私は直感した。
この子も特別な存在だと。
そして、その直感は十歳の誕生日を迎えるころ、確信に変わった。
彼女の成長は、普通の子とは違っていた。
その変化は、かつてのヴァリスと似ていて――私は、少しだけ、恐ろしくなった。
でも、だからこそ思った。
(この子も、きっと……選ばれる)
なら、一緒に愛してもらえばいい。ミリアとフェリルと一緒なら、ヴァリスはきっと私も選んでくれる。
きっと幸せになれる。そう信じた。
* * *
そして、ついに私はヴァリスの妃になり、想いを遂げる。
――大事なミリアにも
――可愛いフェリルにも
――お可哀そうな御父様にも
――罪深い御師様にも
――皆に祝福されて想いを遂げる。
満足ですか? お母様。
貴女が命を捧げてまで産み落とした娘は、立派に貴女の願いを叶える直前までたどり着きました。
そう、私はもうわかっている。
いや、幼い頃からすでにわかっていた。
自分は、お母様の呪いにも似たアルヴェリア王家への執着によって、産み落とされた存在なのだと。
幼い頃に聞こえたお母様の声も、良くない何かによるものだったんだろうと。
そして――
エヴァレット邸で、フェリルの手から手記を引き離そうとしたとき。あの金色の炎に触れた瞬間。
私は、自分が“正しくない存在”と気づいてしまった。
その聖なる金色の炎は熱を持っていなかったのに、私の手だけが焼かれるように痛んだのだ。
その恐れは、ベルテアでの戦いで確信に変わった。
魔神ビブロスとの戦い。
多くの騎士たちが瘴気に苦しむ中、私の剣は冴え、身体は軽かった。
あのとき、私ははっきりと感じた。
私を産み落とすために母が縋った何かは、異端の力によるものだと。
母ローラのアルヴェリア王家、御師アルス様への執着により、元より僅かな命の火を燃やして異端に手を伸ばした結果がこの私なのだろうと。
そして、母ローラは、もっとも相応しい時を選んで、私を通じて、願いを叶えようとする。
だから、あの時、異端の力に影響を与えかねない魔法から私を遠ざけた。
けれど、愚かでお可哀そうなお母様。
貴女の願いは叶いません。
貴女に与えられた想いであっても、今の私のヴァリスへの想いは私のもの。
ミリアやフェリルが彼の側に居てくれるなら、何の憂いもない。
貴女の願いにも、皆の優しさにも背を向けて、私は、私の願いを叶えます。
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