第37話 建国史と異端魔法
戴冠と婚礼の支度は、思っていた以上に細かく、骨が折れる作業だった。
冠の重さに始まり、布告文の語尾ひとつ、楽隊の調律に至るまで、すべてが「王」としての重責を形にしてくるようだった。参列する各国使節の席次一つ取っても、下手をすれば外交問題に発展しかねないとくれば、気を抜く暇もない。
それでも、ヴァリスは穏やかな気持ちでその日々を過ごしていた。
――なにより、レイナの傍にミリアとフェリルが居てくれるから。
気を張り詰めがちなレイナに適度な息抜きを与えながら、ミリアは明るく、フェリルは誠実に、王妃としての準備を陰ながら支えてくれていた。
「少し力を抜いても平気です、レイナ姉様」
「そうそう、もっと笑って。王妃様になるんでしょ?」
そんな彼女たちの言葉が、レイナの表情を柔らかくしていく。
だから、彼女たちとの時間は減らなかった。夜には必ず顔を合わせることができたし、三人で過ごす穏やかな時間は、ヴァリスにとっても心の安らぐものだった。
そして、ヴァリス自身はというと――忙しい合間を縫って、剣と魔法の鍛錬を続けていた。
型を一つ。踏み込みを一往復。汗を流した後は、王城の書庫に足を運び、古代魔法の写本を一枚ずつ丁寧に捲っていく。
今回の戴冠の目的からすれば、王の戦闘力などは象徴に過ぎず、実務的な必要はない。それでも、あの夜――ベルテアで、彼女たちをただ待つしかなかった自分を、ヴァリスは今でも許せなかった。
だから、次は並んで戦いたいと思った。守られるだけの王ではなく、共に進むパートナーであるために。
もちろん、彼女たちを前線に行かせない選択肢はある。むしろ、それが普通だろう。
けれど、それでは彼女たちの意志や力、そして信頼までも否定してしまうことになる。
ノブリス・オブリージュ。
王族として生まれ、育ち、即位を目前にした今――その言葉の重さを、ようやく骨の髄まで感じていた。
そんな思いを抱きながら、戦史の棚に並んだ分厚い写本の中から、一冊を抜き取る。
羊皮紙に書かれた文字は、時間の経過を物語るかのように乾いていた。
朱で押された“封”の印がいくつも並ぶその書は、アルヴェリア建国の記録。
そして、読み進めるうちに、興味深い名前が目に留まった。
「ウォーロック……?」
そこには、かつて建国王に協力し、剣と古代魔法を併せ持って戦ったとされる、ある冒険者が記されていた。
(前世での記憶じゃ、“ウォーロック”って男の魔法使いのことだったな。この世界では、普通に“ウィザード”が使われてるけど……)
「こちらの意図で直訳すると、“戦を閉じる”……か。悪くない響きだ」
思わず独りごちた言葉は、前世で抱いていたいわゆる“厨二心”をくすぐる響きだった。
しかし、史書はその戦いぶりについては辛辣だった。
剣と魔法の併用は、戦術的には非効率。自己強化や治癒を併せ持つ神聖魔法のほうが、遥かに実戦的だった。
むしろ、精霊魔法を駆使して風で矢を加速させたり、火で剣を灼いたりするエルフたちの戦法の方が、よほど“魔法戦士”らしかった。
記述によれば、このウォーロックと名乗ったという冒険者も、結局は個人の資質が傑出していただけ。
どの道を選んでも英雄になっていただろう、と結ばれていた。
(それでも、この響きと在り方に惹かれるのは、俺自身が今でも“力”に飢えているからか……)
そうしてページを捲っていた時だった。ある言葉が目に留まる。
「……封印」
建国期の終盤、大規模な魔族戦争。その終結をもたらしたのは、強大な魔神を封印した英雄たちの存在だった。
ビブロス――あの黒き魔神の記憶が、ヴァリスの脳裏に甦る。
父王アルスが討ち果たした存在。けれど、あれが世界に一体だけだと信じるほど、楽観的にはなれなかった。
そんな思考に沈んでいたヴァリスの耳に、扉を叩く音が届いた。
「ヴァリス殿下。ベルテア領のロズハイム公より。魔神ビブロス召喚の首謀者が判明した由にて」
「……!?」
まさに魔族について考えていた矢先の報。
近侍の差し出した封書を急ぎ開封し、文面に目を走らせる。
その名は、確かに記されていた。
――ライナス・ウォルム。
(……見覚えがある。数年前、我が国に軍事介入を求めに来た民衆派の中に、確かにその名があった)
文書には続きがあった。
彼はアルヴェリアとの交渉に失敗したのち、故国ベルテアへ戻り、仲間たちとも接触を絶って屋敷に籠った。家産を投げ打ち、地下にて怪しげな研究に没頭。その痕跡の中から、異端魔法の使用を示す術式が確認されたという。
やがて、屋敷に残っていたのは彼と妹、そして一人の老人のみ。
例の魔神が現れた日。妹がその老人に遠出の買い物を命じた。
数日後、王都にビブロスが現れ、惨劇をもたらす――
残された痕跡と術式の符号が一致していた。
(妹を……贄に……)
背筋が、ひやりと冷えた。
彼女を贄にして異端魔法を発動。魔神を召喚し、自らもその後に命を落とした。
無意識のうちに、唇を噛んでいた。
――あの時、もっと手を差し伸べられていたら。
後悔にも似た感情が胸をかき乱す。彼が異端に堕ちたことも、妹までも巻き込んだことも、すべてが痛ましくてならなかった。
(異端魔法……)
それは、魔族やその力を帯びた遺物に触れた者が、強い負の感情と魔法的素養を併せ持ったときに発現する“贈り物”。
構造理解はまるで天啓のように与えられ、神聖魔法に近い性質を持つが、その性質はまったく異なる。
神聖魔法が信仰と才覚により修行を経て与えられるものだとすれば、異端魔法は感情に呑まれた末に、ある意味“堕ちる”ことで与えられる力。
しかも、"贄"を捧げることで容易に力は増幅する――まさに闇に落ちる魔法だった。
さらに恐ろしいのは、その力が“感染する”という点。
発現者や魔族由来の遺物に接した者が、強い憎しみや怒り、悲しみに支配されたまま関わることで、その“負”が新たな異端魔法の使い手を生み出してしまう。
負が負を呼び、世界を蝕んでいく。
それが、かつての魔族戦争の本質であり、異端魔法の最も厄介な点だった。
では、それに対抗できるものとは――
神聖魔法の最奥、
「聖戦」
その存在に思いを巡らせると、自然と思い浮かぶのは、ミリアのあの言葉だった。
「要は毒を持って毒を制す――狂気には狂気をってだけなのよ」
あまりにも聖女らしからぬ言い回しだったが、その核心は的を射ていた。
聖戦とは、ただ敵を滅ぼすための力ではない。
負の感情に呑まれることなく、神の名の下に敵を討つ。
そこに立ちふさがるものは、たとえ武器を持たない民であっても意に介さず、殺戮を可能とする。
そういう精神性までを含めて異端魔法という"ウィルス"に対抗する“ワクチン”のようなものでもあったのだ。
ヴァリスは、静かに筆を取る。
ロズハイム公へ、新たな願いとして――
・ライナス・ウォルムが召喚に至るまでの経緯の調査。
・屋敷地下の異端魔法研究と、関係する遺物の出所。
青のインクが紙面を滲ませていく。
封蝋を押し、書簡を近侍へ預けた。
夜の帳が深く降り、戴冠の鐘を調律する試音が遠くに響く。
――この世界は、まだ危うさの中にある。
だからこそ、守り抜く。彼女たちの未来のために。
ヴァリスはそっと、剣と文献を閉じた。
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