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悪役令嬢モノの王子に転生したので知識チートで令嬢たちを幸せにします  作者: 鳴島悠希


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第36話 剣稽古の朝、王の悔恨

季節がひとめぐりした。


ベルテアの地を焦がした戦火も、今ではすっかり過去のものになりつつある。港には新しい埠頭が建ち、潮風にたなびくのは、誇らしげなアルヴェリアの紋章旗。行き交う船は徐々に数を増やし、かつて活気を誇った交易都市の面影を取り戻しつつあった。


旧ベルテア王都も、今は総督府として再編され、復興の象徴として歩みを進めている。その中心に立つのは、アグレイア侯爵ライヴェール――レイナの父である人物だ。


優先されたのは、やはり港湾の復旧だった。


陸の道が戦で荒れた以上、海は国と国、人と人を結ぶ唯一の生命線。


「――海に道を作る。それだけで、国の輪郭が変わる」


そんな言葉をふと思い出す。誰の口から聞いたものだったか。


ヴァリスは窓越しに、遠く白い帆が揺れるのを見つめた。


政務はようやく落ち着きを見せ、戴冠と婚礼の準備も佳境を迎えていた。


そんな中、彼が選んだのは、剣を取ることだった。


政務机に積み上がる文書を一旦脇に寄せ、革の手袋を嵌める。


訓練場へ向かう途中、城内の庭を横切る。朝の空気はまだひんやりとしていて、澄んだ冷気が肌をなでていった。


そして、そこには既に一人の男が待っていた。


「遅ぇぞ、ヴァリス。もう身体は温まってるんだが?」


そう言って笑ったのは、他でもない、現王アルス。


ヴァリスの父であり、国王でもあり、王国最強の剣士でもある英雄。


「……さすがに手加減してくれよ。昔よりも強いんだから」


「そりゃあ、まだ若いつもりでいるからな」


冗談めかした言葉に笑いながらも、その一撃一撃には容赦がない。


木剣が交わるたびに、風が切れる音が鋭く響き、腕が震える。訓練とは思えない速さと重み。さすがに、剣を手に生きてきた男の力は伊達ではない。


三合。五合。十合。


ヴァリスは息を整え、父の構えを見つめる。


(この人と、こうして剣を交えるのは……子どもの頃以来か)


「あの頃と比べたら、だいぶ様になったじゃねえか」


父が木剣を肩に担ぎ、にやりと笑う。


「……だが、やっぱり経験が足りねえな。お前は、俺の息子なだけに悪くはない。でも“戦う”ってのは、場数が物を言う」


「自覚してるよ。俺が剣を手にしてるのは、前に出るためじゃない。……守れるようになりたいからだ」


ヴァリスの目に浮かんだのは、夜の帳を超えて戻ってきた彼女たちの姿。レイナ、ミリア、フェリル。


誰かのために剣を握る。それは、覚悟の話だ。


アルスはふっと目を細める。


「……どうせなら、レイナ嬢ちゃんに頼めばよかったんじゃないか? あの娘は、もう俺より強いかもしれねぇぞ?」


「さすがに、守りたい相手に教わるのは……ちょっと、ね。……もっとも、いつも守られてばかりなのは俺のほうだけど」


その言葉に、父王は不意に黙り込み――そして、ゆっくりと木剣を土に突き立てた。


「お前はな……」


その声は、いつになく穏やかだった。


「お前は、俺なんかよりも、ずっと王としても、男としても……すでに上だよ」


「……父上?」


思いがけない言葉だった。


そして、それが父の口から出たことに、ヴァリスは目を瞬かせるしかなかった。


「少し、休むか」


アルスは水桶の方を顎で示し、二人で日陰へと腰を下ろす。


椀に汲んだ水を一口含むと、火照った身体がすっと冷えていく。


「なあ、ヴァリス。知っての通り、お前の母――ミナは、平民の出だ」


ぽつりと、話し始めた。


「俺が王太子だった頃……好き勝手に旅に出てな。剣を振って、あちこちの遺跡を巡って、魔物退治に明け暮れて……そんな中で出会ったのが、ミナだった」


その語り口に、どこか懐かしさと、ほろ苦さが混じっていた。


「ミナは神聖魔法(ディバインアーツ)の使い手で、俺とは何度も死線を越えた仲間だった。最初はただ、頼りになる女だと思ってた。でもな、ある時ふと気づいたんだよ。……俺、こいつのこと、好きになってんな、ってな」


「……母上からも、少しだけ聞いたことがある」


「ああ。けどな、問題はもうひとつあった」


アルスは一度、水を飲んでから続けた。


「本来、俺と結婚して王妃になるはずだったのは、当時のアグレイア侯爵令嬢のローラ。彼女は幼い頃から俺と一緒に過ごした、婚約者だった」


「……っ!」


ヴァリスの胸に、かすかな衝撃が走った。


アグレイア侯爵家のローラ。


ヴァリスが知るその名は、レイナを産んですぐに亡くなったと聞く彼女の母の名前だった。


父と、その名に繋がりがあったという事実は、初めて聞く。


「ローラは身体が弱くてな。旅に出るたびに泣かれたもんさ。でも、ミナと出会って、惹かれて、王太子としての自分の義務を捨ててまで、ミナと生きる道を選んだ。……最低だったよ。無責任にも、俺はローラに婚約破棄を申し入れた」


遠く、打ち込みの音が続いている。訓練場の別の一角で、若い騎士たちが木剣を交えているのだろう。その規則的な音が、アルスの告白に拍を与えた。


「そして、彼女は、その時……そんな俺に縋るでもなく、詰るでもなく、わかりました、とだけ言い……」


アルスが遠い過去を思い出すかのように目を閉じる。


「俺がミナと結婚し王位を継ぐよりも先に、ローラは、彼女が俺と結婚した後にアグレイア家を継ぐ予定だった一族の男、当時の近衛騎士団長にして俺の友人でもあったライヴェールと結婚し、レイナ嬢ちゃんを産んですぐに亡くなった」


言葉は淡々としているのに、指の関節にだけ力がこもっていた。木椀がわずかに軋む。


ヴァリスは息を整え、そのまま口を開いた。やむを得ないことだとわかっているが、それでも息子として父に言わなくてはならなかった。


「……その状況で、俺とレイナの婚約は……少し、身勝手が過ぎるんじゃないのか? 父上」


「返す言葉もねぇよ。ただ、それでも……それが、ローラの願いだった」


アルスは静かに、唇を結んだ。


「『娘のレイナをアルスの子の妃、アルヴェリアの王妃にしてほしい』。ローラはそう書いた手紙をライヴェールに託した。ライヴェールはその手紙を持って、俺とミナの前に来た」


アルスはヴァリスの肩に手を伸ばした。


「息子どころか、当時、ミナはまだ懐妊すらしてなかったのにな」


短い沈黙が落ちる。


「……ライヴェールはな、その手紙を読み上げたあと、俺を殴った。『ローラの最後の願いだから許すが、もしお前の子がレイナを泣かせるようなことがあれば、俺はこの国にだって弓を引いてみせる』ってな」


ヴァリスの胸に、重く、何かが沈んでいく。


力強さを感じながらも優しい振る舞いしか記憶にないレイナの父、アグレイア侯ライヴェール。


今もベルテア総督府の総督としてアルヴェリア王国のために尽くしてくれる彼と父の間にそんな過去があったとは思いもよらなかった。


それは、自分の出生と、今に繋がる線をあらためて突きつけられた感覚だった。


「母上がレイナにあまり干渉しようとしないのは、そういうことだったのか」


反対している様子もなく、むしろ望んでいるかのようなそぶりを見せながらもレイナの話題をあまり出すことはない母ミナ。その矛盾の答えに聞こえた。


「そう。俺の身勝手のせいだ。さすがに当時は貴族たちの中でもローラに同情的な心情があったのは事実だ」


ミナは出自ゆえに退いたのではない。アルスの選択の後始末として、余計な影を作らぬよう、距離を取っていたのだ。思い返せば、公の場でのミナは控えめで、レイナには礼を尽くしつつ、自ら積極的な接点を作ろうとはしなかった。


アルスはそこで、ふっと笑みを見せた。


「……お前とレイナ嬢ちゃんが、本気で愛し合っている姿を見て、一番救われていたのは……俺と、ミナなんだよ」


その言葉が、胸に沁みた。


しばし、沈黙。


そして――


「父上、今になってそんな話を俺にするということは……」


「ああ。俺は近日中に退位する。お前とレイナ嬢ちゃんの婚儀と同時に、お前が王になるんだ」


(……やっぱり、そう考えていたか)


予感はあった。だが口にされると、胸の中心に重みが座る。ヴァリスは視線を訓練場の外へ流し、陽光にきらめく城下の屋根を見た。


武王アルスの名声は、国境の外でも肥大化している。


ビブロスを討ってベルテアを解放した王は、弱者にとっては希望の旗であり、他国の不満分子にとっては反乱の口実になる。


武王アルス、解放王アルスの親征の名の下に他国の支配層を打ち破れ、と声が上がる危険は、常にあった。


だから譲位する。名目は「戦の傷」でもいい。


対外的には消極派で名を知られ、文治の旗を掲げるヴァリスが王位に就けば、その機運は静まるだろう。


「わかった。準備を進めるよ。父上」


ヴァリスは立ち上がり、木剣を正眼に構え直した。剣先がまっすぐ、朝の光を切る。


「婚儀も、戴冠も。……そして、ベルテアの先も、必ず示す」


アルスが笑い、構えを合わせる。影が二つ、地面に並ぶ。打ち合う音が、再び訓練場に満ちた。


影は動き、やがて重なる。王の影は一本の線となり、まっすぐに伸びていった。


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