第34話 ベルテア王都戦—ビブロス討滅
ベルテア王都の城壁は、夕焼けより濃い黒の瘴気に包まれていた。折れた旗、半ば溶けた門。石畳の目地からは煤のような霧が、静かに、けれど途切れなく湧き続ける。
先頭に立つのは、蒼黒の外套を風に鳴らす国王アルス。隣には近衛の隊長、背後には銀鎧の列。輜重は既に後詰めのアグレイア侯隊に託し、槍と盾の面を整えて前へ進む。
「――行くぞ」
低く、それでいてよく通る声。号鐘が三度、短く刻まれた。合図に合わせて近衛が前に出る。鎧の隙間から漏れた呼気が一斉に白く散り、冷たい空気が戦の始まりを告げた。
城門の影から、ぬっと「それ」が現れる。抱えた双刀。肩から腰へ斜めに走る甲殻の継ぎ目。岩のような肌に赤い紋が脈打ち、巨大な四肢が石畳を噛み砕いた。
魔神——ビブロス。
伝令の記録と、現地で確認された内容は示している。
「ベルテアの民衆派が異端魔法で呼び寄せた」個体だと。
古い戦役記をひもとけば、ビブロス種は「瘴気を吐き、インプを呼び、一体で一軍を抑えるほどの力を持つ。
だが意思はなく、本能のまま命を刈り取る『魔法生物』」と記されている。
召喚した者ですら制御できず、いずれ召喚主をも食い潰す——それが記録の結論だった。
足元では、黒い水たまりのような瘴気が泡立ち、そこから小さな獣影が次々に生まれる。インプだ。片腕は棘の槍、もう片腕は舌のように長く伸び、目は白く濁り、吐く息は腐っている。
「浄化線、維持!」
後衛の法衣が一斉に翻る。ミリアを中心に神聖魔法の光が広がり、瘴気が一段、薄くなった。けれど薄皮を剥いだようにすぐ補充され、濃さがまた増していく。
瘴気は三段階で顔を変えた。淡紫——霧。灰黒——泥。漆黒——焔。霧の段なら騎士は苦しくとも戦える。泥の段では鎧の隙間に重さがまとわりつき、動きが半歩鈍る。焔まで上がれば、触れた肌は痺れ、呼吸が焼けた。浄化の光が届くたび、焔は泥へ、泥は霧へ、霧はやがて散る。
「前衛、突入——斬り、退け!」
アルスが双手の大剣を肩に担ぎ、正面から踏み込む。双刀が稲妻のように交差し、火花が散った。刃が噛み合った瞬間、ビブロスの右肩から左腰へ赤い紋が走り、斬撃の勢いが一段と跳ね上がる。双刀術の型——「紋連」。紋の路に沿って力が走り、刃の重さと速さが増す合図だ。
「退け!」
アルスが刀身をさばいて肩で距離を作る。近衛は左右に散り、斬っては退き、退いては癒しの列に戻る。時間の管理は号鐘と旗印。三十呼吸で交代、旗は青から白、白から黒へ。入れ替わりの刹那に瘴気が焔へ上がるが、ミリアの祈りがそれを押し下げる。
「いまは『守り』で殲滅する」
バルムート公の声が、軍配下の伝令を通じてじわりと全隊に行き渡る。
北方軍は、魔族の散発的な襲撃と『群れ』の厄介さをよく知っている。
勇敢さは長くはもたない。規律は、恐れを上回ったときにだけ保たれる。
だから交代が要る。浄化が要る。呼吸を合わせる理由が要る。
* * *
後詰の野営。地図台の前にバルムート公が座し、特注の指揮盤に手を置いた。盤上には要石網の線、街路の線、瘴気濃度の色が重ね描きされている。
「可変陣、起動。旗印は『堀』へ」
参謀が赤い小旗を外輪に置く。指揮盤の符が乾いた音を立て、数息遅れて戦場の路地に土の壁が盛り上がった。時間差は七呼吸。これが「旗印→地形生成」のタイムラグだ。短いが、読み違えれば味方を閉め出す。
——この地形生成戦術は場当たりではない。
発案はバルムート公、設計はヴァリス。動かす腕は精霊魔法、手綱を引くのは古代魔法の陣。いわば「ハイブリッド兵装」だ。
始まりは軍務庁の作戦卓。
『殲滅戦であっても、未経験の若い騎士は「守りの形」に載せなければ折れる。市街は曲がり角が多く、線が崩れやすい』——公。
『では、線そのものを「出せる」ようにします』——ヴァリス。
構えは単純。要石網を母体に「土精の圧密」で壁・胸壁・堀を、「風精の送気」で粉塵を掃き視界を保つ。
遠隔制御は古代魔法の陣で、「旗印→座標→生成」へ変換する符術を組み、誤配置のための「巻き戻し手順」と「安全陣」で暴走を封じた。
現場でやることは——旗を置く、七呼吸待つ、壁が立つ。簡潔だが、その裏には何十回もの失敗実験と「人を閉じ込めない」ための条項が積み上がっている。
わかりやすく言えば、「塹壕戦の利点を市街戦に持ち込む術」。
見通しの悪い路地では兵は角でばらけ、背を撃たれる。だが「線(塹壕・胸壁)」に載せれば目は前を向き、「交代/救出/後送」の道が常に生きる。
魔法で「線」を現地生成できるなら、「守りの形で殲滅」ができる——それが狙いだ。
「胸壁、路地二。堀、門前三。逆茂木、側道一列」
風精の送気で粉塵が払われ、視界が開く。土精の圧密で壁は芯を持ち、塹壕の縁が「立つ」。つまり、足が迷わなくなる。
前衛が戻る溝、次列が出る踏み台、インプの湧いた口を塞ぐ蓋。バルムート公は旗を置いては指を戻し、また置く。板の上で地形が変わり、街は少しずつ「我らの陣地」へ書き換わっていった。
「面で押し、線で守り、楔で割る」
言葉の通り、一刻ごとに前線は地図上で色を変える。補給線は可変陣の腹を通り、安全地帯が帯状に伸びた。アグレイア侯隊がその帯を運ぶ。水、粥、包帯、そして「戻るための道」。
* * *
外輪では別の戦いが進む。ゴブリンの群れは騎射と投槍で崩れる。
だがオークの戦団は重く、押し返すには壁寄せがいる。
土壁を「押し出す」と、オークは本能でその反対へ逃げる。
逃げた先には胸壁、胸壁の先には槍。面で囲い、点で刺す。
幸か不幸か、生きている民はほとんど見当たらない。だから遠慮はいらなかった。
面制圧を躊躇う理由は、今はない。
* * *
そして——核。
ビブロスは双刀を水平に構え、半歩ずつ足を滑らせて近づく。
左の刃は低く、右の刃は高い。甲殻の継ぎ目に赤い紋がまた灯り、交差斬りの「追紋」へ移る。
交差の角度は六十度から四十五度へ。肉を「彫る」角度だ。受けるより、逸らすのが正解——それを読み切れるのはアルスしかいない。
「退け。ここは我が取る」
王の声に、近衛の二列目が一歩下がる。
大剣が縦に落ち、双刀を「絡めて」外へ押し流す。刃の背が石を打ち、火花がはぜた。ビブロスが唸る。瘴気の焔が泥へ揺らぎ、その一瞬の「軽さ」で近衛は自分の呼吸を取り戻した。
けれど長くは続かない。瘴気は積もり、腕は重く、視界は狭まる。抑え役は数十。交代で前に出るが、まともに斬り合えるのは結局ひとりだけ。王の鎧と大剣には対魔の守りが宿る——若き日の冒険で得た戦利だ。ゆえに誰よりも「持つ」。
それでも、限界はある。
* * *
五日目。地図の上で赤が外へ、青が内へ寄り、王都の面制圧はようやく完了に近づく。
残ったのは、門前の巨影ただひとつ。
そして、ビブロスの再生を超える飽和攻撃が可能なだけの戦力が終結しつつあった。
「——陛下、ここは一時、わたくしに」
声の主は蒼鎧のレイナ。
他の騎士たちの面制圧の先陣の役目を終え、ここに合流した。
一歩、前へ。
蒼い板金は白光を返し、鞘から抜いた刃が細く鳴る。瘴気の焔は鎧の縁で弾け、黒い煤が肩に降る。けれど呼吸は乱れない。
彼女は無言のまま双刀の間合いへ踏み込み、受けない。逸らし、絡め、刃の腹で紋の光を「断つ」。
瘴気の層を裂いて踏み込み、足さばきは軽く、退くことを忘れたように前だけを見る。
双刀術の「紋連」より早く、レイナの剣は角度を換え、重さの向きを奪った。巨体がわずかに揺らぐ。
アルスをもってすら、あれだけ苦しめたビブロスの放つ瘴気をものともせず、むしろ瘴気を押し返すかの勢いで剣戟を繋いでいく。
王の回復を待ってタイミングを測るようにレイナに命じられた近衛の列が一斉に息を吸う。
「ミリア嬢、こちらへ!」
アグレイア侯の号令。
前線脇に控えていたミリアが法衣の袖を翻し、神聖魔法の祈りを紡ぐ。光の糸束が王の鎧へ吸い込み、深部の疲弊がほどけていく。重かった息がひとつ、軽くなった。
「我が戻る」
アルスが大剣を持ち直し、地を踏み鳴らす。レイナが半歩退き、双刀の軌をまた「絡めて」外へ流す。その隙間に、王の刃が落ちた。
刃は、歌う。
巨体の中心——赤い紋の交点。そこへ刺し貫く一撃。瘴気の渦が一度だけ大きく息を吸い、そして霧散するのを確認し、近衛騎士をはじめ、集結した騎士たちが一斉に攻撃を仕掛ける。
インプは泥へ崩れ、石畳に残るのは黒い灰だけ。
「——終いだ」
アルスの声とともに、魔神は崩れ落ちた。
* * *
報は南境の補給拠点へ最短で届く。ヴァリスは巻紙を開き、長く息を吐いた。
——王都制圧。ビブロス討滅。損耗、軽微。
「レイナが一度、単独で魔神相手に抑えに入った」という一文に、胸の奥が冷える。
だが続く筆致は熱い。「王より強く見えた」「戦乙女が宿った」——興奮のまま書きつけられた近衛の報告だ。
冷えと熱。その両方が、同時に残った。それでも。
(二度と、あの場に立たせない。そのために——)
ヴァリスは地図に指を置く。王都の周囲に、復旧の線を一本ずつ引いていった。まずは水、ついで衛生、食、秩序。戦は終わる。けれど、その後を続けるのは自分の仕事だ。
「ここからは、俺の出番だ」
静かな声で呟き、最初の線をすっと伸ばした。
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