第32話 聖戦の前夜
王城の大広間は、いつにも増して張り詰めた空気に包まれていた。
緊急の御前会議。
高位貴族たちが定められた席に着き、中央上座には国王アルス、その右手には王太子ヴァリスの姿があった。
北方軍を束ねる武門の重鎮・バルムート公、流通と外交の要・ロズハイム公、国政の調停役・アグレイア侯、そして教会との折衝に最も長けたエルフェイン公と、まさにアルヴェリアを支える柱たちが一堂に会していた。
——異端魔法がベルテア王都で使われた。
報告は簡潔だった。ベルテア王国の王都で、追い詰められた民衆派が異端魔法を発動。その顕現とともに現れたのは、上位魔族——|ヴァル=ノスティア。王都の中心部で、民衆を巻き込む大規模な殺戮が発生している。
まさに、それは“災厄”だった。
「陛下。このような惨状を前に、我々が手をこまねいていて良いはずがございません」
バルムート公の声が会場に響いた。その言葉には激情よりも理性があった。
「騎士団を南境に越境させ、即時の救援、遮断、鎮圧。これを三本柱として行動すべきかと存じます」
ロズハイム公も頷き、声を重ねる。
「積極介入に賛意を示します。無辜の民が大量に北上すれば、疫病、治安、交易すべてに悪影響をもたらすことになります。精霊網を用いた補給線の維持も可能ですし、火元を断つことが長期的な国益に叶いましょう」
——間違っていない。
ふたりの意見は、どちらも現実的であり、正論だった。
だが、ヴァリスはそれを聞きながらも、ある一点を見落とすわけにはいかなかった。
「バルムート公、ロズハイム公。お二方のご提案、その合理性には敬意を払います。ただ一方で……主権を越える軍事行動というのは、他国に“前例”として記憶されます。我が国が『いつでも境を越える』という印象を与えれば、長期的な信頼の構築は困難になるでしょう」
穏やかに、しかし明確に、ヴァリスは言った。
アグレイア侯も頷き、声を継ぐ。
「まずは難民の受け入れと周辺の安定化に注力し、精霊結界や衛生支援をもって人道的な線を守るべきかと。騎士団を戦場に投入すれば損耗は避けられません。精鋭の温存もまた、国を守るためには必要でございましょう」
積極介入か、慎重な限定支援か。
どちらの主張も、感情ではなく国家戦略として成り立っている。
——それでも、まだ足りない。
ヴァリスは、もうひとつの要素を皆に提示することにした。
「それともう一点。今回、異端魔法が使用されたことで、最も注視すべきは……教国ザイラントの動向です」
その名が出た瞬間、会場の空気がひやりと冷えた。
「もし教国がこれを“神敵の顕現”と見做した場合——」
「……聖戦が、発動される」
低く呟いたのは、バルムート公だった。
ヴァリスは頷き、そして静かに口を開いた。
「私自身、聖戦という言葉を耳にしたことはありますが、実際に何が行われ、何が起きるのか……詳しくは存じ上げません。どうか、この場のどなたかに教えていただけないでしょうか」
そのとき、今まで黙っていたエルフェイン公が前へ一歩進み出た。
「その件につきましては、ミリアを呼ぶのが適当でしょう。教国に長く留学しており、教義や儀礼にも通じております」
一同がそれに同意し、使いが走った。
* * *
ほどなくして、ミリアが入室した。
いつもの明るさはなく、代わりに蒼白な顔で、緊張に唇を引き結んでいた。
会議に集う貴族たちの前に進み出ると、静かに一礼をしてから、しっかりとした声で語り出す。
「ザイラント教国にとって、異端魔法は“絶対悪”です。例え一度きりでも、規模が小さくても……その顕現が確認された時点で、教国は殲滅を国是として動き出します」
ヴァリスは内心で、ミリアの言葉の重さを咀嚼していた。
彼女は、教国で“聖女”と称され、将来の法王候補としての道を歩んできた人物。その彼女が、こんな顔で、こんな声で、話すということ。
それはただ事ではない。
「聖戦は、神聖魔法の最秘奥に位置する儀式魔法です。法王様を中心に、大司教級の術者数十名によって発動されます。これにより、訓練を受けていない信徒ですら、戦士としての技術と力を得ます。もとより強い戦士には、さらなる強化が施されます」
そこで、ミリアは一瞬、目を伏せた。
「……ですが、本当に怖いのは、その“精神面”への影響です。聖戦の影響を受けた者は、死を恐れなくなり、目的のためであれば、殺すことすら躊躇しなくなります」
会議の空気が、一段と重たくなる。
「戦場が街である場合、信徒であるなしに関係なく、現地の民衆にも大きな被害が出ます。聖戦の加護を受けた者にとって、“異端に巻き込まれた者たち”は救済の対象ではなく、浄化の対象と見做されることもあるのです」
ヴァリスは問いかけた。
「……聖戦は、必ず発動されるのでしょうか? 今回のように、異端魔法の顕現が限定的なものであっても?」
ミリアは迷いなく首を横に振った。
「はい。異端魔法の顕現が確認されたなら、それだけで“充分”です。規模は関係ありません。教国は準備に入るでしょう」
その言葉は、重く、確かなものだった。
ただし——と、彼女は続けた。
「聖戦の発動には、法王庁での議決や儀礼的な手続き、宗軍の集結など、様々な工程が必要です。早くても……二か月はかかるでしょう」
ヴァリスはゆっくりと息を吐いた。
——その“二か月”こそ、唯一の猶予。
そして、国王アルスが口を開いた。
「最終決を下す」
その声は、静かでありながら、決して揺るがぬ意志を含んでいた。
「南方で起きた異端魔法による騒乱。これに伴い、我がアルヴェリアに及ぶ影響——難民の流入、疫病、物流の断絶、国境の不安定化。これらを鑑み、アルヴェリアは“限定目的”の軍事介入を決断する」
会議室内に微かなどよめきが走る。
だがそれはすぐに静まり、アルスの言葉に耳が傾けられた。
「併せて、ザイラント教国へ緊急の使者を立てよ。我らの軍事介入の旨を正式に伝えると共に、教国より“監察官”の派遣と同行を要請する」
「はっ」
「軍の指揮は、我が執る。バルムート公は軍務の補佐に。アグレイア侯は騎士団の調整を担え。即時、準備に入れ」
ヴァリスは、驚きと共に胸の内で父の覚悟を感じていた。
——武王親征。それは、何よりの最高戦力であり、最高の抑止力だ。
そして、軍事に明るいバルムート公の補佐、自身もアルスに次ぐと言われる優秀な武人であるレイナの父、アグレイア侯。文句のつけようがない布陣だ。
その上で、教国に対する監察官の要請。それは、アルヴェリアが“教国と共にある”という意思表示でもあり、ベルテア王国についてアルヴェリアが主導権を握るつもりはないという他国への証明だ。
政治・戦術・倫理——すべてを踏まえた一手。
「ヴァリス」
名を呼ばれ、ヴァリスは姿勢を正す。
「救援と難民受け入れ、介入後の復旧。民政全般は、そなたが中心となって進めよ。補佐にはロズハイム公を付ける」
「はっ、謹んでお受けいたします」
エルフェイン公もまた、進み出た。
「教国への使者には、私が参りましょう。娘のミリアも、同行させたく存じます」
「うむ。任せる」
閣議は決した。
地図の上には、青の救援線と赤の遮断線。そしてその脇には、二か月分の砂を内包した細長い砂時計。
時は、動き始めていた。
会議が終わり、静けさが戻った廊下。
ヴァリスは歩きながら、強く、心に誓った。
——やるべきことは山ほどある。けれど、やると決まったなら、迷いは捨てる。
「……動かそう。すべてを守るために」
彼の瞳は、南を向いていた。
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