第3話 汚水と病と、未来を変える言葉
「アルヴェリア王国の政治体制は、王を中心に合議制での統治が行われております」
政務講義の教師──老貴族のカスティール男爵が、やや誇らしげに語った。
「とはいえ、決して王権が弱いわけではありません。王が提案し、貴族が討議し、王が決裁する。形としては絶対君主制を保ちながら、実務においては高位貴族たちが役割を分担し合う、柔軟な体制となっております」
──うん。知ってた。
いや、初見の知識としては知らなかったが、数年王城で暮らしてきた体感として、ヴァリスはこの国がいわゆる“独裁国家”ではないことをすでに肌で理解していた。
父──現国王アルスは三十代前半。若いが、忙しい。
毎朝の政務会議に出席し、午後は領内からの報告を受け、夕方には賓客との謁見や文書決裁。日によっては夜遅くまで軍事会議や外交文書の草案に目を通している。
いわば、王が“働いて”いる王政だ。
しかも、その父を王位に就けた先代──つまりヴァリスの祖父も、まだ健在。王宮内の別棟に隠居しているが、病を得て退いたわけではなく、自らの意志で王位を譲ったという。
普通に考えれば不自然だ。だが、この国ではそれが“普通”だった。
「王位とは、誇りではなく責務。務めを果たせぬ者に座る資格はありません」
──それが、アルヴェリア王国の政治哲学。
形式上は絶対王政だが、実際には“国家経営チーム”に近い。
王権を中心にしつつも、高位貴族が自領の利益と引き換えに政治への責任を負っている。
驚いたのは、彼ら貴族の意識の高さだ。
彼らは我儘な特権階級ではない。むしろ、ノブレス・オブリージュを本気で信奉している。
民が飢えれば、それは己の恥。
疫病が流行れば、自らも陣頭に立って対応する。
無能な王が現れれば、王位を退かせ、速やかに後継に移る。
──結果、この国では他国に比べて餓死者が圧倒的に少なく、暴動も稀。
外交資料によれば、南方のベルテア王国では毎年、冬を越せず死ぬ者が数千単位で出ている。
だがアルヴェリアでは、食料備蓄と分配網がしっかりしているおかげで、貧民街ですら粥の支給が行き届いている。
……いや、そりゃあ完璧じゃない。問題も多い。
でも──この世界の中では、ここは“良くできてる国”だと思う。
前世で下水道局にいた身からすれば、問題点ばかりが目についていたけど、今は逆に感心することが増えてきた。
その日、事件が起きたのは、午後のことだった。
講義のあと、書庫にこもって魔導書を読んでいたヴァリスのもとへ、緊急の報が入った。
「殿下。王都北区の第四ブロック、貧民街にて、疫病が発生したとのことです」
使いに来た若い騎士見習いの顔が、硬い。
「“夏痢”──水を媒介とする下痢症状を中心とした風土病だそうです。昨晩から急激に発症者が増え、本日朝までに十数名の死者が……」
胃が、冷たくなった。
「……排水だな」
思わず、口をついて出た言葉に、騎士はぎょっとして顔を上げた。
ヴァリスは書物を閉じ、席を立つ。
「議会だ。父上の許を取り付けて、会議に出る」
これは──チャンスだ。
政務会議室は、天井の高い石造りのホールだった。
扇状に並べられた机の最奥に、国王の椅子。その手前に宰相、副宰相、王族、三公爵家、四侯爵家、その配下たちが並ぶ。
ヴァリスはその一角、王太子として設けられた席に着いた。
会議はすでに始まっていた。
「……教会からは、神聖魔法の加護を施すための人員を急派するとのこと。まずは祈祷と浄化の儀式を──」
「汚染源の特定が急務だ。医師団の報告では、北区の貯水槽付近に死魚が浮いていたとの情報も──」
──それらは正論だ。
だが、それではまた同じことが繰り返される。
「陛下。ご発言を願います」
声が響いた。エルフェイン公爵。
それに応じて、父が静かに頷く。
「……ヴァリス。意見があるなら述べよ」
ヴァリスは、立ち上がった。
「……今回の疫病は、排水系統の崩壊が根本原因です」
静けさを裂くようにして、ヴァリスは口を開いた。
「北区第四ブロックは、古い水路の上に貧民街が広がっています。地盤は緩く、雨季ごとに排水溝が詰まり、汚水が逆流する──去年も、一昨年も、同じ病が同じ季節に発生しています」
ざわりと、場の空気が揺れた。
重臣たちがヴァリスを見る目には、驚きと警戒が入り混じっていた。
「王太子殿下。お言葉を返すようですが、教会の神聖魔法は、今まで多くの感染症を鎮めて参りました。今回も祈祷による浄化が最も──」
「応急処置は重要です。けれど、毎年起こる病を、毎年“祈って収める”つもりですか?」
ヴァリスはあえて、少し強く言い返した。
「汚れた水は魔法で清めればいい。病人は神にすがって癒やせばいい。……でも、腐った排水路は? 崩れた水盤は? 底に沈殿した屎尿と濁水は?」
誰も答えない。だから、ヴァリスは続けた。
「“仕組み”を変えなければ、また来年も死ぬ。子供が、老婆が、路地裏で息絶える。誰も見向きもしないまま」
言葉を投げるたび、部屋の空気が重くなっていく。
でも構わなかった。
「私は、王都の水を整えます。魔法の流路と物理的な排水管を併用し、逆流を防ぎ、濁水を清流へ戻す。人々が足を洗える“清潔な水”を、当たり前に手に入れられるようにします」
自分でも、熱が入っていると分かった。
でもそれだけ、この国が、今のこの瞬間が、変わる可能性に満ちていた。
そして──
「ふむ」
深く通る男の声が、その場を制した。
エルフェイン公爵が立ち上がる。
「王太子殿下のお言葉。まことに道理にかなっておりますな。我が家としても、全幅の信頼を以て、王都北区の試験運用に協力させていただきます」
続いて、もう一人。
「アグレイアも同意見です」
レイナの父、アグレイア侯爵が立ち上がった。
「殿下は、未来の王たるにふさわしい眼をお持ちだ。我が娘の縁者として、誇らしく存じます」
その言葉に、場の空気が明確に変わった。
ふたりの貴族。どちらも、国王に次ぐ発言力を持つ家門だ。
その両方が、ヴァリスの案に明確な賛意を示したことで、重臣たちは次々と賛同の意を示していく。
──これは、決まった。
王は静かに頷き、言った。
「ヴァリスに、王都北区の水路試験整備の特別許可を与える。経費と人員についてはエルフェイン家・アグレイア家の支援を得て、実行に移すこと」
王の言葉は、宣言だ。
こうして、初めての“王命”が、ヴァリスの名で下された。
その翌朝、ヴァリスは現場へ向かった。
王子の馬車が貧民街に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
道は細く、ぬかるみ、どぶのような匂いが漂っていた。
通りすがりの子供たちは裸足で、泥水に足を突っ込んで遊んでいた。
民家の軒先では、咳き込みながら布を被った老婆が寝ていた。
崩れかけた木の桶から、濁った水があふれ出していた。
「……これが、“地面”か」
玉座の上では見えないもの。文書には書かれないこと。
この国の、足元。
「王子様が、まさか……」
同道していた侍女が呟く。彼女の声は、震えていた。
「本当に、こんな場所に……」
そうだ。
来るべきなのだ。ここに。
王は、地に膝をついて、民を見なければならない。
ヴァリスは視線をあげ、空を見た。
灰色の雲が、王都の上に広がっている。
けれど──
この地に流れる水を変えれば、
その空も、いつか青くなる日が来るだろう。
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