第28話 分散補助要石計画
湿り気を帯びた苔の香りが、世界樹の根の空洞を満たしていた。古く、重く、しかしどこか命のぬくもりを感じさせる匂いだった。
薄暗い空洞に入り込むわずかな光が、天井近くの根の編み目に当たって淡く反射し、まるで生き物の胎内にいるかのような感覚を呼び起こす。足元を踏みしめるたび、わずかに軋む音がする。足音は厚い苔に吸われ、音のない空間が続いていた。
案内を務めていたのは、この森に長く住まうエルフの長老たちだった。装飾の少ない深緑の外套を羽織り、いずれも無言で足を進めている。かつて世界樹の根域へと踏み入った経験を持つ者たちではあったが、こうして“今”の世界樹の根に向かうのは久方ぶりであり、その面持ちには自然と慎み深さが滲んでいた。
ヴァリスの横には、王子であるミシェルがついている。二人の足取りは揺るぎなく、それでいて空気を乱さぬよう静かである。エルフたちは一歩引き、彼らに道を譲った。王族たる彼らの歩みは、敬意と共に見守られていた。
根の奥へと歩を進めるにつれ、空気は冷え、湿度が肌にまとわりつくようになる。光の届かぬ領域では、根がより複雑に絡み合い、幾層にも分かれた階層が天然の広間を形成していた。そこにヴァリスは静かに立ち止まり、ゆっくりと腰を落とす。
目の前に伸びる一本の根。その表皮に、そっと掌を当てた。手のひらに伝わる微かな鼓動のようなもの——それは脈動でもあり、森の息遣いそのものだった。
彼は目を閉じ、術式を静かに紡ぐ。骨の内側で光が回り、意識が世界樹の根とひとつに溶けていく。
魔力感知
古代魔法が展開されると、空間に淡い光の線が広がり始めた。精霊の流れが視覚化され、色も形もないはずのものが、緻密な情報として脳裏に直接叩き込まれていく。
根の中を走る幾本もの光の線が、脈打つように明滅を繰り返していた。けれども、その中に異常な膨張と歪みがあるのが見て取れる。ある一点では流れが収束しきれずに膨らみ、また別の場所では急激に絞られていて、負荷のかかった根が外側に向けて放出を起こしていた。
空間の中に点々と残る焦げ目のような影。それは精霊災害が発生した痕跡そのものであり、かつてこの森を襲った風災や火災、地鳴りの源であることがすぐに理解できた。
術式を維持したまま、ヴァリスは呼吸を整える。
(発電に対して、送電の機構が耐えきれていない……その結果、行き場のなくなった力が森へと噴き出していたんだ)
慎重に術式を解除し、意識を現実へと引き戻す。掌から根の鼓動が離れると同時に、背に受けていた湿気が一段と重たく感じられた。
立ち上がったヴァリスは、腰の袋から取り出した孤独の記録者で素早く図面を描き始めた。
根の流れをなぞる線、整流点、分岐、拡張ルート。それらを補助する術式の図形がすばやく、しかし正確に刻まれていく。
背後で見守るエルフたちの視線は好奇と畏れの入り混じったものだったが、誰も口を開こうとはしなかった。
出力した図を差し出すと、ミシェルが一歩前に出てそれを受け取った。
「……提案があります」
ヴァリスの声は静かだったが、空洞の中ではよく響いた。
『分散補助要石計画』
——世界樹とシルヴァ=ハルナだけに消費を集約せず、アルヴェリアを含む複数地点に小型の補助要石を設け、そこから根系に並列接続する。
古代魔法で分岐・整流の術式を刻み、精霊魔法により各地の地場精霊と調和させる。火は温泉や鍛冶場、風は峠や鐘楼、水は湧水田、土は石灰窯など、自然の中にある“人の営み”に合わせた構造を築く。
魔導具から引き出されたその文書をヴァリスが差し出すと、巻紙は魔力で固定され、図面とともに空中に展開された。
「小さな“世界樹”を各地に置くようなものです。負荷を分散し、暴走を防ぐ。魔力の流れを整えれば、アモンを受け止めるだけでなく、精霊の力を活かせる環境が育ちます」
沈黙の中で、ミシェルは図面をじっと見つめていた。
少しの間をおいてから、彼は穏やかに答える。
「……それが可能であるなら、シルヴァ=ハルナを挙げて力を尽くさせて頂きます」
その言葉に、ヴァリスもまた静かに頷いた。
* * *
王都アルヴェリアに戻ったヴァリスは、間髪入れずに会議の召集を求めた。
王城の白い塔の最上階、大理石と漆で装飾された円形の会議室には、国王アルスを中心に、ロズハイム公爵、アグレイア侯爵、バルムート公爵ら高位貴族たちが着座していた。
会議室は外光を取り入れる高窓と、魔導燭台によって明るさが保たれていたが、重々しい空気は張り詰めたままだった。中央の卓には、ヴァリスが持参した孤独の記録者から展開された巻紙文書と、世界樹根系の流路を描いた魔導図面が広げられている。
沈黙を破ったのは、ロズハイム公爵だった。物流と経済に関しては誰よりも長け、内政の潤滑油とも言われる人物である。
「峠と温泉郷、そして王都近郊の湧水田……配置地点はいずれも主要街道や交易所に近接している。物資供給線は既存の枠内で対応可能と見ますな。ただし、導霊石の搬送には特例的な運搬免許が必要になるでしょう。王都側での事前調整が要されます」
ヴァリスはうなずき、記録者に補足を口述する。すぐに巻紙に反映される。
続いて口を開いたのはアグレイア侯爵。冷静な統治と理知的な均衡感覚で知られ、レイナの父でもある。
「配置のバランスも悪くはない。四属性の偏りも見られず、むしろ補助要石の位置が地方経済の活性化に繋がる可能性すらある。特に南西の石灰窯地区は、長らく過疎が進んでいたが、これを契機に再編成が進むでしょう。——ただし、労働力の偏在には配慮が必要です」
「その点については、エヴァレット伯領を中継に労働者を段階的に再配置し、ミシェル王子率いるエルフの精霊使いたちの支援もあり、精霊技師の育成も合わせて進める計画です」
ヴァリスの説明に、アグレイア侯は「なるほど」と目を細めた。
最後に発言したのは、北方を束ねる軍閥の重鎮、バルムート公爵。
「計画規模としては、軍用術脈にも匹敵するな。仮に何者かがこれを妨害した場合の対応は?」
「各要石には遮断術式を二重に組み込み、緊急時には要石を単独で停止可能です。また、主たる精霊流系統が風の場合は、風が乱れれば即座に地脈へ切り替わる調整機構も内蔵しています。——術式構造は魔術師団総出で改竄の余地を封じます」
バルムート公は重々しく腕を組み、魔術師団がすっかり殿下の私兵集団となっているのは、どうかと思うが、と苦笑するも「……手堅いな」と呟いた。
国王アルスは、長らく沈黙を守っていたが、各臣の応答が一巡した後、ゆっくりと視線を卓の上に戻した。
「諸卿の見解は概ね一致している。反対もないようだ」
その声は決して大きくなかったが、会議室の空気が一瞬で変わるのを、誰もが感じた。
「よろしい。王命として、分散補助要石計画を許可する。森都と王都を繋ぐ新たな術脈——国の未来を賭けるに値する。全権を以て、遂行せよ」
「はっ」
ヴァリスは立ち上がり、深く頭を垂れた。その姿に誰も異を唱える者はおらず、会議は静かに閉じられた。
扉の外へ出た瞬間、彼の中にあったのは、名誉でも安堵でもなく——ただひとつ。
(これで、ようやく着工できる)
現場の土と、風と、手のひらの感触。それが、ヴァリスの考える“始まり”だった。
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