第26話 ミシェルとマリー
西境の村リューイに着いたのは、朝靄がまだ地を抱いている刻だった。
ヴァリスは馬を降り、会合所に視線を送る。木組みは素朴だが、梁は補強され、窓は風通しよく開かれている。過剰に華美ではない。けれど、集いには十分。なにより、訪い来る者に警戒を抱かせぬ配慮が、そこかしこにあった。
「……エヴァレット伯のご采配にございますね。殿下」
随員の言葉に、ヴァリスはうなずいた。
「急だったろうに、よくぞここまで……」
到着から一週間。村は静かに、しかし確かに緊張を蓄えていった。迎えの旗も、音楽もない。あるのは、視線の交わりと、礼の準備だけ。
そして、シルヴァ=ハルナからの使節が現れた。
馬は少数、旗も徽章も控えめで、護衛は他数名に過ぎない。先頭に並ぶのは、銀髪の青年。細く切れた双眸が、白日の光を受けて淡く輝いていた。
「……簡素だ。警戒心すらも感じられない」
ヴァリスは自らの胸中に落ち着いた感覚を認めた。争う意思はない。その事実を、彼らは身の丈で示している。
会合の座はすぐに整えられた。卓の上には余計な飾りはなく、椅子は互いに距離を取りすぎない。招かれたのは、敵ではなく、客だ。
対面の時、ヴァリスは思わず僅かに息を呑んだ。
王太子ミシェル。銀の髪は陽を撥ね、切れ長の目は端正で、整った面差しは、男の目から見ても一瞬見惚れるほどの美。
(……これは、たしかに)
ふと横目でレイナとフェリルを見やる。レイナは一切の揺れなく、涼しい眼差しで青年を見返している。
同じ王太子として比較されたらどうしようと器の小さいことを考えたことを恥じるヴァリス。
一方、フェリルは——目が、露骨に奪われている。
けれど、その光は“女の子”としてのそれというより、好奇心の刃を研ぐ観察者のものだった。
(あ、これ……女の子としての目じゃない。——“創作者”の目だ、これ)
ヴァリスは、ほんの少しだけミシェルに同情した。
だが、彼の隣に立つ存在は、その同情を別の驚きに変える。
同じく銀髪のエルフの少女。透けるような肌、儚げな佇まい。フェリルに似た気配がありながら、どこか神々しさの気配すら帯びている。
今度は逆にヴァリスの視線に気づいたのだろう、フェリルが小さく頬を膨らませた。
「……せっかく美少女に生まれたのに上位互換キャラに登場されたって感じ」
ヴァリスにだけ聞こえる声でのその軽口と、拗ね方が可笑しくも可愛く、ヴァリスは口許を和らげる。
そして、静かに席に着いた。
「アルヴェリア王太子、ヴァリスと申します。こちら、婚約者のレイナ。そして、エヴァレット伯爵家の令嬢、フェリルとなります」
銀髪の青年は隠すことのない声音で応じた。
「よく存じ上げております。私は、シルヴァ=ハルナ王、オギュストの第一子、ミシェルと申します。そして隣は、妹のマリー」
マリーと呼ばれた銀髪の少女は、静やかに立ち上がり、優雅に一礼した。無駄のない、美しい所作。
(王子が来ただけではない……姫君まで寄越した理由はなんだ?)
驚きは胸に留める。表へは出さない。ヴァリスはわずかに姿勢を正した。
ミシェルが、口火を切る。
「すでにおわかりのことかと思いますが、シルヴァ=ハルナにアルヴェリアに敵対する意思はありません。そして、我が尊き世界樹の神子シルファリア様の継承者たるフェリル様を害する意思もございません」
ヴァリスの胸中で、幾つもの石が静かに所を得る。やはり——フェリルが複合精霊アモンを継いだ事実は、彼の国へ伝わっているのだ。そして、害意は明確に否とされた。安心の重みと、会話の主導権を相手に握られた自覚とが、同時に沈む。
ヴァリスは穏やかに頷き、言葉を返した。
「ミシェル殿下。まずはアルヴェリアとして、シルヴァ=ハルナに謝罪を申し上げます。我が国の貴族に連なる者が、貴国へ多大なご迷惑をおかけしたこと、既に承知しております。そして、ここにいるフェリルは、その咎人の血に連なる者。しかし、彼女に罪はございません。——貴国からの申し入れについて懸念は抱いておりましたが、害意はないとのお言葉、感謝いたします」
ミシェルは眉間にわずかな皺を寄せ、短く復する。
「……咎人、ですか」
彼は息を整え、静かな声で続けた。
「やはり、大きな誤解があるようですね。もっとも、我が国も何も申し上げず、門を閉ざしてきた故、致し方ありませんが」
場の空気が一段深くなる。ミシェルは視線を落とし、しかし言葉は澄んでいた。
「ローレル様は我が神子シルファリア様を助け、限界を迎えていた世界樹とそれにより、行き場を失った複合精霊アモンの力を封印、本来は百年前に世界樹と共に枯死する定めにあった我が国を救ってくれた英雄です」
言葉を失うほどの静寂が、会合所に降りた。
レイナの睫毛がわずかに震え、フェリルの指が膝の上で固く組まれる。
ヴァリスもまた、想定していた状況と真逆の言葉を受け、驚きを隠せない。
ミシェルは続ける。端正な輪郭のまま、淡々と。
「初めからお話ししましょう。複合精霊アモンは、あらゆる精霊力を増幅させる源泉、我が国では、神子の家系がその力を代々引き継ぎ、数百年の長寿もあって、世界樹とともに繁栄をもたらしてきました」
ヴァリスは深く頷く。まさにそれは手記とその後の調査でもわかった内容だったからだ。
だが、知る言葉はそこまでだった。
「しかし、そのアモンの力を制御するべき“制御機構”たる世界樹が劣化し寿命を迎えると、強大なアモンの精霊力は暴走し、精霊災害を引き起こす——その危険が、現実のものとなりました。ゆえに、神子であるシルファリア様が命を絶ってアモンを消滅させる計画が組まれていたのです。精霊力は失われるものの、災害を選ばぬための、苦い決断でした」
レイナが息を呑む音が、静かに響いた。ミシェルはなおも続ける。
「けれど、神子シルファリア様は最後の我儘として外の世界を知りたいと願い、当時訪れていたローレル様に外界を問いました。そして、交流を深める中でローレル様は神子を救いたいと願うようになった。そして、葛藤の果て、二人は子をもうけ、アモンの力は子へ継承されました。しかし、ローレル様の願いもむなしく、アモンの存在により支えられていた神子の長寿は失われ、時を早め、老いを進めた。亡くなる前に、神子は我が子にアモンの力を抑える術式を施し、ローレル様はその子を連れてアルヴェリアへ戻られた——それが真相です」
ヴァリスは、ミシェルの語る内容に驚きを隠せない。
確かにローレルの手記と矛盾はない。これまで考えていた経緯は、あくまで推測であった。
だが、そうだとすると一つ疑問がある。ヴァリスは静かに問いを継いだ。
「……では、なぜその事情があるにもかかわらず、貴国はアルヴェリアとの国交を断たれたのでしょうか」
ミシェルは申し訳なさそうに目を伏せた。
「封印の術式は、精霊の活性化によって破られやすくなるからです。ゆえに、アルヴェリアには精霊魔法の影響が極力起きないように——我々は門を固く閉ざしました」
ヴァリスは得心した。
だからこそ、アルヴェリアにはエルフがほとんどいない。精霊魔法も、訪れる冒険者が使う程度の希少な術であり続けたのだ。
ミシェルは姿勢を正し、隣の少女へ一度、視線を送った。
「もちろん、我々もこの百年、いずれ訪れるであろうアモンの復活と、その結果生じうる精霊災害を防ぐために研究を重ねてきました。アモンの継承が起きた際に我々が気づくことができるようにローレル様へ頼み、仕掛けも施していた」
それは手記に仕掛けられていた通信魔法のことであることは想像に難くない。
そして、ミシェルは隣に佇む妹マリーへ目を向ける。
「そうして、ついにアモンの力の“受け皿”——すなわち新たな神子となれる者が生まれた。その者こそ、今日お連れした妹のマリーです」
隣に佇むマリーは、微動だにせずに礼を示す。人間離れした美しさもあり、人形を感じるような所作だった。
「我々は、長らく貴国へ押し付けてしまっていたアモンをシルヴァ=ハルナへ引き取り、消滅させる計画を進めます。先ほど申し上げたように、世界樹の枯死が免れない以上、我が国は衰退は避け難いでしょう。——勝手な願いであることは承知の上で、シルヴァ=ハルナの民の庇護を、アルヴェリアにお願いしたいのです」
重い願いだった。国家という器に、新たな水脈を通す話である。ヴァリスは胸中の引っかかりを押し隠し、言葉を整える。
アモンによる精霊災害は恐らく隣国であるアルヴェリアにも大きな影響を及ぼすだろう、そのことも交換材料として踏まえた上で、それは何とかするから、民を庇護して欲しいとの願い。
即答できる類のものではないが、拒否できるような状況ではなく、南方のベルテア王国と異なり、もとより鎖国に近い状態で、国とはいえ実態は小規模民族である以上、周辺国家を刺激することは少ないだろう。
「この場で即答はできませんが、もちろん、その願いは最大限——」
言い終える前に、椅子が小さく鳴った。フェリルが立ち上がっていた。
明らかな憤りを感じた様子で掌を強く握りしめている。
ヴァリスは、すぐにその怒りの源泉が何なのかを察した。察したからこそ——
「待て、落ち着くんだフェリル」
ヴァリスの制止は届かない。フェリルの瞳は、まっすぐにミシェルと——その隣のマリーを射抜いていた。
「私のこのアモンの力をそのマリーって子に引き継いで、その後どうするの?」
マリーは、その美しい顔のまま、微動だにしない。会合所に満ちる空気が、一段、張り詰める。
先ほどのミシェルの話の流れから、答えは聞くまでもなかった。
フェリルはつづけた。言葉は震えていない。けれど、胸の奥の熱が、はっきりと聞こえた。
「それ、何にも解決になってないでしょ!」
木壁が吐息を呑むように、沈黙が訪れた。狼狽するヴァリスとは裏腹に、レイナの視線が、静かに、二人のあいだの一点へ落ちた。
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