第24話 通信魔法と聖女の想い
朝の王城は、石壁に冷たい湿り気を残していた。西塔の執務室に差し込む光はまだ薄く、机上の紙束だけが淡く白んでいる。扉の外から二度、控えめなノック――つづいて、宗廟の書記官と学匠院の若い術理師が、封蝋の施された包みを捧げ持って現れた。
「陛下のご裁可に先立ち、王太子殿下へ写しを。宗廟・学匠院の連名にて、ローレルの手記の調査結果にございます」
「ご苦労だった。――ここでよい、置いていってくれ」
退室する二人の足音が遠ざかる。ヴァリスは封蝋を割り、最上紙をめくった。さらさらとした羽根筆の走り、整った見出し、精霊術式の図式。最初の二頁で、核心はほぼ示されていた。
一、手記に組み込まれた封印は、精霊魔法の感応式。 二、所持者の精霊力波形が閾値を超えたとき、炎の精霊――サラマンダーの局所発現を以て封を解き、紙面を書き換える機構にある。 三、今回の発火と再配列は、フェリル嬢が触れた瞬間に起こり、その波形は“複合精霊アモン”の核に近似――と、解析班は仮置きしている。
ヴァリスは唇の内側で短く息を吸う。やはり、あの火は偶発ではなかった。条件を満たした“鍵”が触れたがゆえに点火し、隠された紙面が姿を現した。
(封は、おそらくシルファリアの仕掛け……未来の子孫にアモンが継がれた時だけ、読むことを許すように)
ヴァリスは最初の頁へ戻り、改めて術式の構造図を追った。精霊感応層は四元(炎・水・地・風)の弱い律動を受け取り、一定の組み合わせ――たとえば“炎×風”の強度が閾値を超えたとき、封の符が点火する。点火は破壊ではなく「合図」であり、その熱を燃料として、紙面の再配列(古樹紙の繊維に染み込ませた微細術式の反転)を起こす。燃えたのは表層、現れたのは裏層。仕掛けとして理に適う。
だが――百年、持つのか。
ヴァリスは指先で紙の縁を押さえながら、思考を深く沈める。神聖魔法では、術者のマナが燃料だ。資質の差は大きく、修練と信仰で後天的に伸ばす道はあるが、維持の長さは術者次第だが、普通は長くても数時間だ。ザイラント教国の決戦儀式魔法聖戦は、とてつもない規模と戦争が終わるまでの維持時間があると伝え聞くが例外だろう。
古代魔法は言語や図形で人のマナを増幅し、現象を引き起こす為、素養に左右されずに習得が可能な完全な学問であり、その特性を活かして創り出した魔道具や魔導書は、長く使えるものとなることは珍しくない。……が、それでも百年後でも特定の何かに反応し、作動する仕掛けは難しいだろう。
対して――精霊魔法。
(自らのマナではなく、周囲の精霊のマナを借りる。だから、持続が効く。灯をともす、風を運ぶ、水を温める――生活に根ざすのは、理の持続ゆえだ)
思考が自然とそこへ落ちていく。百年前の誓いの延長にある、静かな配慮。だが、次の段落に目を落としたとき、ヴァリスは無意識に背を起こしていた。
報告書にはこう記されていた。――この手記に込められた封印は、単に中身を偽装していたのではなく、解除の際に火の精霊が指向性を持って発露する仕掛けであり、これは通信魔法の一種であろう、との結論である。
火はただ燃やしたのではなく、何かへ向けて合図を送ったのかもしれない。ヴァリスはページから目を離し、考える。――おそらくはシルヴァ=ハルナへ伝えるための魔法でもあるのだろう。ならば、あちらの国では既にフェリルの継承が知られていると見てよい。百年を超えて持続した仕組みが、いま子孫の反応によって開かれたのなら、それは同時に“森の都”へも報せとなったはずだ。
もう準備は充分だろう、かの森の都へ、赴くべき時だ。
* * *
報告書を読み終えたヴァリスが、ペン先で欄外に小さくまとめを書き加えていると、執務室の扉が軽やかにノックされた。
「入っていい?」
聞き慣れた快活な声。ドアが開かれると、そこにいたのはミリアだった。
いつもの修道服ではない。赤い訓練用の装束姿で、闘技場から戻ってきたばかりらしく、頬にはうっすらと汗が残っていた。
ミリアらしく健康的と言えないこともないものの、身体の線がわかりやすいその姿は、ちょっと扇情的すぎるのではないかとヴァリスは眉を顰める。
「やっほー、ヴァリス君。こっちは順調だけど、そっちは……思ったより時間かかってるね?」
「今しがた報告が届いた。どうやら、フェリルの継承については、既にシルヴァ=ハルナ側にも伝わっている可能性が高い」
「ふぅん……つまり、そろそろ“向こう”に行くタイミングってことだ」
「ああ。交渉に入る。もう間もなくだ」
ミリアは部屋の奥に歩を進めると、机に片手をつき、ヴァリスの正面に立った。
「本当は、あたしも一緒に行きたいけどね。場所が場所だし……さすがに聖女候補が行くと場がややこしくなるでしょ?」
「その通りだ。……だが、お前がいないと、不安になるな」
「なにそれ、可愛い。……そういうとこ、ずるいなぁ」
ミリアは冗談めかして肩をすくめたが、その目元には揺れるものがあった。
「ちゃんと帰ってきてよ。あたし、待ってるんだから」
ヴァリスが無言で頷くと、ミリアは少し顔を伏せ、ためらうように言葉を選ぶ。
「ねえ、ヴァリスくん……少しだけ、時間もらっていい?」
彼女の声音は、いつもの陽気さとは少し違っていた。
ヴァリスが立ち上がり、扉の鍵を軽く掛ける。
「少し、話そうか」
蝋燭の明かりが揺れるなか、二人は静かに向かい合った。
ミリアが軽く椅子に腰掛け、ヴァリスも隣に座る。
言葉は少なかった。けれど、指先が触れ合い、視線が重なると、その沈黙すらあたたかなものに変わっていた。
「ヴァリスくん……ほんと、無理しないでね」
「ミリアこそ、気を張りすぎるなよ」
どちらからともなく、肩が触れ合う。軽く寄り添うような距離感。
そして、そっと唇が重なった。
深くも、浅くもない、ただお互いの存在を確かめ合うような、優しいキスだった。
塔の外では、風が夜の王都を撫でていた。
* * *
ひとときの静寂を終えたあと、ヴァリスは執務室に戻り、机の上の整理を再開していた。ミリアは身支度を整えている。
赤の訓練着の上に、教会の法衣を羽織った彼女は、さっきとはまるで別人のようにきちんとした聖職者の顔に戻っている。
「ミリア、その上着は?」
「これが本来の姿だよ。まさか、インナーだけで外出してると思ったの?」
「……いや、まあ……」
ヴァリスの視線がどこか微妙に泳いだ。それを見たミリアは、勝ち誇ったような笑顔で、ふっと微笑む。
「どこぞの気の多い王子サマが、自分のことは棚に上げて、ねぇ」
言葉の代わりに、彼女はそっと顔を寄せて、軽く唇を重ねた。
「ほんと、無事に帰ってきてね。……待ってるから」
ヴァリスは少し驚いた顔を見せながらも、すぐに穏やかに頷いた。
「ああ、任せておいてくれ」
その翌日。まるでこの一連の準備を見ていたかのように。
シルヴァ=ハルナから親書が届いた。
――“前回の非礼を詫び、国交正常化に向けた対話を望む”。
外交使節団派遣を前に、思いがけない書簡が、王城へと届いたのであった。
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