第21話 王都への重い旅路
応接の扉が音もなく開き、エヴァレット伯と夫人が入ってきた。伯の顔色は夜明け前の空のように薄く、夫人の指先は白磁の茶器のように冷たく震えている。レイナとミリアが立ち上がり、椅子を引いた。
「殿下」
エヴァレット伯が深く一礼する。フェリルは、先に夫人の肘に手を添え、「お母様、どうぞこちらに」とそっと座へ導いた。水差しに自ら手を伸ばし、杯を満たして差し出す。憔悴を纏う父に向けた視線は、むしろ静かで、気遣いの色だけが澄んでいた。
ヴァリスは頷き、机上に封緘した緑の手記を置く。金具が淡く光り、部屋の空気が一段引き締まる。
「わかったことをお伝えします」
言葉を選ぶように、ひとつずつ。
「この手記によれば、シルヴァ=ハルナには世界樹があり、その維持には“複合精霊アモン”と結びついた神子シルファリアという存在が要でした。初代エヴァレット伯ローレルは、そのシルファリアと子を成し――その子が、エヴァレット伯の父上にあたります」
夫人が短く息をのむ。伯は唇を結び、うなずくことも忘れている。
「シルファリアは子を産んだのち、神子としての不老を失い、急速に老いた。死の前に自らを世界樹へ重ね、精霊力を循環させることを選んだ――同化、という語が使われています」
レイナの視線が手記へ落ちる。ミリアは小さく祈るように胸の前で指を組んだ。
「また、アモンの力は血筋へ継承され得ると記されますが、シルファリアは何らかの方法で継承を抑えていた。ところが、フェリルに継承が起きている」
その瞬間、レイナの体温が上がるのが部屋の空気ごと伝わってくる。
だが、フェリルは揺れない。視線はまっすぐにレイナの手元を捉え、静かに自らの手を重ねる。
「さらに、継承が生じたとき、旧い要石は役目を果たせない――新たな“要石”が必要になる可能性がある。手記はそこまで示唆しています」
言い終えて、静寂。薄い雨雲のような時間が部屋を覆い、最初に沈黙を破ったのは夫人の小さな吐息だった。
「なんて……なんてことを」
夫人の手が膝の上で強張る。すかさず、エヴァレット伯が手を重ね、低く囁く。「大丈夫だ」――その声音に、妻を気遣う夫の柔らかさと、当主の責務の両方が宿っていた。
レイナとミリアは、左右からフェリルに寄り添った。
レイナは肩へ手を回し、ミリアは膝の上の指を包む。だが、フェリルは真っ先に二人の手を握り返し、「お二人こそ……無理はしないで」と笑みを作る。
その笑みは心配を隠すためのものではなく、相手を楽にするために整えた微笑だった。
「世界樹側が実際にどうなっているかは、まだ分からない」
ヴァリスは続ける。
「フェリルが力を自覚してから、およそ十年。どの程度の時間差があるのかも読めないが、アルヴェリアとして、どのように対応するか、検討する必要があります」
重しを置くような言葉だった。レイナの瞳に火が宿る。
「どのように……ですって?!」
普段、ヴァリスに向けたことのない声色でレイナは続ける。
「当然、フェリルを犠牲になど、渡すことなど、できるはずがありません! そんなこと、考えるまでもないことです!」
椅子が小さく鳴り、レイナの声が応接の空気を震わせる。ミリアがそっとフェリルの背を撫でる。フェリルはレイナの手を両手で包み、「姉様、落ち着いて。……大丈夫」と静かな声を置く。
「落ち着くんだ、レイナ」
ヴァリスの声は低いが、硬くはない。
「エルフたちにとっても、これは死活の問題になり得る。さらに、ローレルが当時、彼らと、どのような話を交わしたのかは不明だ。手記に仕掛けがあった以上、継承者に反応する“何か”を残した意図があるはず」
ヴァリスは努めて冷静な声色となるように意識する。レイナの刺すような視線が痛い。
「いずれにせよ、この地にフェリルを留めるのは危険だ。ここはシルヴァ=ハルナに近すぎる」
レイナは悔しさに唇を噛み、ゆっくりと頭を下げた。
「非礼を……お許しください。……ですが、私は」
言葉はそこまでだった。フェリルがそっと首を振り、レイナの肩へ額を寄せる。
「ありがとう。姉様」
ヴァリスはエヴァレット伯へ向き直る。
「以上の事情から、エヴァレット伯、夫人、フェリルには王都へ同行していただきます。邸には近衛を残し、警備を固める。緑の手記は封緘のまま、私が責任を持って持ち帰ります」
「過分な配慮に、感謝いたします」
エヴァレット伯は深く頭を垂れ、すぐに顔を上げて家令に目配せした。「支度を。至急だ」
夫人は椅子から立ち上がりかけるが、伯が先に手を差し出した。「無理はしないでくれ」――妻を気遣う声音。
フェリルは二人の間に一歩進み、「お父様、私は大丈夫。お母様を」と小さく、しかし確かな声で促した。
準備は速かった。近衛の甲冑が廊下に響きを落とし、馬具の金具が遠くで合図のように鳴る。
* * *
馬車は西からの風を受けながら、王都へ向かう街道を進む。窓外の景色は樹間の影と陽の斑が交互に流れ、車輪は規則正しく石を拾っていった。
対座する席で、レイナはフェリルの肩を抱いたまま離れない。ミリアは反対側でフェリルの手を包み、時折、「水、飲める?」と小声で問う。
フェリルは二人の手を指先でとんとんと叩き、逆に気遣う。
「姉様、背もたれに寄りかかって。……ね、ミリア様も。少し休んで」
「フェリルこそ」
「私は大丈夫」
柔らかい返事とともに、フェリルの視線は向かいの席――エヴァレット伯と夫人へ向く。
伯は腕を組み、窓の外へ長く目を据えたまま、時折そっと夫人の肩を支えていた。
夫人は胸元で息を整え、静かに頷く。互いを気遣う仕草が、車内の空気をゆっくりと温める。
ヴァリスは目を閉じ、思考の糸を手繰った。
アルヴェリアの貴族が、森の民へ取り返しのつかない傷を残した――その事実は消えない。では、なぜ彼らは百年の間、沈黙を守ったのか。世界樹の維持が揺らぐほどであれば、争いを辞さず“新たな要石”を求める可能性は高い。フェリルを――。
レイナの腕にこわばりが宿るのを見て、ヴァリスは胸の奥が軋むのを自覚した。
レイナはヴァリスをよく知っている。理解している。
ヴァリスは、国に必要とあらば、大を生かす為ならば、非情を選ぶことがある人間だと――そう理解しているからこそ、彼女の視線は鋭くなる。フェリルを抱く腕に、決して緩まぬ硬さが宿る。
そして、それを否定できないからこその罪悪感が、静かに沈殿する。ヴァリスは窓外へ目をやり、深い呼吸でそれを押し下げた。
思考は父へ向かう。
ヴァリスの父であり、現アルヴェリア国王アルス。
四十代半ば、まだ壮年といってよい年齢で、内政はヴァリスと高官たちに委ね、自身は国内を巡って民の声を聴き、必要な裁可をくだす。
民の人気は圧倒的だ。理由は単純で、そして揺るがない――アルスは王であると同時に国内外に名を轟かせる最強の剣士であり、武を持って国を治める王だった。
幼い頃、父はしばしば笑って言った。「俺のような無骨者が、お前のような賢い子に恵まれるとは」――ヴァリスの手から書物を取り上げることも、頭ごなしに剣を押しつけることもなかった。
自由に改革へ踏み出せたのは、あの背が、いつでも後ろで支えてくれていたからだ。
剣を嗜むより、魔法と学問へ傾くヴァリスを、父は寂しげに見つめたときもあった。
その寂しさの矛先は、いつしかレイナへ向いた。
将来の王妃となる娘に、父は剣を教え、二人は師弟の関係になった。レイナの剣技が女性でも使いやすい細剣ではなく、似つかわしくない大剣を扱う術技となったことは、父アルスの影がある。
今回のことを、ヴァリスは決められない。
王都へ戻り、父の前に手記を置き、国としての方針を仰ぐ。
そうするほかない。そうするしかない。
窓の外、陽炎が街道に揺れている。揺れに合わせて、フェリルの肩もわずかに震えた。
レイナが腕に力を込め、ミリアは「大丈夫」と囁く。
フェリルは二人を見て、今度は本当に安心させる微笑をつくった。
ヴァリスは目を閉じ、胸の内で言葉を整える。王都が近づくたび、決断は輪郭を増し、ローレルの手記は、膝の上で静かに重かった。
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