第19話 書庫に灯る頁の輪
南の塔へ向かう廊下は、朝の光が細く伸びていた。壁の古い絵が淡く際立ち、足音は絨毯に吸われていく。ヴァリスたちは四人で歩いた。レイナは一定の歩調を保ち、ミリアは小さく鼻歌を口ずさみ、フェリルは鍵束の所在を確認するように掌を確かめていた。
塔の踊り場に小さな扉がある。そこは書庫の手前にある準備室で、簡素な机と椅子、帳面、羽根ペン、埃払いの刷毛などが並ぶ。フェリルが扉を押し開き、ヴァリスたちを中へ促した。
「ここでお待ちください。書庫は薄暗くて、火も光も使えません。本は私と家人で順次お持ちします。こちらの机で……」
フェリルはていねいに説明する。真面目な目だ。ヴァリスは小さく首を振った。
「すまない。直接、書庫へ案内してほしい」
「殿下……ですが、書庫は本の保護のために明かりがありません。火も明かりも厳禁です。行っても、埃っぽいだけで」
「大丈夫。考えがある」
ヴァリスがそう言うと、フェリルはわずかに眉を上げた。訝しむ視線がヴァリスの顔に触れる。
「それなら……わかりました。ご案内します」
準備室の奥に、さらにもう一枚の扉がある。重い取っ手に鍵を差し込み、フェリルが慎重に回す。蝶番が控えめに鳴った。
内側は、ひんやりとしていた。紙と革が吸った時間の匂いが、静かに漂う。外の光は届かない。棚の背が壁のように聳え、暗闇は密で、視界はほとんど利かない。
「では、殿下。本当に灯りは――」
「問題ない」
ヴァリスは一歩、暗闇へ踏み込み、掌を開いた。静かな息をひとつ置き、詠唱を短く紡ぐ。
「古代魔法――書灯」
掌の上で、黄色い柔らかな光が生まれる。熱は持たず、息をするように脈打つ。光は球となって天井近くへふわりと昇り、棚と棚のあいだへ均一に満ちていく。紙面は白くなりすぎず、黒インクは落ち着いたままで、光は埃を舞い上がらせない。
「この明かりは本を傷めない。大丈夫だ」
フェリルの唇が小さく開く。碧い瞳に光が宿る。ミリアは「わぁ」と声を漏らし、レイナは横顔でヴァリスを見やって、耳元でフェリルに囁いた。
「驚くのは、これからですわ」
ヴァリスは頷き、指で棚の列を示した。
「三人とも、まずは入口側から五冊ずつ。年代の古いものを優先で。持ってきたら、ここに」
「了解、殿下」
「任せてね、ヴァリス君」
「わかりました」
三人は軽やかに散っていく。各々が選んだ本を胸に抱き、戻ってきた。
「ありがとう。では始めよう」
ヴァリスは目を閉じ、静かに言葉を落とす。
「古代魔法――頁環読解」
レイナの腕から一冊、ミリアの腕から一冊、フェリルの腕から一冊。ふわりと浮く。三人が抱えた残りの本も、順に重力から離れて、ヴァリスの足元を中心に円環を描いた。背表紙の文字が淡く反射し、頁の縁が月の鱗のように並ぶ。
頁が、音も軽く、ひとりでにめくれていく。紙が擦れる細い音が、幾筋も重なって、風のようなさざめきになった。
「古代魔法――孤独の記録者」
内側に、静かな書庫が開く。読み取った文字列が沈み、索引が自動で織り上がる。ヴァリスは呼吸を崩さず、必要な固有名・日付・地名・所在を拾い、絡み合った糸の始末をしていく。
「うわぁ……何度見ても、気持ちいいね、これ。ね、王子……じゃなくて、ヴァリス君」
ミリアが小声で笑う。レイナは手慣れた動きで浮遊が終わった本を棚に戻し、代わりの本を補充する。
「殿下、次の五冊を」
「受け取った」
フェリルは、ただ見入っていた。やがて視線がヴァリスの口元に落ちる。ぽそりと呟いた声は、思ったよりもよく通った。
「……これが、王子のチート能力……」
思わず、息が喉の奥で笑いになりそうになる。胸の内だけで、ヴァリスは肩をすくめる。
(いや、普通にこの世界の古代魔法なんだがなぁ。正直、転生特典とかあれば楽だったんだけど)
古代魔法は、そもそも学問がベースにあり、読んだ魔導書の量で魔法能力が変わると言っても良い。頁環読解は、魔道具「孤独の記録者」と共にヴァリスの自慢の一つだった。
読みは加速する。辺境にしては蔵書は多い。だが、目ぼしいものは少ない。王都で既に読んだ書物が並び、どの頁にも「抜け」が目立つ。近衛としての功績は詳しいのに、任地が辺境へ移る前後だけが薄い。
「殿下、これを」
レイナが両手で抱えた一冊を示す。革表紙に、ローレルの署名が走っていた。直筆だ。ヴァリスは息を整え、頁を開かせる。
……日付順の記録。入出金、資材の購入、献立の計画、贈答の控え。資産台帳めいた淡々とした筆致が続く。
内容に目ぼしい点は無い。だが……
肩の力を少し抜き、ヴァリスは判断する。
「フェリル。これは本人の直筆だ。エヴァレット伯が戻ったら見てもらいたい。持ち出し手配を頼む」
「はい。――っ」
フェリルが手を伸ばし、手記に触れた、その瞬間だった。白く、強い光が弾けた。紙の束が音もなく燃え立ち、熱が空気を叩く。
「きゃっ!」
悲鳴が、ヴァリスへ突き刺さる。思考より先に身体が動く――はずだった。だが、ヴァリスが踏み出すより早く、レイナが飛び出していた。
「フェリルッ!」
レイナは燃える手記を素手で掴み取り、フェリルの手から引き剥がす。炎は彼女の掌に噛みつき、光は一瞬で消えた。嫌な匂いが鼻を刺す。レイナの顔が苦痛に歪む。
「ばかっ、あんた何やってんの!」
ミリアの叫びが弾ける。彼女はレイナの手を包み、すぐに神聖魔法を詠唱した。
柔らかな光が掌に差し込み、焼けた皮膚がみるみる再び織り上がる。レイナの肩から強ばりが抜け、息が少しずつ落ち着いた。
「もう大丈夫。あたしがいる限り、傷一つ残させないわよ」
ミリアの声は、いつもの明るさに戻っていた。
ヴァリスはフェリルの前に膝をつき、手を取った。指先は震えているが、肌に傷はない。
「君は大丈夫か。火傷は?」
「わ、私は平気……でも、姉様が……」
フェリルの目に涙がにじむ。レイナは首を横に振り、ヴァリスの方へ振り返って深く頭を下げた。
「殿下。ご心配をおかけして、申し訳ありません。……咄嗟に、身体が動いてしまいました」
「ミリアがいてよかった。だが、魔法で対処できた。あまり心配をかけさせないでくれ」
「はい」
レイナは短く答え、今度はフェリルの手首をそっと包む。
「貴女の手は、本当に大丈夫? 痛みはない?」
「なんでかわからないけど、なんともないです……。私が驚いて声を上げなければ、姉様にあんな思いをさせずに……」
フェリルの声が揺れる。レイナは彼女を抱き寄せ、軽く背を撫でた。
「わたくしが浅慮でしたわ。心配をかけて、ごめんなさい」
ヴァリスは視線を落とす。床に、先ほどの手記が落ちていた。だが、それはもう、燃えかすではない。
緑色の上等紙で装丁された、新品のような手記に“変わって”いた。表紙には繊細な箔押しの紋。蔵の空気が、わずかに張り詰める。
「まだ触れない方がいい。――頁環読解」
ヴァリスは距離を保ったまま、魔法で頁を開かせる。紙片がふわりと浮き、最初の見返しがこちらへ回転する。文字が、古いけれどくっきりと立っている。先ほどまでは無かった文字。
読み下す。頁が進む。心臓の鼓動が、淡くひとつ跳ねる。顔が熱を帯びるのを、自覚した。
「……なんてことだ」
思わず、声が漏れた。三人の視線がこちらへ集まる。
「エヴァレット伯の予想は、ある意味で当たっていた。ローレルの妻はエルフだ」
息を整え、ヴァリスは続ける。
「それだけじゃない。『シルヴァ=ハルナの中心にあり、国の象徴たる世界樹の依代――神子姫シルファリア』。そう、記されている」
その言葉の意味するところも記載があるが、あまりに大きな話だった。
風が止まったように、静かになった。レイナの瞳がわずかに見開かれ、ミリアは口元を押さえ、フェリルは言葉を失ってヴァリスを見つめた。
「……フェリル。至急、エヴァレット伯を呼び戻してほしい」
「……はい、すぐに」
「レイナ。伯との話が終わり次第、早馬で王都へ戻る。準備を頼む」
「承知しました」
「ねぇ、ヴァリス君。他に何が書いてあったの……?」
「詳しくは、エヴァレット伯が戻り次第、話す。だが――これは過去の貴族による醜聞なんていう言葉で済ませて良い内容ではない」
ヴァリスは緑の手記を見つめる。そこに記された内容は、アルヴェリア王国を揺るがしかねない内容が書かれていた。
とてもじゃないが、自分ひとりで判断できるような代物ではない、父であるアルヴェリア王に御報告をしなくては。
光はなお、穏やかに書庫を照らしている。けれど、棚に眠る時間は、もう静かではいられない。
頁が、どこかで、またひとつ音を立てた。
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