第18話 朝の紅茶と名が無い記録
朝の食堂には、温かなパンの香りと、ささやくような食器の音が漂っていた。窓から差し込む朝の光は優しく、目覚めきらない頭に心地よい。
ヴァリスは席につき、湯気を立てる紅茶のカップを両手で包み込んだ。静かにひと口、渋みと香りが舌に広がる。
向かいに座るレイナは微笑を浮かべ、ミリアもにこにことした表情でパンを千切っていた。どちらもすっきりとした顔で、昨夜の余韻をほのかに漂わせている。
……対して、フェリルは違った。
じとりとした視線が、こちらに突き刺さる。カップを持った手がわずかに止まりそうになるが、気づかぬふりで口をつけた。
(ああ、これ……絶対、昨夜のことを察して怒ってるやつだ)
性教育に関して、しきりに文句を言っていた彼女が、同じ部屋で共に過ごしたヴァリスたちのことを察してもおかしくはない。
いや、この顔は想像でなく確信か……。
「ヴァリス君、バターいる?」
そんなヴァリスの緊張を知ってか知らずか、元凶たるミリアが無邪気に、けれど少し小首をかしげて聞いてくる。そもそも昨晩もミリアが調子に乗ってヴァリスに悪戯をしはじめ、窘めるレイナをその気にさせ、ヴァリスはミリアをこらしめたものの、結局はレイナにすべてを持っていかれる……最近のいつものパターンだ。
「ああ、もらおう」
「はいっ、今朝のはちょっと塩がきいてるみたい」
差し出されたナイフを受け取り、パンに塗る。レイナが小さく笑みを添える。
その時だった。扉の向こうから控えめなノックの音が響き、執事が丁寧に頭を下げながら告げる。
「クラウス様がお戻りになられました」
エヴァレット伯爵、すなわちフェリルの父。食卓の空気が自然と引き締まった。
「ヴァリス王太子殿下。昨晩の不在、大変失礼いたしました。どうかお許しを」
入室したクラウスは深く頭を下げた。
フェリルとフェリルの母である伯爵夫人の語るところによると、クラウスは、領内を常に回っており、家に居ることのほうが少ないとのことだった。もともと有能で責任感が強いアルヴェリア貴族の中でも、勤勉さは群を抜いているのは間違いない。
「お気遣いなく、エヴァレット伯爵。こちらこそ突然押しかける形となり、申し訳ありません」
言葉を交わしつつ、互いに視線を交わす。クラウスの表情には、何かを語る覚悟が滲んでいた。
「先日、お送りいただいた手紙にあったエルフの国シルヴァ=ハルナの件ですが……一つだけ、心当たりがございます」
場が静まる。彼は静かに続けた。今回の確認に時間をかける気でいただけに心当たりがある、と告げるクラウスに驚きを隠せない。
「私の祖父――初代エヴァレット伯、ローレルにまつわる話です。私はローレルの子である父が、晩年になってから生まれた子で直接の面識はないのですが、父から語られる彼の姿は常に『立派な武人』としての話でした」
クラウスの声は変わらず穏やかだが、どこかしら決意を感じさせる確信めいた響きがあった。
「ですが、長年腑に落ちぬことがひとつ。祖父の妻……つまり私の祖母に関する記録が、一切残っていないのです。父から聞かされたのは、『母は自分を生んだ際に亡くなった』という言葉だけ。名も、家も、何一つ伝わっておりません」
「名すら……ですか」
レイナが目を細めた。
「はい。貴族の家系において、それは非常に異例のことです。父も何度も祖父に尋ねたそうですが、答えは得られなかったとか」
「まさか、その方が……」
ミリアが声を潜める。クラウスは頷いた。
「父は『身分が低かったのではないか』と申しておりましたが、この国において、まして辺境伯となった身で、そのようなことを気にして名すら隠すとは思えず、長年、違和感がありました。そして、今回のお話を頂いたときに祖父が王都から離れた直後に辺境伯となったこと。その経緯について繋がっているのでは、と」
彼の言葉の先を、ヴァリスは口にした。
「当時のエヴァレット伯爵ローレルが、シルヴァ=ハルナで、エルフの女性と――ということですね」
フェリルとミリアがはっと息を呑んだ。
「そう……思い至りました。確たる証はございませんが、祖父が森の国で出会い、想いを通わせた方がいたのではと。子が生まれ、それが騒ぎになり――祖父は王都に混乱を持ち込むことを避け、自ら辺境に赴く道を選んだのではないかと」
「ヴァリス君……それ、あり得るの?」
ミリアが、真剣なまなざしで見つめてくる。ヴァリスは静かに頷いた。
「エルフの寿命は人よりやや長いけれど、それほど大きな差があるわけではないし、人との間にだって子は為せる。ただし、エルフと人との間に生まれた子は、人となる。エルフとして生まれることはない」
この世界のエルフの寿命は100歳程度、人間の平均寿命が60歳ほどと考えると長寿ではあるが、大きな差ではないだろう。
アルヴェリアも公衆衛生の改善と食生活の充実により、寿命は延びているし、生活習慣の違いだけでも起きうる差だ。
「じゃあ……ほんとに、フェリルのおばあ様がエルフだった、ってことも……」
「否定はできない。ただ、それであれば、記録に残るような大事にならなかった理由が気になる」
レイナがそこで、落ち着いた声で言葉を添えた。
「アグレイア家の書庫でも、ローレル様の近衛騎士時代の記録は豊富でした。でも、辺境伯に任じられる前後のものだけが……きれいに抜け落ちているのです」
「父もそう話しておりました」
クラウスが言葉を引き継ぐ。
もしも、ローレルがシルヴァ=ハルナのエルフを強引に娶ったのであれば、当時のアルヴェリア貴族としては醜聞に近いので記録を残さないのは頷ける。
しかし、もしそんなことになっていたのであればシルヴァ=ハルナと諍いになり、よしんば当時は落ち着いたとしても、今回の国交樹立の要請に対してシルヴァ=ハルナ側から、アルヴェリアに恨み言の一つぐらいはあっても良さそうなものだ。
先ほど告げたようにエルフと人間で交われば、必ず人間が生まれる。
あちらの世界の言葉で言うなら完全な劣性遺伝だ。
異文化交流と言えば聞こえは良いが、エルフにとっては人間との交わりが行き過ぎれば、種族が維持できなくなる可能性だってありうる。
そんなことを特使として自国へ赴いた者がやらかしたとなれば、エルフたちにとって充分にアルヴェリアを責める理由になるはずだ。
だが、現時点において示されているのは”静かなる断絶”だけだ。
因果の繋がりは見えてきたが、何か肝心なパズルのピースが欠けてしまっている……クラウスも自分の推定に釈然としないものを感じているようだった。
「ですから改めて、この家の書庫にある古い記録も含め、殿下にご覧いただきたく」
そう言って取り出されたのは、重厚な鍵束。いくつもの鍵が、鈍く光を反射する。
「伯爵家の記録庫の鍵です。一般資料のほか、特別に保管されている文書区画のものも含まれております。殿下の目で、ご確認いただきたい」
「……感謝します。責任をもって拝見させていただきます」
「フェリル」
クラウスが娘に目を向ける。フェリルは、静かに立ち上がった。
「殿下のお手伝い、させていただきます」
「よろしく頼む。私は領内の古跡を回ってまいります。祖父ローレルが関わった痕跡が残っていないか、もう一度、見てまいります」
「ご協力に感謝します。何かあれば、すぐに知らせてください」
クラウスが深く一礼し、食堂を後にする。残されたヴァリスたちは、互いに小さく頷き合った。
「じゃあ、書庫行ってみよう? 暑くなる前に」
ミリアがにこっと笑う。
「鍵もいただきましたし、今がいいかもしれませんね」
レイナの声に、フェリルも頷く。
「案内します。南の塔の二階、書庫は朝の光がよく入る場所です」
手のひらの中の鍵束を見つめる。名も記されなかった祖母、空白の記録、そして繋がってゆく静かな謎。
――すべてのピースが見つかれば良いが。
廊下の窓から差す光が、淡く揺れていた。
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