第17話 幕間:風の妖精と銀髪の乙女
ヴァリス王太子殿下、レイナ姉様、ミリア様を迎えての伯爵家での夕餉を終えた。
本格的な話し合いは、父であるエヴァレット伯爵が領地の村の視察より戻ってからということになり、三人を客室まで送った後、私は早々に自室へ戻っていた。
今宵の空はよく晴れていて、窓越しに見える星々は冴え冴えと輝いている。けれど胸の奥に残った熱は、冷たい夜気を浴びたくらいでは醒めてくれそうになかった。
――ヴァリス王太子殿下。
彼と静かに対峙した、あの時間が何度も胸の中で反芻される。
彼は、自分が前世で坂上竜介という名の地方公務員だったと語った。
私の方も、園村優子として現代日本で暮らしていた記憶を十歳の頃に思い出していて――そして今、この世界でフェリルという存在として生きている。
彼と私。
あの物語――『王冠と純潔の檻』を書いた作者と、その物語の中で悪役王子として描かれた人物。
本来なら決して交わらないはずの二人が、今こうして同じ現実を共有している。
まるで小説の中に入り込んでしまったような、不思議な錯覚。
けれど、彼の言葉は確かに現実だった。
「君も、『王冠と純潔の檻』を知っているのか」
そう尋ねた彼に、私は答えた。
「ええ。知っているわ。でも……たぶん、あなたの思う“知っている”とは違う。あの物語は、私が書いて投稿していた作品だもの」
彼が驚いていたのは無理もない。
私自身、あの言葉を口にするとき、胸の奥がぎゅっと締めつけられるようだった。
もともと『王冠と純潔の檻』は、どこにでもあるWEB小説だった。悪役令嬢として扱われるレイナ姉様を中心に、ちょっと意地悪な王子を反面教師として据えて、読者の好みに合わせた“ざまぁ”系のストーリー。
それでも私は、あの物語が好きだった。
何より、書いている時間が楽しかった。
だからこそ、あの世界に似たこの場所で、登場人物たちと瓜二つの人々に囲まれて、気がつけばその中に自分も“登場している”ことに、最初は混乱もした。
けれど、それでも時が経ち、私はフェリルとして育っていった。
レイナ姉様は、物語よりずっと優しくて聡明で、美しくて。
ミリア様は、無邪気で天真爛漫で、けれど芯の強さを秘めていた。
この世界は、あの小説よりもずっと豊かで、あたたかくて、本物だった。
でも……
それでも心のどこかでずっと思っていた。
「この世界に、自分ひとりだけが取り残されているのではないか」と。
けれど、彼と話して。
同じように“こちら側”の人間だったと知って。
私は、やっと――ひとりじゃなかったんだと、そう思えた。
「……だめ、こんなの、あのスケベ王子の思うツボじゃない!」
自分の頬をぺちりと叩いて、熱くなった思考を冷まそうとする。
成人している以上、恋だの愛だのに惑わされてはいけない。貴族としての自制と矜持を持たなくては……。
……と思っていたのに。
思い出されるのは、三人の様子。
レイナ姉様とヴァリス殿下は婚約者同士。
それに、ミリア様が「あたしも一緒でいいよ〜」と、何のためらいもなく同じ部屋へ入っていった姿。
あの三人の間には、きっと深い信頼と、それ以上の結びつきがある。
少しだけ胸の奥がちくりと痛む。
「えっちなこと、してないでしょうね……?」
呟いた自分に、また顔が熱くなる。
……いや、していてもおかしくない。むしろ、していないほうが不自然かも……?
「これはあくまで、この家の秩序を守る為に仕方なく……そう、仕方なくなんだから」
言い訳のように呟きながら、私はそっと手をかざした。
空気がふわりと揺れ、石造りの犬の人形――“コマちゃん”が姿を現す。
「お願いね、コマちゃん」
私がそう声をかけると、犬の人形は柔らかな光を放ち、緑の妖精のような姿へと変化する。
くるりと一回転したあと、音もなくドアの隙間を抜け、闇の中へと消えていった。
コマちゃんは、私だけが見える存在。
前世の記憶を取り戻したのと同時に顕現した、いわゆる“転生特典”――チート能力。
普段はただの置物のように見えるけれど、頼めば視覚や聴覚を共有することもできる。妖精のようになったり、ちょっとした明かりを灯したりもできるこの魔法みたいな存在。
もちろんこの能力のことは、誰にも話していない。
今となっては、それが正しかったのだと思う。
ヴァリス殿下にも、似たような能力があるのだろうか。もしかしたら、コマちゃんの存在も彼には見えるかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えながら、私は椅子に腰を下ろし、コマちゃんの視界と聴覚に意識を重ねた。
* * *
ほんの一瞬で、空間が切り替わる。
あの部屋。客間のひとつ。
レイナ姉様とミリア様、それにヴァリス殿下の姿が、コマちゃんの視界に映った。
……どうやら、三人はすでに寝間着姿。
けれど――その空気は、どこか親密すぎて、胸がざわつく。
レイナ姉様がヴァリス殿下の肩に寄り添い、ミリア様がその膝を枕にして笑っている。
距離が近い。
頬が触れ合いそうなほどの距離で、互いの視線が交錯し、囁き合うように微笑み合っている。
衣擦れの音、少し高めの笑い声。
何気ない仕草の中に、たしかな“親密さ”があった。
「……わ、私、何見てるのよ……」
慌てて同調を切り、意識を自室へ戻す。
頬が熱い。
胸がどきどきしている。
レイナ姉様と、ミリア様。
彼女たちは、心からヴァリス殿下を信じ、そして受け入れている。
そんな様子を、コマちゃん越しに“見てしまった”ことに、私はひどく動揺していた。
でも……不思議と、嫌ではなかった。
むしろ、少し羨ましいと思ってしまった。
「……もうホント、ヴァリス殿下、恨むよ」
無自覚で人の心を揺さぶって……。
処女のままの私が、こんなに感情を振り回されるなんて。
「これは、“教育の成果”ってやつなのかしら」
そっと笑いながら、私は目を閉じる。
この先、私がどこへ向かっていくのかは分からない。
けれど――
もう、独りではない。
そう思えるだけで、心の奥が少しだけ、軽くなった気がした。
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