第16話 転生令嬢
客間の灯りは穏やかに揺れ、香ばしい茶の湯気が空間に満ちていた。窓の外はすでに宵を迎え、城壁の影が長く濃く延びている。
向かい合うソファに、俺と――園村優子、今はフェリルとして生きる彼女が静かに腰を下ろしていた。交わす言葉はまだない。ただ、お互いが呼吸の調子を測りながら、どこから切り出すべきか思案している、そんな沈黙だった。
最初に口を開いたのは、フェリルのほうだった。
「……思い出したのは、十歳のとき」
伏せられたまなざし。指先を膝の上でそっと重ね、長い睫毛の影がその頬に静かに落ちる。
「ある朝、ふと起きたら、頭の中に二つの景色があったの。ひとつは森と城壁と騎士のいる世界。もうひとつは、満員電車とコンビニのスイング扉、蛍光灯の白い光。……私が暮らしていた、あの世界」
「十歳、か」
「ええ。その頃には、王子様はもう名前を聞くたびに『また新しい施策を』って話題になっていて。私は、混乱したし、怖くもあった。だって、十歳の子どもにとって“二つの現実”は重すぎるでしょう?」
「……分かる気がする」
彼女は短く首を振ったが、その声には微かに震えが混じっていた。
「あなたは、いつ?」
「俺は、生まれたときからだ。赤子のころにはもう“向こう側”のことを覚えていた」
驚きが、はっきりとその瞳に浮かんだ。
「そんな……最初から? 赤ちゃんのときに?」
「だから、俺には『この世界にどう馴染むか』が課題だった。君は十歳で二つを繋げることになった。……負荷の質が違う」
フェリルは小さく息を吐くと、視線をテーブルへ落とした。
「記憶を取り戻して最初にしたのは、確認だったの。私が慕っていたレイナ姉様が、物語の主役で、しかも私が生み出したキャラクターだって知って……足元がぐらついた。でも、姉様は――」
そこで言葉が途切れ、彼女はかすかに笑った。
「私の知っている物語の姉様以上に優しくて、そして、あなたの話ばかりするの。会うたびに。うんざりするくらい、幸せそうに」
「……そう、か」
「物語で私が“悪逆王子”に書いたあなたは、現実では名君で、ミリア様の病はあなたの政策で回復していて。救われた人がたくさんいる。……私は分からなくなった。私の書いた“王冠と純潔の檻”と、ここで動いている現実が、あまりにも違いすぎて」
彼女の指先が、小さくほどけては、また静かに重なっていく。
「辺境伯家って、何も困らないの。心配してくれる優しい両親がいて、姉様は頻繁に手紙をくれて、時々会いに来てくれて。だから余計に、動けなかった。何かをすれば物語が歪むのか、救いようのない未来が来るのか、判断できなかった」
「俺の施策が“向こう”の匂いを連れてくるのも、怖かった?」
「……ええ」
その頷きは、戸惑いも恐れも、正直に滲ませていた。
「上下水、衛生、教育。手触りが、日本の理屈に似ている。あなたが何者か、ずっと考えた。だけど答えに踏み込めなかった。レイナ姉様を巻き込みたくなかったし、私自身も、確信のないことを口にしたくなかった」
彼女のまなざしが、真正面から俺を捉えた。
「でも、レイナ姉様から辺境に来るって知らせを受けた時、決めたの。……姉様とミリア様には聞かれたくなかった。だから一人で王都に来た」
声の端がかすかに揺れる。
「今日、ここに来て、あなたと話して――やっと分かったの。“園村優子”も、私の記憶の日本も、妄想じゃなかった。ずっとね、怖かったのよ。十歳の子どもが悪い夢を長く引きずっているだけなんじゃないかって。長い長い孤独だった。誰にも話せなかった」
涙が、静かにその瞳に滲んでいく。
彼女は涙を、ただ静かに、袖の内で拭った。
「……ありがとう」
その声は、震えて、けれど確かに届いた。
「ようやく、ここに私がいるって思えた」
言葉の代わりに、俺はゆっくりと頷いた。
「このことは――転生のことは、レイナやミリアにも伏せておきたいんだが。これからも。いいかな?」
「もちろん。最初から、そのつもりだったから、姉様たちを謀ってまで一人で貴方に会いに来たの」
「それとは別に」
ヴァリスは言葉を探し、やや照れながら続けた。
「同じ故郷を持つ者同士、これからも親しくしてくれると、うれしい」
フェリルの瞳が、一瞬驚いたように揺れた。
そして次いで、皮肉のような、こぼれる涙のような微笑み。
「……そうやってレイナ姉様も、ミリア様も篭絡したのね」
ふいと横を向いた彼女は、拭った涙のあとでこちらを真っ直ぐに見返してくる。
「でも、ひとつだけ、どうしても貴方に聞きたかったの」
「うん」
「“性教育の義務化”って何?」
思わず口を噤んだ。
「……国家の礎だと思ってる。無知で傷つく人を減らしたかった。だから、避けずに“正しく”教えるべきだと」
フェリルは、呆れたような目で俺を見た。まるで品定めするように。
「まあ、スケベ心がなかったと言えば嘘になるけど」
「だろうと思った」
溜息とともに、肩がわずかに落ちる。
「おかげで、私の書いた“純粋で純情で真面目”なレイナ姉様が――いえ、それは今も変わらないどころか、より素晴らしさが増しているけれど――あんなに“性教育に積極的”になるなんて想像してなかったわよ!」
「……あれは俺も想定外だった」
“純粋で純情で真面目”なレイナが、あの方向に振り切った結果についてはヴァリスは身をもって知っている。
それと同時に、ふと脳裏をよぎる、嫌な予感。
「……もしかして、君もレイナの性教育の餌食に――」
「うっさい! 想像しないで!」
透き通るような白い頬を一瞬で赤くして、身を乗り出し、机を叩いて怒鳴ったフェリルに、俺は肩をすくめるしかなかった。
けれどその直後、彼女はくすりと笑った。ほんの少し、重かった空気が緩んでいく。
「まあ、いいわ」
立ち上がった彼女は、淑女の所作で優雅に礼をとる。
「ヴァリス殿下、今後ともよしなに」
「こちらこそ、今後ともよろしく、フェリル」
触れ合った指先に、ほんのわずかな温もりが残った。
* * *
翌朝。城門を出ると、空は高く澄み、街道には乾いた土の匂いが漂っていた。馬車の車輪が石を弾くたび、小さな音がリズムを刻みながら続いていく。俺とフェリルは最小限の供を連れ、西へと向かっていた。
しばらく揺れに身を任せていた俺は、ふと思い出したように、手元の地図を広げた。指先が自然と、西端――森のふちをなぞる。
「エルフの森と、エヴァレット家の関係……何か、聞かされている?」
向かいに座るフェリルが、そっと首を横に振った。
「知らされていないわ。……私が書いた物語でも、特別な設定は何も考えていなかった。」
フェリルは早口で続ける。
「貴方も読んで覚えているなら、知っての通り“王冠と純潔の檻”は、手慰みに書いてみた悪役令嬢のレイナ姉様をただひたすら愛でるだけの話で、私が読みたいものを書くだけのつもりで、彼女を中心に見目麗しい令嬢たちが悪逆王子をダシにキャッキャウフフするだけの話のつもりだったから、世界観とか、設定とか、あまり考えずに書いたのよ!」
「なんか、そう言われると身も蓋もない話だな……」
「素人のWEB小説なんて、そんなものでしょ」
それはその通り、と首肯しつつ、それでも男の自分が結構楽しく読めたのだから大したものだ、と思う。
結論的には、エルフに関する記述は、彼女の考えた物語にはなく、そもそもやはり登場人物の名前ぐらいしか共通点はない、という話だった。
「そうか」
百年前の“結果未詳”という謁見記録。帰還後に与えられた新たな伯爵位。そして、王都から離れた辺境への配置転任。点は揃いつつあるのに、未だ線として繋がってはこない。
馬車の窓から覗く風景が、徐々に山深くなっていく。緑は深く、空気もひんやりとしてきた。
* * *
エヴァレット伯爵家の城館は、山裾に寄り添うようにして静かに建っていた。石造りの壁は朝の陽に照らされ、白く淡く光を反射している。正門の上には、伯爵家の家紋がくっきりと刻まれていた。
城門が開くと、そこに待っていたのはレイナとミリアの姿だった。旅装の上から外套を羽織ったふたりは、馬車の到着に気づくとすぐに駆け寄ってくる。
「フェリル!」
レイナの第一声には、隠しきれないほどの心配がにじんでいた。そのままためらいなく、フェリルを抱きしめ、肩に頬を寄せる。
「よかった……無事で。何かあったのではと、ずっと気に病んでおりましたの」
突然の強い抱擁に、フェリルはわずかに目を見開いたものの、すぐに安心したように目を細め、そのまま受け入れた。袖口をぎゅっとつまむ指先が、かすかに震えていた。
「ごめんなさい、姉様。……迎えに行ったら、行き違いになってしまって」
やんわりとした嘘。だがレイナは、その言葉の奥に何かを察したように、何も言わずにそのまま抱擁を解かず、腕の力だけを少しだけ強くした。
「無事なお顔を見られて、ほっとしました。あまり心配をかけないでくださいまし」
ミリアは、レイナの隣で満面の笑みを浮かべた。
「フェリル! 久しぶり! ね、後でお茶する時間、作ろう」
「ええ、ぜひ」
三人のやりとりを少し離れたところで見守りながら、俺は胸の内に張り詰めていた緊張が、じわじわとほどけていくのを感じていた。
レイナが、どれほどフェリルを大切に思っているのか。その想いが、今のひとつの抱擁に、すべて込められていた。
同時に、俺の胸の奥には、踏み込むべきもうひとつの問いが残っていた。
――エヴァレット伯爵家には、何が秘められている?
――エルフとの関係は?
城門の奥、ひんやりとした石の回廊へ足を踏み入れながら、俺はその問いを胸の内にそっと仕舞った。
答えは、きっと――この先にある。
感想、ブックマーク、高評価を頂けると励みになります!




