第15話 王冠と純潔の檻
朝の政務室には、薄く差し込む光と、淹れたばかりの茶の香りが漂っていた。窓越しに覗く空はやや雲がかかり、秋の陽は柔らかに文書の上を照らしていた。
「――百年前、アグレイア侯爵家の者が森へ入っていたようだ」
机越しに告げると、レイナが小さく目を見張り、ミリアが椅子の背に寄りかかったまま、ゆるく片眉を上げた。
「アグレイア侯爵家の……? それは初耳ですわ」
「へえ……そういう話、あったんだ。記録に残ってたの?」
「正式な外交記録ではない。雑書に埋もれていた。最後の“結果”が記されていなかったから、外務の棚に上がらなかったんだろう」
ヴァリスは指で頁をなぞりながら続けた。
「記録によると、森へ謁見に向かったのは、当時のアグレイアの次男。のちのエヴァレット伯爵家の初代だ」
「エヴァレット伯爵家の……」
レイナがぽつりと呟いた。
「それで、エヴァレット辺境伯に話を聞きに行きたいと思っている。エヴァレット領へ行く手筈を整えてくれないか」
ヴァリスの言葉に、レイナははっと目を輝かせ、うれしそうに笑った。
「もちろんですわ、殿下。やっとフェリルをご紹介できますもの」
「ふふ、ヴァリスくん。気をつけたほうがいいよ? フェリル、すっごい美少女だから。色気出したらダメ。この美人二人で満足しておきなさいね?」
ミリアがからかうように笑うと、レイナは首を傾げながら、穏やかな笑みで返す。
「でも、もし殿下とフェリルが望むなら……私は否はありませんわ。むしろ喜ばしいくらい」
「うわぁ……レイナには敵わないなぁ」
ミリアは肩をすくめて笑うと、わざとらしく溜息をついて言った。
「じゃあ、三人相手になっても、ちゃんとあたしが回復させてあげるから……」
真面目な顔のまま、冗談にいつものような反応を返さないヴァリスにミリアが口ごもる。
「ごめん、聞いてなかった」
レイナが少しだけ表情を曇らせ、ミリアが首を傾げた。
「……ヴァリスくん、いつもより真面目、っていうか……何かあったの?」
ミリアに続いてレイナも不思議そうに声をかける。
「気のせいかもしれませんが……ちょっと雰囲気が違うような」
気遣うようなレイナの声にヴァリスは、あえて明るく振舞ってみせる。
「準備のことで考えてただけだよ」
そう答えながら、ヴァリスは視線を落とした。
――できれば、フェリルと二人きりで話をしたい。
言う必要のないことは、言わない。これまでも、これからも。それが、彼の中で守ってきた線だった。けれど、もしフェリルとの間で何かが起きれば、いずれはその線を越えてしまうのではないか。
いや、それでも……
「レイナ、手筈、頼んだ」
「承知いたしましたわ」
レイナの返事は変わらず柔らかく、けれどその眼差しには、わずかに探るような色が浮かんでいた。
* * *
出立前日。
エヴァレット家からの受け入れの返答も済み、明朝には旅立つ段取りだった。
レイナはすでに王都を発ち、現地での調整に向かっている。ミリアも同行しており、「フェリルがミリアにも会いたいと言っていた」という伝言をレイナ経由で受け取っていたという。
政務を終えて机の上を整理していたところに、控えていた近侍が一歩進み出て、深く頭を下げた。
「殿下。フェリル・エヴァレット伯爵令嬢が、ただいま王都に到着いたしました」
その言葉に、ヴァリスの指が止まった。
「……彼女が?」
「はい。謁見を希望されております」
――このタイミングで、二人が不在の王都に。
まるで測ったような訪問。偶然と呼ぶには、出来すぎている。いや、これは……意図的だ。
(レイナとミリアを、意図的に遠ざけた)
その確信が胸に灯ったと同時に、ある種の安堵すら覚えていた。
(……やはり、彼女も)
転生者。
ヴァリスと同じように、この世界に来た者。
彼女が二人を遠ざけた上で、今この場に訪れたということは、フェリルも、あの二人にはまだ明かすつもりがないということだ。
腹を割って話すには、都合がいい。
「丁重にお迎えして、この部屋へ」
「はっ」
扉が閉じる音が響き、室内には静寂が戻った。
指先がじんわりと汗ばむ。掌が少しだけ震えていた。
落ち着け。呼吸を整えろ。これは、ずっと想定していたことじゃないか。
それでも、心のどこかに、理解が追いついていない部分があった。
* * *
扉が開いたのは、それから数分後だった。
一歩、また一歩。
音もなく入ってきたのは、ひとりの美しい少女だった。
緑を基調とした上品なドレス。過剰な装飾はないのに、全体の印象には品格が宿っていた。銀色の髪は柔らかく肩から背へ流れ、頬をかすめる前髪が光を受けて淡く揺れる。
そして何より目を引いたのは、紅玉のような赤い瞳だった。
その瞳が、まっすぐにヴァリスを見つめていた。
――あまりに、儚い。
触れれば壊れてしまいそうなほどに繊細で、けれど、その立ち姿には確かな意志があった。
年齢は、二十歳を越えているはずだ。俺と同い年のはずなのに、目の前の彼女は時間の流れから少しだけ外れて存在しているように感じた。
彼女は静かに膝を折り、完璧な礼を見せた。
「エヴァレット伯爵家のフェリルと申します。ヴァリス王太子殿下には、お初にお目にかかります」
「……ああ」
声がわずかに遅れて出た。自分でも驚くほど、喉が乾いていた。
「王太子のヴァリスだ。君のことは、アグレイア侯爵家のレイナから聞いている」
彼女は目を細め、静かに一礼し、促されるままにソファへと腰を下ろした。
ヴァリスも向かいに座る。
室内には湯気を立てた茶器が用意されていたが、手を伸ばす余裕はなかった。
目の前の彼女が、あまりにも静かだったから。
呼吸を整える。
――今しかない。
「私は……」
言葉が一度、喉でつかえた。
「……いや、俺は坂上竜介。三十五歳の、しがない地方公務員だった。……君の名を教えてくれないか?」
沈黙。
けれど、それは拒絶の沈黙とは少し違っていた。
それでも、胸の奥がきゅっと強張る。
――先走ったか? まだ確信がなかったのに、転生の事実まで切り出すべきではなかったのでは?
不安がわずかにのどを締める。心臓がひとつ、間の悪いタイミングで脈を打った。
……だが、その赤い瞳は、拒絶よりもずっと深い思慮の色を湛えていた。
彼女はそっと瞼を細め、一つ、静かな息をついたあと、ゆっくりと答えた。
「園村優子。歳は……言いたくないけれど、あなたより少し年上ね。都内で商社の事務員をやっていたわ」
その瞬間、時間が少しだけ止まったような気がした。
ようやく、ここまで来た。
ヴァリスの胸の奥で、長く張り詰めていた糸が静かにほどけていくのを感じた。
フェリル――園村優子は、微笑んだ。
「やっぱり、王子様は予想していたみたいね。私も、“知っている王子様”との違いに、ずっと疑ってはいたけれど」
もちろん原作となるWEB小説を知っていれば、当然思う疑問だろう――
「君も、『王冠と純潔の檻』を知っているのか」
ヴァリスの問いに、フェリルは一瞬だけ瞳を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とし、湯気の揺れる静かな空間に、彼女の沈黙がひときわ深く沈む。
「ええ。知っているわ。でも……たぶん、あなたの思う“知っている”とは違う」
その声は穏やかでありながら、どこか含みを帯びていた。
「? それは、どういう……」
わずかな間。赤い瞳がゆっくりと持ち上がり、まっすぐにヴァリスを捉える。
「その物語、――『王冠と純潔の檻』は、私が書いて投稿していた作品だもの」
言葉の意味を受け止めるのに、少しだけ時間がかかった。
今度はヴァリスが、黙り込む番だった。
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