第14話 過去から訪れた決断
城下の空に、午前の鐘がひとつ鳴った。
ヴァリスは執務室の窓から、ゆるやかに開かれていく城門を見下ろしていた。使節団が戻ってくる合図だった。石造りの扉の向こうには、整えられた中庭が広がり、朝日を浴びて濡れた石畳が淡く光っていた。秋の風はやや冷たく、空の色はどこか張り詰めて見える。
扉の先に広がる中庭では、出迎えの衛士たちが静かに列を整えていた。彼らの緊張した面持ちは、これから届けられる報せの重さをすでに察しているかのようだった。
足音が近づき、書記官が扉を控えめに叩いた。
「殿下、シルヴァ=ハルナへの使節が帰還しました。報告と親書を携えております」
「わかった。こちらへ」
ヴァリスが短く答えると、すぐに三人の使節が入室した。旅路の疲れを隠しきれない顔には、複雑な感情が滲んでいた。書記官に促されて提出された封書には、淡い緑の蝋が丁寧に押されていた。シルヴァ=ハルナからの返答、それだけで室内の空気が一段と張り詰める。
「差出人は?」
「シルヴァ=ハルナの代表、オギュスト殿です」
封を解くと、中から現れた文は端正で、余白もたっぷり取られていた。整った筆致のその文章には、明確にこう綴られていた。
『我らは均衡を重んじ、自然の流れを乱す意図あるものと、国としての交わりを望まぬ』
丁寧な文体ではあったが、言葉に込められた意志は明白だった。国交を結ぶ意思はない。わずかな希望を託した往復だっただけに、その拒絶は静かでありながら、深く突き刺さるものがあった。
使節の代表が顔を伏せたまま言った。
「丁重なもてなしこそ受けましたが……これ以上の進展は、ございませんでした」
その報せは、王都の一部に小さな波紋を広げた。
特に、若い近衛騎士たちの一部が、目に見えて苛立ちを募らせていた。
「殿下の名の下に訪れたというのに……これは、ヴァリス王太子の顔に泥を塗ったも同然だ!」
「森の礼節とはこういうものか? 言葉では丁重、実際は門前払いと変わらぬ」
そんな声が、訓練場の片隅でちらほらと交わされていたという。彼らにしてみれば、王太子の名が正式に掲げられ、国の威信をもって赴いた使節が、明確な拒絶を受けたという事実は、屈辱以外の何ものでもなかったのだろう。
それを耳にしたミリアは、少し苦笑しながらヴァリスにこう告げた。
「レイナがね、ちゃんと皆を窘めてた。『礼が足りなかったのは、こちらのほう』って」
「……そうか」
「でもね、たぶん……いちばん怒ってるの、レイナだよ」
ヴァリスは何も言わず、ゆっくりと目を伏せた。
彼女のまっすぐな律儀さも、内に秘めた責任感も、ヴァリスにはよく分かっていた。だからこそ、申し訳なさと悔しさがないまぜになって、言葉が出なかった。どんなに丁重な書きぶりであっても、それが“拒絶”であることに変わりはなかった。
*
その夜、ヴァリスは王都の奥に構えられた静かな文書庫にいた。
高い天井と古い石の壁に囲まれた空間には、羊皮紙とインクの乾いた匂いが漂っていた。明かりは控えめで、魔導灯が棚と棚の間にゆらめくように灯っている。
数名の政務官たちが、ヴァリスの指示に従って黙々と文書を運び出し、分類と照合を繰り返していた。
外交文書の棚には、過去の王家からの親書や、他国とのやり取りの記録がずらりと並んでいる。けれど、シルヴァ=ハルナとの確かな接点を示す記録は、なかなか見つからなかった。
「外務の記録では、儀礼的な往復が数件。それも、すべて数十年以上前のものばかりです」
「交渉になったものは?」
「見当たりません。全て、形式だけで終わっております」
行き詰まりを感じたヴァリスは、範囲を外交以外の分類にも広げるよう指示した。
「家門の移動、恩賞の記録、過去の巡察……周縁から攻めよう。何か見落としているはずだ」
棚の奥から、一冊の薄い文書が持ち込まれたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
「殿下、こちらの記録をご確認ください。分類は雑書に紛れておりましたが、書式が外交文書に類似しております」
ヴァリスは手袋を外し、慎重に表紙を開いた。
> 『西方大森林 エルフ長との謁見について』
記録は、今からちょうど百年前のものだった。
驚くほど丁寧な筆跡で、旅程や随行者の人数、立ち寄った村の名前までが詳細に記されていた。焚き火の配置、食糧の配分、森へ入る際の儀式的な手順まで、事細かに記されている。
ただ、一つ。
記録の最後――謁見の“結果”の欄だけが、ぽっかりと空白のまま終わっていた。
「おかしいな……これほどの丁寧な記録が、なぜ外交棚にない」
「はい。末尾に『結果未詳につき暫定保管』と、筆録官による注記があります。どうやら報告が未提出のまま、処理されたようです」
「謁見に向かった人物は?」
「当時の近衛騎士団長でもあり、アグレイア侯爵家次男のローレル殿です」
その名を聞いた瞬間、ヴァリスは息を止めた。
ローレル――レイナの曽祖父の弟。現アグレイア侯爵家から見れば大叔父にあたる人物だった。
さらに、記録を追っていくと、帰還後の彼は王命により新たな伯爵家を賜り、王都を離れて西方辺境を預かる身となっていた。
その家名は、エヴァレット伯爵家。
(……なんてことだ)
ヴァリスは思わず手を止め、顔を伏せた。
ここに来て、この名前を見ることになるとは。
フェリル=エヴァレット。
その名を、ヴァリスは良く知っている。
もちろん、アグレイア侯爵家の分家であり、レイナが妹のように可愛がっていることも知っている。
だが、印象として残る、彼女の名はレイナの可愛がる妹としてではない。
ヴァリスの記憶――前世で読んだWEB小説『王冠と純潔の檻』の中に登場する“転生令嬢”。
物語の中で彼女は、OLだった前世の物語の知識を使い、悪役令嬢のレイナを助け、悪逆王子ヴァリスを糾弾し、追放する主人公である。
ヴァリスは、だからこそこれまで接触を避けてきた。
レイナからの紹介の話についても、上手く躱して、距離を保ち、フェリルが王都にいないことを理由に、あえて関わらなかった。
そして、当のフェリルも、これまで一度も、ヴァリスの前に現れなかった。
レイナとの婚約に口を挟むことも、妨げようとすることもなかった。
どこまでも沈黙を保ち、彼女自身も一定の距離を維持していた。
だからこそ、確証が持てなかった。
彼女も転生者なのか。
今、彼女は何を思っているのか。
ずっと避けて通れることはないとは思っていたが、こうしてエヴァレットの名に行き着いた以上、勇気を出して接触する良い機会とも言える。
執務室の窓の外では、街灯の灯りが一つ、また一つと点されてゆく。
ヴァリスは机上の白紙の書状を見つめたまま、長い沈黙を落とした。
――ついに会うことになるのか。
迷いはまだ胸の奥に燻っている。それでも、一歩踏み出さねばならない時が来ていた。
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