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悪役令嬢モノの王子に転生したので知識チートで令嬢たちを幸せにします  作者: 鳴島悠希


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第12話 瓶の中の静かな事実

レイナが発ってから三日が過ぎ、王都に届いた封緘瓶を受け取ったのは、昼過ぎのことだった。


執務机の上にそっと置かれた瓶は、静かに揺れながら、微かに濁った湯の色を覗かせていた。密封された栓を慎重に外すと、仄かに漂うのは、重い鉄のような匂い。澄んだ水のはずが、どこか粘り気を感じる液体が、内壁に沿ってゆっくりと流れ落ちていく。


ヴァリスは、瓶の底を目で追いながら小さく息を吐いた。


「やはり……」


ぬるい湯。循環の滞り。清掃の頻度不明。

条件は整いすぎている。


レジオネラ。そう呼ばれていた菌の名が、遠い記憶から浮かび上がる。あれは確か、ヴァリスが水道局に勤務していた頃だった。高齢者施設の大浴場で連続して発生した肺炎――原因は、貯湯槽に潜む細菌の繁殖だった。


とはいえ、ここは異世界。


そもそも、この世界に“菌”という概念が存在するのかすら定かではない。

培養技術もなければ、顕微鏡もない。


ただ、レイナより連絡を受けた“現象”は、あの時とあまりに酷似していた。


問題の村に限って、咳が子どもと高齢者に集中していること。

湯を張り替える頻度が曖昧なまま、底石にはぬめりがあり、加熱も十分とは言えないという聴取。


それに……王都の浴場では、これまで何年も、こうした事例は一度たりとも発生していないのは、人が多く、浴槽は毎日洗われ、湯も頻繁に入れ替わる。

規模と頻度の差、言葉を変えれば、清掃と流通の差だろうと予想する。

普通に考えれば、そうだろうという結論となったが、何せここは異世界、さらには、地方領域はまだまだ魔物などの未知が多い。安易な判断は危険に思えたし、今後もすべきではないだろう。


「……確証はないが、対策の方向は見えた」


ヴァリスは瓶を再び密封し、書類棚の下段から用意していた一式を取り出す。


手製の図と簡単な説明文、それに封緘用の新しい念書用紙。

今回、指示として送り返すのは三点だった。


ひとつ。浴槽の湯を毎日入れ替えること。

ふたつ。底石を毎朝、刷毛でこすり清掃すること。

みっつ。村で保管している農業用の生石灰を水で溶かし、消石灰に変えて、底石の清掃時に散布すること。


清掃後、翌朝に湯を流し、新湯に張り替える。これを、症状が収まるまで継続すること。


ただ、石灰には限りがある。


使えば、必ず尽きる。だからこそ、王都が補填する義務が生じる。


ヴァリスは、引き出しから銀の細工が施された文書魔具――「孤高の記録者ソリタリア・スクリプタ」を取り出した。


開いた羊皮紙の中央に、魔力を流し込むと、淡く文字が浮かび上がる。


「アルヴェリア王太子ヴァリス・アルヴェリアは、下記の村に対し、浴場衛生維持のため消石灰の定期補填を約し、王都備蓄より必要分を支給するものとする」


自署と印。

文字が刻まれた瞬間、魔具は淡く光を放ち、それが記録と証明の証になる。


「よし」


使者への手紙とともに、この念書も封筒に収める。


指示文に図を添え、使者には浴場の湯守に直接説明するよう命じた。


正直、これが“菌”の仕業かどうかは、最後まで分からないままだ。

だが、現象への対処としては、これが限界であり、そしてある意味で自らの知識で対策可能な案件であることに安堵した。

未知の魔物や魔族による侵略行為の発端とか、そういった類のものでなかったことに心底安堵する。


――とはいえ


ヴァリスは封を終えた文書を見つめたまま、再び思案する。


問題は、石灰の供給だった。


数年前から、ヴァリスは王都周辺における石灰利用を推進し、衛生用途や農業肥料として勧めてきた。


特にすでに我が国の戦略物資とも言える、医療用潤滑水を生産する上で大量に栽培しているオクラとアロエの増産で必須と言ってよい。


だが、広く普及させるには、どうしても量と輸送がネックになる。


アルヴェリアは内陸国家であり、海に面していない。

石灰に使える石材など、供給源が限られており、海を面する他国から貝殻などの海洋資源の輸入に頼る部分も大きい。


もっとも近くにあり、海に面している国は、ベルテア王国だ。

ただ難民問題が多少緩和されたとはいえ、混乱は続いており、大規模な貿易再開には至っておらず、現在も商人たちによる小規模な民間輸入が頼りとなっている。


さらに石灰を生産するには、高温の焼成が必要だ。

だが、古代魔法(アーカイブアーツ)では出力の確保と何よりも維持が難しく、工業用の大型石灰釜を支えるには不向きだった。

精霊魔法(スピリットアーツ)を使える職人、エルフやドワーフといった民族は、アルヴェリア内に集落が無いため、安定供給には、どうしても他国からの輸入依存が残る。


価格は上がり、物流は遠く、農村にまで行き渡らない。


「……古代魔法(アーカイブアーツ)でなんとか出来ると思ってたけど、研究を進めれば進めるほどに、この世界での生活魔法の基本となるのが、精霊魔法(スピリットアーツ)っていう事実の意味とその重さがのしかかってくるなぁ」


アルヴェリア王国でも他国と同レベルには、精霊魔法(スピリットアーツ)による恩恵を受けてはいるが、新しいことをするために研究するとなると、それに耐えうる優秀な使い手が不可欠だ。


留学生招聘も予算を立てて大規模に試みてはいるが、精霊魔法(スピリットアーツ)を得意とするエルフやドワーフといった種族は、あまり集落から離れたがらず、コミュニティも強固。

それに精霊魔法(スピリットアーツ)そのものが、地域性に依存する傾向があり、精霊を使役するという概念上、同じ属性であっても土着の精霊に紐づいた性質となることも多く、その土地を離れると弱体化してしまうことも多い。


かといって、無いものねだりをしていても始まらない。

可能な限り、病まない仕組みを作る。それが、ヴァリスの役目だ。


* * *


それからさらに二週間。


定期的に届く報告によれば、咳を訴える子どもと老人の数は目に見えて減り、浴場の管理も徐々に安定を取り戻しつつあるという。

ミリアの治癒の魔法も奏功し、療養所の床に伏していた老人たちが次第に庭に出られるようになったと記されていた。


村の子どもたちは、久々に笑い声をあげて、広場で駆け回っているらしい。

子どもたちが風呂嫌いになったらどうしようかと思ったが、そんなことはないようで、子供たちも浴槽の清掃を一生懸命に手伝っているようだ。


彼らからしたら、浴槽の清掃も水遊びと大差はないのかもしれない。


ヴァリスは報告書を机に戻し、窓の向こうを見やった。

王都の空は晴れていて、城門の上には青い旗が静かにはためいていた。


そのとき、控えていた侍従がそっと告げる。


「殿下、レイナ様とミリア様がご帰還なさいました」


「……そうか」


長い一息をつき、ヴァリスは立ち上がる。

今度こそ、彼女たちを出迎えに行こう。


* * *


「ただいま戻りましたー……あー、つかれたー……!」


伸びやかに響く声とともに、ミリアが両腕を上げて、レイナと、そして出迎えたヴァリスと共に執務室に入る。

額には細かな汗が滲み、頬は紅を差したように火照っている。

だが、その表情は晴れやかで、あの日王都を飛び出していったときの蒼白さはもうどこにもなかった。


「ミリア、少しは慎みなさい。殿下の御前です」


そう言いながら、レイナもあとに続いて入ってくる。

ブルーで統一されたアーマードレスとも言うべき姿は、道中の埃をはらった直後らしく、彼女自身は凛とした姿勢を崩さずにいたが、目の下にはうっすらと疲労の影が浮かんでいる。

恐らく、ミリア以上に動き回り、指揮と段取りに奔走していたのだろう。


「いいじゃん別にー……だって、村十個くらい回ったんだよ? しかも徒歩でっ! ぜんっぶ騎士団が馬で通れない細道なんだもん」


「騎士団の展開と並行して、湯守の指導と封印管理もいたしました」


「……それを全部やって、まだ疲れたって顔一つ崩さないって、さすがレイナだよね……ほんとずるい」


そうこぼしながら、ミリアはヴァリスのところまで歩いてくると、そのまま、片腕にしがみついてきた。


「で、ヴァリス。王子様なんだから、当然……このがんばった、あなたの愛しい姫君である、私たちの疲れは癒してくれるんだよね?」


明るい調子の中に、微かな甘えが混じっている。思わず腕の力が抜けそうになった。


レイナが静かに目を細めて、ミリアの背中をたしなめるように見やった。


「殿下に甘えるのはいいとして、そういうのはもう少し落ち着いてからになさい」


「えー、だって今回はお風呂の件だったんだから。だったら、お風呂で癒されるのが筋ってものでしょ?」


そう言いながら、ミリアはふわりと笑い、ヴァリスの腕にさらに頬をすり寄せる。


「……え?」


思わず間の抜けた声を出してしまったヴァリスの反応に、もう一人が音もなく動いた。


「そういえば、殿下。わたくしたち、湯あみの褒美など頂いた覚えがありませんわ」


さっきまでミリアを窘めていた淑女はどこへやら、そう囁いたレイナが、ヴァリスのもう片方の腕を、滑るように抱え込んできた。

扇情的すぎず、けれどしっかりと熱を宿した視線が、斜め下からヴァリスを射抜いてくる。


「湯くらい、いくらでも、二人のために最高級の湯殿を用意するが……この話、そういうことを言ってるわけじゃないよね……?」


恐る恐る口にすると、両脇からほぼ同時に声が返ってきた。


「当然!」

「当然でしてよ♡」


声の響きまでが、ぴたりと揃っていた。


ヴァリスは小さく肩をすくめ、二人の視線から逃げるように天井を仰いだ。


覚悟を決めるしかないようだった。


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