第11話 湯守の手帖
「湿り蜥蜴――おそらくその毒腺が、今期の気候で濃くなったのではという見立てです。獣避けの札が機能していなかった村が多く……」
王都、政務庁の執務室。長机を囲む数名の役人が、南方小村から届いた報告を次々に読み上げていた。
湿り蜥蜴、湿地に近いところに発生する魔物の一種で、かつては伝染病の媒介となると信じられていたが、実際にはそういった媒介はなく、弱い毒腺による影響のみでさほど脅威とは見做されていない。
「発症は主に子どもと老人。咳が長引きますが、発熱は軽度で、命に関わるものではありません。村の療養所に収容され、様子見の段階です」
重くなりすぎない声での説明に、ヴァリスは頷きだけを返した。
湯気が薄く立ちのぼるカップに手を伸ばし、ひと口啜ってから、傍らに置かれた地図へと視線を落とす。
「湿り蜥蜴に触れた者が、咳を引き起こしている。そう断定する根拠は?」
「実際に見たという証言が複数ありまして、ただ……接触した者全員が発症しているわけではないようです」
「ふむ」
地図には赤鉛筆で数箇所、発症報告のあった村が丸で囲われていた。
その印をじっと見つめるヴァリスの視線の先、マップの端には、今年から浴場設置が始まった村の名も重なって記されている。
彼は軽く眉を寄せたが、何も言わなかった。
「もう一つ気になるのは、年齢による偏りです」
会議に同席していたレイナが、資料を捲りながら声を上げる。
「発症は子どもと老人に集中し、壮年層は咳が出ても軽微。これは、毒性にしては不自然では?」
「ご指摘の通りです。ただ、まだ標本も得ておりませんので……」
やや腰の引けた官吏の返答に、場の空気が微かに揺れた。
そのときだった。
「わたしが行く」
澄んだ声が会議の空気を切り裂くように響いた。
視線が一斉に向く。
そこに立っていたのは、青いドレスを纏った少女――ミリア・エルフェインだった。
「ミリア……」
レイナがその名をそっと呼ぶ。だがミリアは答えず、ただまっすぐにヴァリスを見据えていた。
その声は平静を保っていたが、その奥には確かな熱があった。
レイナがふと気づいたように視線をヴァリスへ向けた。
ヴァリスもまた、彼女の様子に何かを感じ取ったのだろう。目を伏せ、わずかに息を吐いた。
「……せめて、護衛だけでもつけよう」
ミリアは視線を外さぬまま、きっぱりと言い返した。
「大丈夫! 私ひとりのほうが早いから先に行ってるね! 後から追いかけてきて!」
その声音には、明らかな焦りと、何かを押し殺すような震えがあった。
そして次の瞬間、制止の声を振り切るように執務室を飛び出していった。
その後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見届けると、室内に一拍の静けさが落ちた。
窓辺のレースが微かに揺れ、紙とインクの匂いが鼻を掠める。
レイナは手元の書類の端を指で撫でつけ、呼吸を整えてから口を開いた。
「殿下……ミリアは、幼い頃に何度か、理由の分からぬ咳に苛まれました」
ヴァリスは目を伏せ、静かに視線だけを向ける。
「……そうだったのか」
「はい。胸が固くなり、息を吸うたび喉が鳴って……。正直、当時は見ていられないほどでしたわ」
言葉は端的だが、その奥に滲む疲労と恐れは生々しい。レイナは指先を組み直し、ふっと目を伏せた。
「だから、あの子にとって“咳”は恐怖そのもの。今、誰かが同じ苦しさにあると知れば……先に駆け出すのは、ミリアらしい」
一呼吸置き、レイナは付け加える。
「ミリアは神聖魔法だけでなく、肉体強化による聖闘士としての力も一級品です。危険なことはないでしょう。……ですので、殿下もどうか、落ち着いてご判断を」
ヴァリスはその言葉に、椅子に深く座り直し、静かに視線を伏せた。
水道局で働いていた頃、何度か遭遇した事例が脳裏に浮かんだ。
『レジオネラ属菌』――特に高齢者や子どもが罹りやすく、ぬるめの湯の滞留や循環が温床になる。
浴場設備で問題が起きるたび、彼らは必ず温度と流速、底の清掃頻度を見直し、設備管理基準を見直したものだった。
だが、ここは異世界だ。
同じような微生物が存在しているのかも分からない。
菌という概念すら、この国ではまだ無く、ヴァリスも流石にそこまで詳しいわけではない。
発症するのは決まって子どもと高齢者。症状も軽度ながら特徴があり、一定の時期に集中している。
その事例だけで見ればレジオネラの状況と酷似しているのだが……
ただ――ヴァリスは、もう一つ気にかかる点があった。
「王都の浴場では、あれだけの利用者が毎日出入りしていながら……何年も、こうした事例は一度もなかった」
設備にそれほどの差があるのだろうか。それとも、水そのものか、あるいは――
彼はしばし沈黙し、やがて立ち上がった。
ヴァリスは地図へ歩み寄り、赤鉛筆で村の名に小さく印を重ねた。
「……レイナ。君も向かってくれ。私は王都で備えと記録の整理を進める」
「かしこまりました」
* * *
翌朝。王都の城門前には、簡素ながら整った遠征の一行が待機していた。
レイナは騎士団の副隊長と確認を終えると、外套の襟を正し、鞍に手をかける。隣には、手綱を持った従者が静かに控えていた。
彼女のイメージカラーである蒼が眩しいドレスのような装いの騎士鎧姿。
レイナに合わせて遠方のドワーフの職人に作らせた特注品で優雅さと気高さを同時に感じられる逸品だ。
レイナ自身の性格は殊更、華美なものを好むわけではないことをヴァリスはよく知っているが、彼女は自らの価値を理解し、全体への影響を考慮し、こういった演出も厭わない強かさも同時に持ち合わせている。
ふと背後から足音が近づく。振り向けば、ヴァリスが執務服のままそこにいた。
「見送りに来ましたの?」
「少しくらいなら、王子らしいこともしておこうと思ってね」
レイナは微笑しながらも、すぐに真面目な顔に戻る。
ヴァリスは光を受けて鈍く光る密封瓶と、新しい白布を取り出した。
瓶の栓を軽く確かめ、布の手触りを指先で一度確かめてから、レイナに渡す。
「この瓶に、浴槽の湯を。……それと、底石をこの布でこすって拭い、持ち帰ってほしい」
レイナは白布を持ち上げ、その皺を指先で一度伸ばし、瓶を掌に乗せて軽く重さを確かめる。
ふっと、口元に微かな笑みが灯った。
「ご依頼の件、忠実に遂行いたします。水も布も、確実に封をして持ち帰りますわ」
「無理はしないでくれ。確認が目的だ」
「心得ております」
馬上に軽やかに乗り上がり、レイナは最後にもう一度、ヴァリスの目をまっすぐに見た。
「それでは、行って参ります」
「頼んだ」
馬蹄の音が朝の王都に響き、隊列が城門をくぐっていく。
その背を見送るヴァリスの目には、ほんの僅かに不安の色が浮かんでいた。
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