第九話
センセは杏奈に観覧車に乗ろうと言ったが、これは杏奈の予想とちょっと違っていた。
(観覧車ってデートの最後に乗るもんちゃうの? まあ1回しか乗ったらあかんわけやないから、最後にまた乗ってもええわけか)
観覧車となると杏奈としては緊張を隠せない。観覧車に恋人同士となると連想されるのはキスだ。そうはいっても、いくら経験のない杏奈でも観覧車に乗ったらキスをしなければならないとまでは思っていない。ポイントはセンセがどう座るかだ。
まず杏奈が先に座り、その後センセが杏奈の前に座ればキスをするつもりはない。でもセンセが杏奈の横に座ったのなら、キスをしたいと思っているか少なくともその可能性があるということだ。ところがセンセはまず自分が先に乗って、さらに杏奈の手を引いて自分の横に座らせた。これはどう考えても後者のパターンだろう。杏奈の鼓動が張り裂けそうなくらいに高まった。緊張しすぎて杏奈は何も言えなくなった。
乗ってしばらくするとセンセが杏奈に話しかけてきた。前に杏奈が告白されたときのことを尋ねられた。センセの役に立つなら色々と話したかったが、杏奈はよく覚えていなかった。
「水瀬は思ったことをそのまま言ってもらった方が嬉しいんだ。僕もできるだけそうするよ」
その率直な標準語の言葉は、杏奈にはとても嬉しい言葉に聞こえた。しかし実際には杏奈が先輩から受けた告白の言葉もこの程度には素直だった。
それからセンセは2人の間にあった自分の左腕を持ち上げた。杏奈はその空いた場所に自分の体を寄せていった。
「帽子が」
杏奈はセンセのその言葉でまだ帽子をかぶっていたことに気付いた。キスをするためには明らかに邪魔だ。慌てて脱いでヒザの上に置いた。いよいよ準備が整ってきた。さらにセンセの腕が杏奈の肩を抱いた。これはセンセからの合図に違いない。杏奈は目を閉じて顔をセンセの方に向けた。あとはもう待つことしかできない。
しかしその時はなかなか来なかった。杏奈にとっては一秒一秒が非常に長く感じた。いくらなんでもセンセは待たせすぎだ。
(ここまできてまた放置なん? センセってあたしをからかってる?)
緊張によるストレスは溜まっていく一方で、そろそろ杏奈の限界を超えそうになっていた。そのときセンセが杏奈に話しかけてきた。
「観覧車っていえば、まだキョウスケがいない頃に4人で観覧車に乗ったシーンがあったよね」
(ここまで待たせといて、キスはなし?)
「実は今後の展開で5人があの遊園地に行くことがあるんだ」
(ちょっと待って。それってまだマンガになってない話しとちゃうの!)
杏奈はファンとしてそういう話はマンガで読んで知りたかった。杏奈はセンセをとめようとしたが緊張が続いていたためかとっさに声が出ない。右腕は杏奈とセンセの間に挟まれて動かせない。左腕を伸ばしてもセンセの口までは届かずシャツに指がかかっただけだ。
「観覧車は4人乗りだから全員は乗れないだろ。それで割を食うのが……」
杏奈はセンセシャツをつかんで引っ張ると、自分の唇でセンセの口を塞いだ。センセの言葉がとまったのを確認して、ようやく声が出せるようになった。
「いくらセンセでも、してええことと悪いことがあるやろ!」
あれだけセンセのファンだと言ったのに、その相手に雑談のようにネタバレするなんて許せない。その前に耐えがたいほどじらされたこともあって杏奈は本気で怒っていた。悔しさで涙がにじんでくる。もうセンセにキスをじらされるのはごめんだ。杏奈は立ち上がると向かいの席に座り直した。
悔しいことに涙が止まらない。杏奈はセンセに渡された帽子でその涙を隠そうとした。嗚咽が出そうになるのを懸命にこらえる。ゴンドラはようやく頂上を超えたところだった。
杏奈は怒っていたとしても比較的早く冷静になれるタイプだ。ときどきセンセの様子を見ると、彼はにらむようにして外を見つめ続けている。センセの顔を見続けていると、杏奈はさっきまでの激しい怒りが収まってきた。
センセがネタバレしようとしたことに杏奈は怒ったが、考えてみればその杏奈はセンセのノートをすでに盗み見している。杏奈なら先の話をしてもかまわない。センセがそう考えたとしても文句を言える筋合いではない。
そのことに思い当たると、杏奈は他にも自分が勘違いしているのではないかと考え始めた。杏奈はセンセが自分にキスしようとしていると思ったがそれは本当だったのか。センセがしたのは帽子を脱ぐように言ったことと肩を抱いたことだけだ。杏奈はさっきセンセの腕を体に密着させたから、センセが杏奈の肩を抱こうとしてもそれは自然なことだ。ゴンドラの中で帽子を脱ぐのも当然だ。
冷静になって考えれば、普通は初デートの最初に乗った観覧車でいきなりキスをしようとしないだろう。逆にセンセから見れば、そんな状況でキスを求める仕草を見せて、最後は自分からキスをした杏奈は、軽薄な女だと見えたのではないか。
だからセンセはああやって杏奈を無視して外をにらんでいるのだ。杏奈が怒ったときのセンセの唖然とした顔を思い出すとそうとしか考えられなくなってきた。ゴンドラが一周し終える頃には、杏奈はこの場にいることが耐えられなくなっていた。ゴンドラの戸が開くのを待ちきれないように杏奈は外に飛び出した。
***
真冶は階段を降りてからそれほど離れていないベンチに座り込んでいる水瀬を見つけた。うつむいたままヒザの上で手を握りしめている。
「水瀬」
声をかけても返事はなかった。真冶は水瀬に近づくと、頭を深々と下げてその姿勢を保ったまま言った。
「ごめん、水瀬」
どちらも無言のまま時間が過ぎた。
「どうしてセンセが謝るの? 悪くなくても頭を下げたらいいと思ってるの?」
その言葉を聞き終わってから真冶は頭を上げて水瀬を見た。
「謝るのは水瀬が傷ついていて、その原因が僕と一緒にいたことだからだ」
その言葉に水瀬は頭を上げて真冶を見た。こういうときは素直になるのが一番だ。そう真冶は思った。というより小細工ができる真冶ではなかった。
「正直に言ってどうして水瀬が怒ったのかは分からない。そんなにつらそうな理由もわからない。でも、そのことも謝る理由になると思う。分かってあげられなくてごめん」
「わたしが悪いって思わないの?」
「もしかしたら水瀬も悪いのかも知れないけど、今の僕にはそれが分からない。分からないことに対しては僕は何もできない」
「わたしが悪かったの。怒ったのも私の誤解。自分が情けなくて泣いちゃった」
「たぶん僕より水瀬の方が何があったのか分かってるんだよね。どちらも悪くなくてもケンカをすることはある。そういうときは状況の分かっていない方に問題があるんだよ」
「ホントに?」
「僕の数少ない人生経験から得たことだから正しいとは保証はできない。それと僕の言葉には下心も少し入ってる」
その言葉を聞いて水瀬の顔に笑みが少し戻った。
「なにそれ?」
「このまま終わりにしたくないんだ。せっかく水瀬が僕にくれたチャンスなのに。もしかしたら僕の人生で最初で最後のチャンスかもしれないのに」
水瀬の顔がはっきりとした笑みに変わった。
「それとさっきのだけど、あれはキスにカウントしなくていいよね。単に顔がぶつかっただけだから。キスならもっとこう気持ちがこもってないと」
真冶の言葉に水瀬は笑顔のままうなずいた。
***
センセの本心だが気障にも聞こえる言葉は杏奈の胸に素直に浸み込んだ。かつて杏奈に告白した男子には気の毒なほどだった。センセが自分の気持ちをこんな風に言えたのはマンガのおかげだ。主人公たちのセリフとして自分の考えを読者に伝えるため、頭の中で自分の考えを何度も確認してきたからだ。杏奈はその成果であるメガビのファンだから、すでにその考え方には慣れ親しんでいた。
(センセ、むっちゃイケメンやんか……)
杏奈はさっきまでのどうしようもなく落ち込んでいた自分の気持ちがすっきりと晴れていた。杏奈からセンセに教えられるようなことは何もない。そう思うと杏奈の心から力みが消えた。
その後2人は色々なアトラクションを試していった。杏奈はそれを何も考えずに楽しんだ。わざとベタベタとする必要などなかった。センセと一緒にいられて会話ができることを杏奈はただ楽しんだ。時間はあっという間に過ぎていった。
「今日は嫌な思い出を残したくないんだ。もう一度観覧車に乗らないか?」
閉園時間が近付いくとセンセは杏奈にそう言った。ゴンドラの戸を開ける従業員は別の人に代わっていた。降りたときにはその前に乗ったときの思い出がすっかり上書きされていた。遊園地を出たあと、帰りは一緒の電車に乗ってセンセが降りる駅で別れた。
その日。2人にとってのキスのカウントは1になっていた。それぞれ相手がカウントしてくれたか不安になるようなキスだった。




