第9話 与えられた分だけ
「……母さんは?」
「胸部血管外科の片倉先生が診てくれてるよ。兄貴のお友達なんだって? すごいお医者さんだね」
泣きながらまともに説明もできなかった俺の話を、片倉は全部察して駆けつけてくれたらしい。
「腎内の先生には会った?」
「それが……診てもくれないの。緊急性がないって」
搬送された時点で主治医には連絡が行っているはずなのに、夜勤の看護師長からの申し送りは冷たかった。
透析後から体調が悪い。シャントは音も触れも確認できず、おそらく機能していない。それでも「意識があるなら明日でいい」という判断らしい。
「本人の意識があって、シャントだけなら……まあ、明日でもいいってなるか」
「おう、矢木。お疲れさん」
「あ──科長……母がお世話になりました。突然呼び出してしまい、すみません」
「なぁに。久しぶりにお袋さんの顔見たよ。俺が矢木ん家に行ったのは大学の最初の頃だったか……」
胸が痛んだ。
干物屋で別れた神野さんが片倉の家に泊まっているはずだ。
あいつが心から大切にしている人が家で待っているのに、俺は勢いだけで片倉を呼び出してしまった。
それに本来、母さんの主治医は腎臓内科だ。
そこが診てくれないからといって、胸部外科の片倉に頼むのは筋違いだ。
それでも──こいつは嫌味を言われる覚悟で、母を診てくれた。
「……明日、中田先生から嫌味言われるな」
「あー、あの口煩い医者か。なんか言われたら“大事な親友のお母さんだから俺が対応しました”って言っとくさ」
軽く言うくせに、目は本気だった。
片倉は、今日一日様子を見るための入院と、負担の少ない点滴を指示してくれた。
腎臓内科病棟は満床だったため、わざわざ関係のない胸部外科の部屋に入れてくれた。
そのおかげで、明日俺が出勤したときにすぐ様子を見に行ける。
カルテの指示を書き終え、病棟へ向かおうとする片倉の後ろを、俺は自然とついていった。
美香は入院手続きのため、下で書類に追われている。
「──矢木」
階段を上がりながら、片倉がふいに言った。
「お前の母さん、彩香と別れたこと知ってたぞ」
「え……?」
「女の勘ってのは鋭いんだ。お前がどれだけ隠しても、母さんは“お前の口から”聞くのを待ってる」
「……今、それを言うのは」
声が震えた。
母のこと、彩香のこと、笠原のこと──
全部が胸の奥で絡まり合って、ほどけない。
片倉は振り返らず、ただ前を歩きながら言った。
「だからこそ、だよ」
その背中が、やけに大きく見えた。
「まあ、タイミングはあると思うけどよ。きちんと話した方がいいぞ」
「ごめん……神野さんが泊まってるのに、俺が呼び出したせいで……」
「なあに。救える命があるなら、いくらでも出るさ。それに──俺を呼んでくれてよかったよ。腎臓内科は、この件スルーするつもりだったと思うし」
確かに、緊急性がないと判断されれば来るはずがない。
美香は不安で母さんを入院させたかったから、片倉の判断に心底ほっとしていた。
「──真弥はとっくに寝てるからな。あいつは朝まで起きないよ」
朝まで起きない。
その言葉が胸に引っかかった。
“起きないようなこと”が二人の間にあったのだろうか──そんな考えが一瞬よぎって、すぐに自分で打ち消す。
神野さんが寝ていたから、片倉は俺の電話に応じてくれた。
もし起きていて、二人で楽しく酒でも飲んでいたら……きっと母さんは今も家で苦しんでいたかもしれない。
偶然が重なっただけだ。
それでも、普段は信じてもいない神に、思わず感謝した。
◇
「何でも美香はオーバーなのよ。でも直己が仕事している姿も見られたし、久しぶりに智幸くんにも会えて……お母さん嬉しいわ」
症状が落ち着いた母さんは、午前中に退院できることになった。
俺は半日休みをもらい、退院手続きを済ませたあと、本科の腎臓内科に予約を取り、シャントの相談をすることにした。
「もうそのシャントは限界だよ。よく痛いの耐えてたね」
「そりゃあ、人生の半分以上これと付き合ってるのに。今さら“痛い”なんて言ってられないわよ」
口では強く言うけれど、足腰は以前よりずっと弱っていた。
歩行器もやめてしまったらしく、体重も落ちている。
今は美香夫婦と同居していると聞いて、胸が少し痛んだ。
俺が引き取ることもできた。
でも──そうすると、彩香に捨てられた話を避けて通れない。
「腎臓内科には紹介状を書いてもらうだけだから。オペは片倉に頼もう」
「だって、智幸くん忙しいでしょう? いいのよ、私は与えられた分だけ生きるだけで」
「そんな寂しいこと言わないでよ。俺も美香も……母さんには元気でいてほしいんだから」
「直己、いつもいっぱい仕送りしてくれてるけどね……お母さん、お金使わないのよ。あの資金、これからの直己の人生に使いなさい」
「でも美香と同居してるんだろ? あっちも色々お金かかるだろうし、みんなで使っていいよ。俺なんて気楽な──」
“一人暮らしだから”
そう続けそうになって、慌てて口をつぐんだ。
母さんが俺と彩香の別れを知っているとしても、今ここで言うべきじゃない。
胸の奥がざわついたまま、黙って順番を待つ。
やがて、外来の窓口に俺たちの番号が表示された。
中に案内されると、どこか不貞腐れたような表情の中田先生が、昨日のデータを無造作に差し出してきた。
「データも除水量も問題なく終了しています。体重も前回よりマイナス0.8キロ。……シャントが潰れるようなこと、してませんか?」
「わたしはもう荷物なんて持てないのよ。全部娘夫婦がやってくれてます。部屋の拭き掃除くらいしか……」
「ですが、その潰れ方はどう見ても外的な力が加わっていますね。まあ、どのみちオペは今週は組めません。来週か、それ以降になります」
「そ、そんなに待てないでしょう!? 他に手段はないんですか!」
「矢木さんは腹膜透析を渋っておられますからね。代替シャントを入れるにしても、オペ室と要相談になりますよ」
──母さんは腹膜透析を避けている。
腎臓内科のスケジュールは分からないが、オペ室の空きなら確保できるはずだ。
「胸部血管外科の片倉科長に、シャント再建の紹介状を書いていただけませんか?」
その言葉を出した瞬間、中田先生の顔つきがわずかに強張った。
元々腕が悪く、シャント増設を嫌がる医者だ。
自分より若くて腕の立つ片倉に“借り”を作りたくないのだろう。
「まずは本科でスケジュールを立てます。あとはオペ室と相談で──」
「そんな……それじゃあ」
「直己」
食い下がる俺の腕を、母さんがそっと掴んだ。
ため息まじりのその仕草に、言葉にしなくても分かる。
──延命は望まない。
そう言いたいのだ。
胸の奥が重く沈んだまま、俺は母さんを迎えにきた美香に託し、午後の仕事へ戻ることにした。




