第8話 愛と呼ぶには遠すぎて
ー智幸視点ー
「真弥が泊まりにくるのは久しぶりだなあ。何か大事な話があるんだろう?」
「うん……お前にしか頼めなくて」
それだけ言うと真弥は張り詰めた何かから解放されたように玄関に膝をついた。
「お、おい……大丈夫か?」
「……本当は斗真さんに頼もうと思っていたんだけど、矢木くんの悩みの方が深刻だったからEDENに行けなくて。──悪いけどコレ、抜いてくれる?」
「これ……って」
「神楽さんと離れているから遠隔操作は無かったけど、トイレが出来なくなるから……今日ずっとお腹痛くて」
「お前……こんなもん突っ込まれてたのかよ……」
「これはまだマシな方。神楽さんが早く解放してくれたのは奇跡に近いよ」
棒立ちしている俺に真弥はもう一度お前にしか頼めないと強い瞳を向けてきた。
こいつが、こんな仕打ちを受けたのは──矢木が昨日東龍会の奴らに絡まれて、真弥がそこに割って入ったから。
俺は、真弥のことが高校の時から好きなのに。
お前はまともな相手探せって鼻で笑うから相手にもしてくれないけど。
でもこれは、残酷なお願いだよ──
◇
部屋の鍵を開けた瞬間、そこに立つ女の姿に、思わず息が止まった。
幻でも見ているのかと思った。
「あや、か……」
「ごめんなさい。私が全部悪いのは分かってる。でも……和くんを助けたかったの」
和くん、ね。
この部屋に勝手に上がり込んで、泣きながら元彼の名前を呼ぶ神経の太さに、呆れすぎて言葉が出なかった。
「神野さんが笠原の件で動いてくれた。もう取り立てはないと思うけど」
「そんなことない! 昨日も東龍会に追い回されて……和くん、このままだと死んじゃう。なおくんは友達でしょう? どうして助けてくれないの」
都合のいい言葉が次から次へと口から出てくる。その自己中心的な言い分に、胸の奥がじわりと熱くなった。
「……お前が助けてやればいいだろ。まさかとは思うが、笠原と付き合ってる間、仕事してなかったのか?」
「それは……」
「まあ、人生どう生きようが勝手だ。でもな──」
声が自然と低くなった。
自分でも驚くほど、冷えた声だった。
「俺はもう、お前にも笠原にも関わるつもりはない。この情けない話は、今日で終わりだ」
胸の奥で、何かが静かに切れた音がした。
「やり直そうよ! 私、なおくんのこと好きだよ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがすっと冷えた。
好き、ね。
二人同時に騙していた女の口から、よくそんな言葉が出てくる。
「……彩香」
呼んだだけで、彼女は期待したように顔を上げた。
その表情を見て、逆に決心が固まった。
「俺はもう、お前を信じられない」
淡々とした声だった。
怒鳴りもしないのに、部屋の空気が一気に冷えたのが分かった。
「やり直す気もない。お前が誰を好きだろうが、誰を助けたいと思おうが、もう俺には関係ない」
彩香の手が、俺の腕から力なく離れた。
「……なおくん、本気で言ってるの?」
「本気だよ。俺は、お前にも笠原にも、これ以上振り回されるつもりはない」
言葉を選ぶ余裕なんてなかった。
ただ、これ以上ここに立っている意味がないと分かっただけだ。
「出ていってくれ。今日で全部終わりだ」
彩香の顔が歪んだが、もう何も言わなかった。
ドアが閉まる音だけが、やけに大きく響いた。
「……はぁ」
溜め込んでいた息をようやく吐き出す。
何もかもうまく行かない。
奥手な俺が結婚までとんとん拍子に話を進めたのがいけなかったんだ。
もうこれで全て終わった。もうひとつの問題は、母さんにこれをどう伝えるか。
洗面所で歯を磨いていると、ポケットの携帯がしつこいほど鳴り続けた。
歯ブラシを咥えたまま、慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『兄貴、大変なのよ!』
妹の美香の声だった。
相変わらず、状況説明より先に感情が来る。
「なんだよ、何があった」
『ママの腕が、紫色なの!』
「……紫? シャントの方か? 右腕がそうなってるのか?」
『なんか血管がモリモリしてる方。透析から帰ってきて具合悪いって寝てたみたいなんだけど、顔色も悪くて……』
その説明だけで、胸が一気に冷えた。
母さんのシャントは限界だと分かっていた。
だから作り直しをお願いしていたのに──。
「美香、救急車呼んで。俺の職場に運んでもらっていい。必要なら医者の片倉の名前を出せ」
『でも、そういうのって、かかりつけとかうるさいんじゃないの?』
「緊急なら大丈夫だ。スタッフの家族は受け入れてくれることが多い。俺は片倉に連絡するから、とにかく救急車を」
『……う、うん、呼んだよ』
美香の震える声を宥めながら、母さんのそばにいてほしいと伝え、通話を切る。
すぐに片倉へ電話をかけた。
『──もしもし?』
ワンコールで出てくれた頼もしい友人の声に、俺は口元を押さえた。
「片倉……ごめん……助けて」
『どうした、矢木』
張りつめていたものが一気に崩れていく。
美香よりも、俺の方がよほどパニックになっていたのだろう。
事情を説明する前に、携帯を握りしめたまま涙がこぼれ落ちていた。




