第7話 微妙な距離感
「401号室の如月の気胸オペするから」
「家族さんに連絡を?」
「もしトラブルがあればあいつの職場にかけてくれ。長谷川先生という方が対応してくれる」
ささっと指示を出した片倉はリーダーデスクにぽんとカルテを置いた。
「おはよう。矢木、痛みは大丈夫か」
「おはようございます。昨日はありがとうございました」
指示書に目を落としながら、俺はなるべく片倉の顔を見ないようにした。
昨日の出来事がまだ耳の奥に残っている。
あの場にいた片倉は、どんな思いでそれを聞いていたのだろう。
ずっと想い続けてきた相手が、どうしようもない力関係の中で傷つけられるのを、ただ受け止めるしかなかったはずだ。
東龍会は本院と深い繋がりがあり、彼らからの患者は多い。
自費診療で病院には金が入るし、彼らは長く入院できない事情があるから回転率もいい。
利害は一致している。
だから、今回の件も──命に関わるものではなかった以上、表立って訴えることはできない。
警察も簡単には動けない相手だ。
「溜め込むなよ。俺ができることはやるから」
俺が指示書を見つめたまま動かないのを心配したのか、片倉は小声でそう言い残し、外来へ戻っていった。
◇
如月さんの部屋に入った瞬間、彼は俺の顔を見てわずかに目を見開いた。
「おはようございます、如月さん。オペの件は片倉から聞いていますよね」
「聞いたよ。朝イチで『今日切る』って言ってた。入院が長引くと仕事に響くからこちらも助かる」
彼は仕事用のパソコンを閉じ、いつも通り検温のために腕を差し出す。
その自然さが逆に、俺の胸をざわつかせた。
「その顔……誰かに殴られた?」
「……久しぶりに飲んで、帰りにぶつかったんです。電柱のワイヤーみたいなのに額が引っかかって。片倉がすぐ縫ってくれたので痛みはありません」
「指の跡が残る電柱、ね」
淡々とした声。
冗談めかしているようで、目だけは笑っていない。
その一瞬の視線に、胸の奥を見透かされた気がした。
思わず額に触れそうになったが、何事もなかったように手を引き、オペの準備を続けた。
如月さんもそれ以上は何も言わず、ただ静かにこちらの動きを見ていた。
──ピリリリリ。
有難い事に不穏な空気を割る電話が鳴った。
「はい、矢木です」
『おはようございます。オペ室の神野です。次の如月雅臣さんの入室は十五分後にお願いしても宜しいですか?』
「か、神野さん、俺……話が」
『今は難しいので、仕事が終わってからで良ければ』
「わ、分かりました。十五分後に入室します。仕事後にお時間お願いします」
神野さんの名前を出しただけで、如月さんは何かを悟ったようだった。
胸を押さえながら、くくっと笑う。
「真弥と、何かあったのか?」
「神野さんはこれから別のオペに入るので、如月さんのオペには入れないみたいですよ」
「な、なんだと……いてて……」
不満げに眉を寄せると、如月さんはすぐ片倉に電話をかけ、文句を言い始めた。
「おい智幸、知らない看護師に身体をいじられるのは不安だ」
『そう言っても、俺に采配する権限はねぇんだよ。麻酔科に頭下げて無理やり入れてもらったんだから諦めろ』
「真弥の顔が見たい」
『わーった、わーった。お前が寝てる間に管入れてもらうよう言っとくよ』
「寝てる時じゃ意味が無いだろう! ……全く」
そのやり取りが微笑ましい。
三人の間にある自然な距離感と信頼が、眩しい。
俺にも、ああいう友人がいたはずだった。
笠原とは同じ夢を追いかけて、
互いに励まし合って、笑い合って、
それなのに──最後の最後で、
あんな形で裏切られるなんて。
◇
「お疲れ様」
「お、お疲れ様……です」
仕事終わり、俺は片倉の行きつけだという干物屋に連れてこられた。
店に入るなり、女将さんが片倉の顔を見ると「あら、いらっしゃい」と笑い、迷いなく個室へ案内してくれる。常連というより、もう家族みたいな扱いだ。
「なんだ、この部屋が珍しいか?」
「い、いえ……すみません。俺まで」
「ああ、気にすんな。今日は俺の奢りだ。好きなだけ飲んで食え」
片倉の隣に座った神野さんは、慣れた様子で女将さんに注文を告げていく。
この店での“いつもの二人“が、すでに出来上がっているようだった。
「智幸、生でいい?」
「いつもの頼む。あとホッケな」
「はいはい。矢木くんは何にします?」
「えっ……あ、じゃあ俺も生で」
返事をしながら、胸の奥がざわつく。
神野さんにお礼を言うだけのはずなのに、言葉が喉につかえて出てこない。
助けてくださってありがとうございました──
それが正しいのか。
それとも、
貴方を危険な状況に巻き込む結果になってしまい、申し訳ありません──
そう言うべきなのか。
どちらを口にしても、何かが違う気がして、結局何も言えないまま座っていた。
「──矢木くん?」
「は、はい!?」
「……俺は自分の信念を貫いているだけなので、目に見える結果が君にとって良いものか悪いものか──どちらにも判断しないで欲しい」
「えっと……」
目に見える結果……
昨日の事だろう。
神野さんは「何があっても電話をするな」と片倉に告げていたのに、俺がその約束を勝手に破り、あの声を聞かせた。
それも気にするなと言いたいのだろうか。
お礼を言うのも、詫びるのも、結果的に神野さんを困らせてしまう。
でも、このままだと俺の気持ちは収まらない。
「俺、神野さんに何かできることありませんか?」
「ふふっ。そうだなあ……じゃあ、俺の代わりに胸部外科チームに来てくれる?」
「それは無理です」
「そっかあ、残念」
「おい真弥……矢木が居なくなったら病棟も回らねえんだよ。部長が面倒くさい案件のオペだの患者だの、本院から引き受けるからな」
「……俺は、言われた仕事をしているだけなので」
片倉にそう言われて、胸の奥が少し温かくなった。飄々として見えるくせに、こいつは本当に周りをよく見ている。
研修医の抜けにもすぐ気づくし、リーダーが判断を誤ればさりげなく軌道修正する。
誰よりも現場を支えているのは片倉だ。
「智幸、今日泊まってもいい?」
「別に構わないけど……何かあったのか?」
「ん……ちょっとね」
神野さんが片倉の家に泊まる──
長年の親友同士なら、別に不思議なことじゃない。
そう思おうとしたのに、胸の奥がざわついた。
二人の間にある“当たり前の距離”に、俺は入り込めない。
それを自覚した瞬間、急にここにいるのが場違いに思えてきた。
明日も仕事だし……と自分に言い訳しながら、飲みかけのビールを置く。
奢りだと言われたのに、飲んだ分の千円札だけそっと置いて席を立った。
片倉がビールを飲んだのに「送ろうか?」なんてバカなことを言うのを宥め、「電車なくなるから」と苦笑して店のドアを開ける。
夜風が身体に沁みる。
三人でいたはずなのに、なぜか自分だけが少し遠い場所にいるような気がした。




