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相棒  作者: 蒼龍 葵
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第7話 微妙な距離感


「401号室の如月の気胸オペするから」

「家族さんに連絡を?」

「もしトラブルがあればあいつの職場にかけてくれ。長谷川先生という方が対応してくれる」


 ささっと指示を出した片倉はリーダーデスクにぽんとカルテを置いた。


「おはよう。矢木、痛みは大丈夫か」

「おはようございます。昨日はありがとうございました」


 指示書に目を落としながら、俺はなるべく片倉の顔を見ないようにした。

 昨日の出来事がまだ耳の奥に残っている。

 あの場にいた片倉は、どんな思いでそれを聞いていたのだろう。

 ずっと想い続けてきた相手が、どうしようもない力関係の中で傷つけられるのを、ただ受け止めるしかなかったはずだ。


 東龍会は本院と深い繋がりがあり、彼らからの患者は多い。

 自費診療で病院には金が入るし、彼らは長く入院できない事情があるから回転率もいい。

 利害は一致している。

 だから、今回の件も──命に関わるものではなかった以上、表立って訴えることはできない。

 警察も簡単には動けない相手だ。


「溜め込むなよ。俺ができることはやるから」


 俺が指示書を見つめたまま動かないのを心配したのか、片倉は小声でそう言い残し、外来へ戻っていった。



 如月さんの部屋に入った瞬間、彼は俺の顔を見てわずかに目を見開いた。


「おはようございます、如月さん。オペの件は片倉から聞いていますよね」

「聞いたよ。朝イチで『今日切る』って言ってた。入院が長引くと仕事に響くからこちらも助かる」


 彼は仕事用のパソコンを閉じ、いつも通り検温のために腕を差し出す。

 その自然さが逆に、俺の胸をざわつかせた。


「その顔……誰かに殴られた?」

「……久しぶりに飲んで、帰りにぶつかったんです。電柱のワイヤーみたいなのに額が引っかかって。片倉がすぐ縫ってくれたので痛みはありません」

「指の跡が残る電柱、ね」


 淡々とした声。

 冗談めかしているようで、目だけは笑っていない。

 その一瞬の視線に、胸の奥を見透かされた気がした。

 思わず額に触れそうになったが、何事もなかったように手を引き、オペの準備を続けた。

 如月さんもそれ以上は何も言わず、ただ静かにこちらの動きを見ていた。


 ──ピリリリリ。

 有難い事に不穏な空気を割る電話が鳴った。


「はい、矢木です」

『おはようございます。オペ室の神野です。次の如月雅臣さんの入室は十五分後にお願いしても宜しいですか?』

「か、神野さん、俺……話が」

『今は難しいので、仕事が終わってからで良ければ』

「わ、分かりました。十五分後に入室します。仕事後にお時間お願いします」


神野さんの名前を出しただけで、如月さんは何かを悟ったようだった。

胸を押さえながら、くくっと笑う。


「真弥と、何かあったのか?」

「神野さんはこれから別のオペに入るので、如月さんのオペには入れないみたいですよ」

「な、なんだと……いてて……」


 不満げに眉を寄せると、如月さんはすぐ片倉に電話をかけ、文句を言い始めた。


「おい智幸、知らない看護師に身体をいじられるのは不安だ」

『そう言っても、俺に采配する権限はねぇんだよ。麻酔科に頭下げて無理やり入れてもらったんだから諦めろ』

「真弥の顔が見たい」

『わーった、わーった。お前が寝てる間に管入れてもらうよう言っとくよ』

「寝てる時じゃ意味が無いだろう! ……全く」


 そのやり取りが微笑ましい。

 三人の間にある自然な距離感と信頼が、眩しい。


 俺にも、ああいう友人がいたはずだった。

 笠原とは同じ夢を追いかけて、

 互いに励まし合って、笑い合って、

 それなのに──最後の最後で、

 あんな形で裏切られるなんて。



「お疲れ様」

「お、お疲れ様……です」


 仕事終わり、俺は片倉の行きつけだという干物屋に連れてこられた。

 店に入るなり、女将さんが片倉の顔を見ると「あら、いらっしゃい」と笑い、迷いなく個室へ案内してくれる。常連というより、もう家族みたいな扱いだ。


「なんだ、この部屋が珍しいか?」

「い、いえ……すみません。俺まで」

「ああ、気にすんな。今日は俺の奢りだ。好きなだけ飲んで食え」


 片倉の隣に座った神野さんは、慣れた様子で女将さんに注文を告げていく。

 この店での“いつもの二人“が、すでに出来上がっているようだった。


「智幸、生でいい?」

「いつもの頼む。あとホッケな」

「はいはい。矢木くんは何にします?」

「えっ……あ、じゃあ俺も生で」


 返事をしながら、胸の奥がざわつく。

 神野さんにお礼を言うだけのはずなのに、言葉が喉につかえて出てこない。


 助けてくださってありがとうございました──

 それが正しいのか。


 それとも、

 貴方を危険な状況に巻き込む結果になってしまい、申し訳ありません──

 そう言うべきなのか。


 どちらを口にしても、何かが違う気がして、結局何も言えないまま座っていた。

 

「──矢木くん?」

「は、はい!?」

「……俺は自分の信念を貫いているだけなので、目に見える結果が君にとって良いものか悪いものか──どちらにも判断しないで欲しい」

「えっと……」


 目に見える結果……

 昨日の事だろう。

 神野さんは「何があっても電話をするな」と片倉に告げていたのに、俺がその約束を勝手に破り、あの声を聞かせた。

 それも気にするなと言いたいのだろうか。

 お礼を言うのも、詫びるのも、結果的に神野さんを困らせてしまう。

 でも、このままだと俺の気持ちは収まらない。


「俺、神野さんに何かできることありませんか?」

「ふふっ。そうだなあ……じゃあ、俺の代わりに胸部外科チームに来てくれる?」

「それは無理です」

「そっかあ、残念」

「おい真弥……矢木が居なくなったら病棟も回らねえんだよ。部長が面倒くさい案件のオペだの患者だの、本院から引き受けるからな」

「……俺は、言われた仕事をしているだけなので」

 

 片倉にそう言われて、胸の奥が少し温かくなった。飄々として見えるくせに、こいつは本当に周りをよく見ている。

 研修医の抜けにもすぐ気づくし、リーダーが判断を誤ればさりげなく軌道修正する。

 誰よりも現場を支えているのは片倉だ。


「智幸、今日泊まってもいい?」

「別に構わないけど……何かあったのか?」 

「ん……ちょっとね」


 神野さんが片倉の家に泊まる──

 長年の親友同士なら、別に不思議なことじゃない。

 そう思おうとしたのに、胸の奥がざわついた。


 二人の間にある“当たり前の距離”に、俺は入り込めない。

 それを自覚した瞬間、急にここにいるのが場違いに思えてきた。


 明日も仕事だし……と自分に言い訳しながら、飲みかけのビールを置く。

 奢りだと言われたのに、飲んだ分の千円札だけそっと置いて席を立った。


 片倉がビールを飲んだのに「送ろうか?」なんてバカなことを言うのを宥め、「電車なくなるから」と苦笑して店のドアを開ける。


 夜風が身体に沁みる。

 三人でいたはずなのに、なぜか自分だけが少し遠い場所にいるような気がした。

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