第5話 傷の痛み
片倉は帰り際に「差し入れだ」とコンビニの袋を押し付けて帰った。
頭をポンポン叩く仕草は俺のチビを舐められているような気がするけど、弱った心はあたたかくなった。
彩香と笠原は失ったけど、俺には片倉がいる。
友はまだ、失っていない。
◇
「おはようございます、如月さん。体調はいかがですか?」
「体調は良くなったのかい?」
患者に体調を心配されるなんて不覚だ。思わず苦笑する。
しかし如月さんの目は鋭く、教師として生徒の嘘を見抜いてきた経験がそのまま俺に向けられているように見えた。
「俺よりも君の方が病人のような顔をしていた」
その言葉に俺は思わず目を伏せた。図星だった。心の奥に沈殿していた疲労と失望が、顔に滲み出ていたのだろう。
如月さんの言葉は、“優しさ“というよりも、俺の“仮面“を剥がすような鋭さがあった。
「片倉は関係ありません。如月さん、あと十五分後にオペ室に向かいますので、トイレは済ませておいてください」
「はいはい」
肩を竦めた如月さんは洗面所へと消えた。
◇
仕事を終えた俺は外の交差点を差し掛かった所で見覚えのある電話番号に慌てて応対した。
『なおくん……助けて』
その声は、かつて俺が愛した女のものとは思えないほど弱々しく震えていた。
「彩香? ど、どうした?」
心臓が一瞬跳ねた。
怒りと不信、そして微かな心配が入り混じった。──俺は彼女を許していない。裏切られた記憶はまだ生々しく残っている。
それでも、あの声には抗えなかった。
俺の中に残っていた“なおくん”と呼ばれる男が、反射的に彼女を助けようとしていた。
『ごめんなさい……きちんとなおくんに会って色々なこと、話したいの』
「それは、電話じゃ無理なのか?」
今更彩香がいくら泣きついてきても、助けようという気持ちは沸かなかった。
俺の冷めた対応に彩香の電話を違う男が奪い取った。
『仮にも結婚を考えていた女に対してつめてぇなあ、兄さんよお』
「……誰だ、あんた」
『この女も災難だな。旦那になる予定だった人はあんたのこと助けてくれないってさ。やっちまいな』
電話越しから彩香の悲鳴が聞こえる。
数人の男達の下品な笑い声に、耳に残る汚い音。
「……お前ら、何処にいる?」
彩香の居場所を聞いた俺は、片倉に報告すべきか悩んだが、結局一人でそこへ向かった。
「どこだよ……っつ!?」
暗闇の中、後頭部を鈍器のようなもので殴られ、俺は前のめりに倒れた。朦朧とする意識の中で、鞄をひっくり返す男達の呆れた声を聞く羽目になる。
「おい彩香! 話が違うじゃねえか。こいつ、財布にクレジットカードも何も入ってねぇぞ!」
「携帯のロック解除しろよ。そこにあんだろ、大金が!」
「冗談じゃないわよ……私はこれ以上手を貸すつもりなんてないからね」
笠原の声だ。彩香も共犯なのか。
この女を突き出して結婚詐欺にあったと務所に追い込めただろう。でも、そんなことをするのも虚しい。
貴重品を家に置いてきたのは正解だった。
携帯のロックも、今だけ複雑なパスワードに変えているから解除は無理だろう。
「おい直己、この人達は東龍会の──」
激昂した柄の悪い男が笠原の鳩尾を膝で思い切り蹴り上げた。
鈍い音と共に笠原の身体が顔面から崩れおち、アスファルトに転がる。
「いやあああああっ!」
彩香の悲鳴が空気を裂く。
泣きながら笠原に抱きつく彩香。
ああ、そっちなんだ──
彩香の涙も、笠原の傷ついたヒーローのような顔も、まるで何かの演出のように見つめた。
俺はやはり騙された側の人間。
彩香がこんな時に微塵でも俺に謝罪の言葉を述べるかと思ったが、そんなものはないか。
「貴重品なんて持ってくるわけねぇだろ。東龍会ってことは、ヤクザの一味か?」
「はっ、金がないならてめえは用済みなんだよ」
鉄パイプを持つ男がニタニタ笑いながら俺に近づいてきた。
やばい、殺される──?
「お前達、何をしている?」
俺を殴ってきた男が慌てたように神楽に歩み寄った。
「笠原が三ヶ月分滞ってまして、倍額で返済すると言うから利子つけて様子見ていましたが、どうやら交渉が決裂したみたいで……今取り立てる所です」
「や、矢木さん!?」
聞き覚えのある声だ。
俺の名前を呼んだ天使は地面に転がる俺の上体を起こした。
「かんの、さん……」
「どうして、こんな酷いことを!」
綺麗にアイロンのかかったブルーのハンカチが血塗れのこめかみにあてられた。
身体が鉛のように重い。
俺は神野さんの穏やかな笑顔に安心してそのまま意識を失った。
◇
俺は救急車で病院に運ばれ、偶然片倉がオペ室に居たのでそのまま処置をしてくれた。
「……しかしひでえな。彩香は東龍会と関わりがあったってことなのか?」
「知らねえよ。くっそ、いって……」
「そんなにボコボコにされたら、折角の色男も台無しだな。恨みでも買ったのか?」
消毒が染みる。
殴られた痛みなんかどうでもいい。
彩香と笠原に裏切られたことの方が痛かった。
悔し涙が滲み、それがまた傷口を抉った。
「……もう電車も無いし、俺のマンションに泊まってけよ。職場から近いし楽だぞ」
「いや、またゴタゴタに巻き込まれるのもまずいし、実家に戻るよ」
「お前……そんな顔見せたら母さん心配するぞ?」
そうだった。今こんな顔で母さんに会えない。
おまけに、シャントの調子も悪いし、俺のせいで心労をかけたくない。
「……なあ片倉。悪いけど、顔の腫れひけるまでお前のマンションに置いてもらえないか?」
片倉は独身貴族で優雅なマンション生活だ。
俺一人くらい転がるスペースはあるだろう。
「おう。可哀想な顔になったお前をほっとけねーよ」
傷の縫合を終えて手袋を捨てた片倉は使った物品を片付け、俺にキーを投げる。
「先に車乗ってろ。いつもの場所だから」
申し送りをしている片倉の背中を目で追いながら、俺は鍵を握りしめて車へ向かった。




