第4話 心の声
ー片倉視点ー
「おっす、お疲れさん。矢木は帰ったか?」
「お疲れ様です。矢木くんは体調悪いのに無理して出勤してもらっていたので、先ほどあがりました」
坂野師長の言葉に俺は漸く安堵した。
真弥から矢木の体調不良について聞かされた時、俺は何もしてやれなかった。
急変だから仕方がないとは言え、ベテランの看護師が不在のままCABGを頼めない。
「あ、科長。401の如月さんがお呼びです」
指示を確認していると夜勤看護師から呼び出しを受けた。そういや、雅臣は落ち着いたのだろうか。あいつのレントゲンは相変わらず悪い。
わざわざ呼び出しと言うことは、あまりいい話では無さそうだ。
俺と真弥、そして雅臣は高校時代からの親友で今も都合が合えば酒を酌み交わす関係だ。
「おーい、雅臣また肺が潰れたのか?」
「……失礼な医者だな。お前に打たれた注射が痛いんだよ」
「まあまあ、あんだけ大暴れしたら深く入っても仕方がないだろう」
雅臣は何度も気胸を繰り返している。肺が破れやすいのに、こいつが極度のチェーンスモーカーであること、そして仕事で無理をすると定期的に入院してくる。
「そんで、俺を呼び出した要件は?」
「あの看護師はもう帰ったのか?」
「お前……学校でがきんちょしか相手してないからって、こんな所でうちの看護師口説くなよ?」
「そんな趣味はない。あの体調の悪そうな看護師だよ」
体調の悪そうな、と言われて漸くピンときた。
ここで暴れていた雅臣ですら矢木の体調不良に気づいていたのに、知らなかったのは俺だけか。
「ああ、矢木か。さっき帰ったらしい」
「真弥から俺の所に連絡があった。お前、彼の家まで見舞いに行ってやれ」
「何言ってんだよ、あいつには嫁がいるから」
矢木はもうじき彩香と結婚を控えている。
奥手で大人しくて、自己主張の少ない矢木が看護学科のマドンナに手を出した。
正直あの矢木が、と思った。すごい進歩だ。
まあ、そんなマドンナは、金目的で俺に近づいてきたなんて言えないけど。
俺の返答が気に入らないのか、雅臣は形の良い眉を吊り上げて盛大なため息をついた。
「嫁がいるのにあんな状態で仕事に来るのか?」
「……何が言いたい」
「手遅れになる前に動けよ」
俺だって矢木が心配だ。
けど、俺にとって元カノがいる家──しかもこれから結婚を控えている新築の愛の巣だ。
例え友人とは言え、このタイミングで行くのは微妙だろう。
それに、矢木は自分の体調管理は万全。大学も休んだことがない。仕事もプライベートも真面目を背負って生きているような男だ。
「なんか、占い師みたいな言い方で気になるな……」
雅臣の不吉な話に猛烈な胸騒ぎを感じ、一度マンションに戻り、すぐに車を走らせた。
◇
「つ、かれた……」
明日休みにしてもらったとは言え、マンションについた時は満身創痍だった。
よくここまで帰れたと自分を褒めたい。
足はピクリともうごかず、解熱剤を乱用したのに全く効いていない。
おまけに熱も上がっているのか、身体がとにかく熱い。頭もぼんやりしていた。
「最悪だ……何もかも」
彩香が出て行ったことが、俺の中で相当ショックなのだろう。
おまけに、笠原と二股をかけていたこと。
イベントを全部キャンセルした後のこと。
そして、透析治療を受けている母。
「母さんには、正直に話さないと……」
いつまでも隠し通すのは無理だ。
結婚式の直前になればなるほど傷が深くなる。
もしかしたら……なんて一縷の望みは途絶えた。
俺の電話は彩香に着信拒否をされている。
笠原とは連絡がつくだろうが、まだ彩香に未練があるのかなんて言われたら腹が立つ。
瞳を閉じて体力を回復していると、突然インターフォンが連打された。
こんな時間にふざけんなと無視していると、ドアの先から片倉の声が聞こえてきた。
「矢木、生きてるか? 動けるならドアだけ開けて欲しい」
「かた、くら……」
こいつの家はここから車でも一時間以上かかる距離。なのに、こいつはあの長時間オペの後、わざわざ俺のマンションに来てくれたというのか。
「いま、開ける……」
何とかドアの鍵を外したが、そこで完全に力尽きた。
片倉が俺の頬を叩いていたが、もうわからない。
どうせなら、このまま眠るように死ねたらいいのに、なんて虚しい気持ちまで過ぎる。
彩香と結婚して、子どもを育てて、笑顔の絶えない家庭──その望みは、俺にとってとんでもない希望だったのか。
捨てられて、ローンだけ残された家。
結婚関連の莫大なキャンセル料金。
おまけに、大学時代からの友人まで失った。
俺は結婚前に女に逃げられた男というレッテルを貼られる。
せめて、片倉には俺の口から真実を伝えたい。
「おい、矢木!」
「……うるせーよ。お前声でかいから近所迷惑。疲れただけだから、要件だけ言って」
「お前、彩香と別れたのか?」
胸がざわつく。
先にこちらから言うつもりだったのに。
「別れたんじゃなくて、捨てられたんだよ」
「……」
流石の片倉も黙り込んだ。
「あいつさ、笠原とずっと付き合ってたんだって。俺はただの金鶴候補のひとりで、でも母さんの治療で殆どお金は実家に送って手元に置いてないから、笠原ん所戻ったんだろうな」
「……」
「三十五年のマンションローンに、百万以上のキャンセル料金。夜勤やりたくても日勤で出てくれって削られるし、もう何が楽しくて仕事してんだか」
俺は喉から込み上げる虚しさを飲み込んだ。
泣いたって仕方がないし、惨めだ。
「矢木、泣きたい時は泣いた方がいいぞ。溜め込むのは身体に良くない」
「野郎の前で泣けるかよ。そんな用事なら、もう帰れよ……明日も仕事だろ。ここ、遠いから」
「そんな状態の矢木を置いて帰れない」
こいつは何を言っているんだ。
俺は彼女でも何でもない。なのに、労わるような右手が頬に触れられて不覚にも涙が溢れた。
「吐き出せ、全部……」
背中を抱かれた俺は唇が切れるほど噛み締めたまま、片倉の背中に爪を立てた。




