第３話　オペ室の微光

　笠原を追い返して、片倉に電話したら想い人が電話に出て動揺した俺はそのままビールを二缶開けてリビングで雑魚寝していた。

　そのせいか、背中が痛い。

　そして頭は二日酔いとはまた違う痛みでガンガンしていた。完全に風邪をひいた。三八.七度。絶望的な数字に、すぐさま坂野師長に電話をかける。

『矢木くんごめんなさい、今日はＣＡＢＧがあるからどうしても出勤して欲しくて……きつかったら休憩室にいていいから』

「分かりました。遅刻になりますけど、薬飲んで向かいます」

　そう頼まれては断れない。ストックの解熱剤を無理やり胃に流し込む。

「動ける、動ける……」

　とはいえ、この後一時間も電車に揺られて出勤するのだ。考えただけで気分が滅入る。

◇

　体調の悪い時に限って仕事は忙しい。

　オペ待ちしていた患者の容体が悪化。緊急オペ追加だ。

「矢木くん、前投指示ダブルチェック」

「はい、４０９号室の方です。はい、はい……家族はあと２０分ほどで到着予定です」

　安西部長に状況報告をしつつ、緊急オペの指示をチェックする。

　あまりにも酷い現状に、今日は別の病棟からスタッフが二人来ているが、頼めることがない。

「矢木さん、何かお手伝いできることあります？」

「ええっと……４０９号室の片桐さんのオペ前最終バイタル取ってもらっていいですか？　家族さん来たらIC室にお連れしてください。そのあと安西部長コールで」

「分かりました。行ってきます」

「矢木さん、４０１号室の如月さんが苦しがってて……」

　如月さんは左気胸でオペ方向だった筈。ドレーンも問題ないのに、肺が破れたのだろうか。

「酸素準備して、片倉科長に指示仰ぎます」

　あっちもこっちも電話、電話、電話。

　なんでこういう時に限って急変が多いのだろう。

　疲労で身体は限界だった。猛烈な頭痛と吐き気が襲う。

　ここで一瞬でも気を抜いたら倒れる。

　俺は震える手を叱咤して応援ナースに指示を任せた。

『入室準備できたのか？』

「４０１号室の如月さんのドレーン、リークがありません。呼吸状態が悪く暴れ始めてまして安静が図れません。指示を──」

『いや、直接見にいく』

　

　階段ダッシュしてきたのか、軽く息を切らした片倉はすぐさま大声を出して痛みに悶え苦しむ如月さんの腕を取った。

「暴れる元気があるってのはいいことだ」

　片倉は暴れて噛みつこうとする如月さんの腕にすかさず注射をして鎮静させた。確か、この人は片倉の知り合いだったような。

「こんだけ動けりゃ死にはしない。ＣＡＢＧの後にこいつの指示出すから、呼吸だけ見てやってくれや」

「わ、分かりました」

「雅臣は俺の話聞かねーからなあ……手のかかる先生だ。あ、入室１５分後で頼む」

「同意書はカルテに入れてます」

「ああ、助かる」

　オペ用のユニフォームに着替えていた片倉は再び電話しつつ下へ降りて行った。

　山のように積んであるカルテを睨みつけるが、熱があろうと休む暇なんて全くない。

　そしてオペ室から催促の電話がかかる。

「す、すいません遅くなりました！」

「１５分後って言いましたよね？　こちらも麻酔科の先生が並行しているので時間通りにお願いします」

　目元メイクばっちりの若い女性は開口一番、俺に食ってかかってきた。こっちだって遊んでいる訳じゃないのにと言いたい。

「片桐新之助さんですね。私はオペ室看護師の神野真弥と申します。今日はどちらの手術になるか指で教えていただけますか？」

　俺が萎縮していると柔らかい声がストレッチャーに乗る患者に向けられた。

　神野真弥って名乗ったな。つまり、この男が片倉が長年恋焦がれているっつー奴なのか。

　男が男に恋をするとか、とち狂ったのかと思ったけど、この人は何か違うような。

「同意書の確認してもいいでしょうか？」

「は、はい。片桐新之助さん、ＣＡＢＧです」

「抗生剤は二本ですね？」

「はい。カルテの中に入れてます。前投は──」

　先ほどの若い女性は患者を押して中に入っていった。申し送りが神野さんに変わってほっとする。

「ごめんね、関係ない病棟の方に八つ当たりして……」

「いえ、こちらも遅れてしまったので」

「お互い様だから、気持ちよく仕事できるようにしましょう。それよりも矢木さん、顔色がかなり悪いので少し休んでから病棟に戻った方がいいですよ」

「そうしたいのは山々なんですけど、上の指示が大変で」

「自分の身体を守れるのは自分だけです。男子休憩室使ってかまいませんので、１０分休んでから病棟に戻ってください」

　断ろうとしても神野さんは首を振る。確かに今のまま戻って倒れたら指示の対応が出来る看護師がいない。

「……ありがとうございます。そうします」

「こちらです」

　小綺麗な男子休憩室にはソファーが置いてあり、仮眠が取れるようになっている。

「オペ室と病棟の師長には伝えていますので、きちんと休んでください。その顔、休憩もとってないでしょう？」

　神野さんはブランケットまでかけてくれた。

　なんて優しい人なんだろう。天使だ……そりゃあ、片倉が惚れても仕方がないか。

　

「ゆっくり休んでくださいね」

　その声に促されるように、俺は重い瞼を閉じた。

◇

　オペ室で休ませてもらったお陰で俺の体調は少し回復した。定時にヘルプの看護師が上がれるよう配慮する。

「今日は本当にありがとうございました」

「お先に失礼します〜」

　先に帰る彼女らを見送り、俺はリーダー机に突っ伏した。

　坂野師長は緊急会議に呼び出しされ不在。

　満身創痍の頭と身体は、なかなか言うことを聞いてくれなかった。