第2話 嘘をつく夜
「お先に失礼しまーす」
日勤だと言うのに、もう時計は9時を回っていた。全然お先もクソもない。ママさんナースがお子さんの都合で休みも多くて人手不足だ。
「お疲れ。矢木、今あがりか?」
「科長、お疲れ様です。ベル呼ばれたんですか?」
「いや、一応オペ後の確認したくてな。竹山の指示抜けが多くてよ」
研修医の竹山先生は完璧そうに見えて、指示のミスや抜けが多い。しかも、それを指摘すると看護師風情が、と不満そうに顔を顰める。こっちだってミスされた指示で動けないのだから、きちんと仕事をして欲しい。
何度も竹山先生に苦言を呈する俺は完全に嫌われ者だった。まあ、研修医に嫌われようが俺の仕事に支障はないからいいんだけど。
「矢木、帰るなら飯行かねーか?」
「嫁が待ってるんで……すいません、帰ります」
「ああ、そうだったな。まあ気分転換したくなったら飯行こうぜ。美味い干物屋があるんだよ」
「はい、お誘いありがとうございます。ではまた明日」
居ない嫁が待っているなんて、つまらない嘘を吐くのがつらい。
俺の中の小さなプライドが邪魔をする。
もういっそのこと、こいつにだけは真実を吐露してもいいんじゃないかって思う。
◇
マンションに帰るとあちこち荒らされた形跡に気づいた。多分、彩香が合鍵を使い何かを探していたのだろう。
「くっそ、鍵穴変えないとダメだな」
ああ、やることが多過ぎる。
結婚式の写真撮りと葉書はキャンセル料金を支払ったが、買ってしまった家はそのまま住むしかない。
「……何を探してたんだ、あいつ」
何も取られていないことを確認して、隠していた小さな金庫をまた別の場所へ移動させた。
あとは、鍵穴を早急に変えてもらうよう業者に手配。これで終わりだ。あいつとの関係も。
「はあ……疲れた」
シャワーも面倒くさいと思いソファーに転がっていると、こんな時間なのにインターフォンが鳴った。
「はい?」
『直己、久しぶり! 新婚生活どうよ。ちょっとだけ飲もうぜー』
突然の来客は大学時代からの友人である笠原だった。こいつは彩香と俺の関係も知っているから嘘はつけない。
「どうも、お邪魔しま〜す」
「……こんな時間になんだよ。俺、明日も日勤だし職場遠いから、今度から来る時は連絡欲しい」
「ああ、ごめんな。俺も明日日勤。ちょっとさー、聞きたいことがあって」
聞きたいことと言われると急に胃が軋む。
彩香のことだろうどうせ。
何と答えるべきか。別れた、逃げられた?
こいつに何と言えば俺の傷は浅く済むか。
「あのさ、彩香の実印知らねえ?」
「……は?」
思考回路が止まった。
今、こいつ何て言った?
「だから、彩香のハンコ探してんだよ。確かさ、お前と一緒に住む時にまとめて重要書類と置いてきたって言うからさ」
「何の話だよ。大体それは本人が……」
これ以上は聞きたくない。
多分、一番最悪な内容。
信用していた友達まで失いたくはない。
「だから、本人は来れねえんだよ」
「病気か……? まさか、入院でも……?」
笠原は突然乾いた笑いを浮かべた。
「お前、マジで言ってる? 彩香は大学から俺と付き合ってんの。まあ、遊び人だし二股してたのは知ってたけど、世間知らずなお前と結婚まで話を進めてるとはなー」
二股?
俺、結婚詐欺にあったのか。
笠原の声が遠くなる。
俺はとんでもない女と付き合っていたのか。
「そっか、お前もグルだったのか。長年友達と思っていた俺が馬鹿だったよ」
「おいおい、話は最後まで聞けって……」
「ふざけんなっ! もうお前の顔も見たくねぇし、彩香のハンコは俺が保管してるわけないだろ。テメェで荷物まとめていなくなったんだから、俺が知ってるものはない。あいつにそう言っとけ」
夜だと言うのについつい大声を出してしまった。でも俺も腹の虫が収まらない。
笠原を部屋から追い出し、俺はドアの前にズルズルと座り込んだ。
何が重要書類だ。あいつが勝手にブライダルの話を進めて、しかも、家だって買うって決めたのはあいつだ。
賃貸よりも買った方が将来的には安いと言うが、ここに一人で住むには広過ぎる。
笠原は口が軽い。
サークル仲間達に俺と彩香の結婚がなくなったことはすぐに知れ渡るだろう。他人からの伝言ゲームでこのナイーブな話が伝わるのは腑に落ちない。
ポケットから携帯電話を取り出し、勢いのまま片倉に電話した。
俺が約束を断ったから、あいつは多分干物屋にいるはずだ。
『──もしもし?』
「あ、あれ……すいません、これ……片倉の携帯じゃ……」
電話に出たのは知らない男性の声だった。
慌ててかけた電話番号を確認するが、やはり間違いない。
『智幸の携帯だけど、病棟の急変?』
「えっ……だから、片倉は……」
智幸──?
なんで知らない男が、片倉の携帯に出るんだ。
病棟の急変って……この人は俺が何者か知っている。
『智幸、矢木くんからだよ』
片倉のことを名前で呼んでいる。あの病院に科長を名前で呼ぶ人なんて、一人しか居ない。
「も、もしかして……貴方が真弥さんですか?」
『そうだけど、何か?』
ショックだ。
友人が男に長年恋焦がれていることも。
あの美味しいおにぎりは男が作ったものであることも。
片倉の名前を平然と呼べるところも。
俺ですら智幸だなんて呼んだことないのに。
「いや……片倉に、明日話があるとお伝えください。遅い時間に申し訳ありませんでした」
『えっ──?』
真弥さんの反応を無視して速攻電話を切った。
ああ、なんて最悪な一日だ。
明日は絶対に気持ちを切り替えないと。




