第18話 友達にも戻れない
医学部と看護学科ではキャンパスの棟も時間割も違う。
直己と顔を合わせられるのは、月に一度あればいい方だった。
それでも、会えた日は妙に嬉しくて、俺はそのたびに自分の感情を誤魔化していた。
◇
ある日の昼休み。
中庭で直己がひとり弁当を広げているのを見つけた。
(矢木だ……声、かけてみようかな)
そう思って歩き出した瞬間、直己の横に笠原が立った。
「直己〜! 今日の午後の実習、資料持ってきたぞ!」
「ありがとう、笠原。助かるよ」
直己が向けた笑顔は、俺が見たことのないほど柔らかかった。
胸がざわつく。
(……笠原には、あんな顔するんだな)
笠原は看護学科で一番顔が広い。直己と同じ学科で、毎日顔を合わせられる距離にいる。
俺にはない“日常の近さ”を、あいつは持っている。
その事実が、妙に胸に刺さった。
だから、笠原が看護学科のマドンナ──彩香と付き合い始めたと聞いた時、俺は他人事なのにほっとした。
(これで……矢木と話す機会が少しは増えるかもしれない)
そんな淡い期待すら抱いた。
だが、現実はもっと面倒だった。
彩香は笠原と付き合っているはずなのに、なぜか俺にも近づいてきたのだ。
「智幸くんの方が魅力的よ。ねぇ、連絡先教えて?」
冗談じゃない。彩香は俺の家柄と金にしか興味がない目をしていた。
(……こういう女が一番嫌いだ)
適当に距離を置いていたはずが、
気づけば“付き合っている”ことにされ、
そして一方的に振られた。
その後、彩香は俺の悪口を好き勝手に吹聴した。
「片倉ってさ、実は◯◯らしいよ」
「全然ダメだったって彩香が言ってた」
「見た目ワイルドなのに残念過ぎる〜」
「勉強一筋だから、仕方ないのかなあ」
事実無根の噂が勝手に広がっていく。
くだらない。腹も立たない。
ただ、関わった自分が馬鹿みたいだった。
そして──その噂が落ち着いた頃だった。
「そういえば、直己って最近彩香と一緒にいるよな」
美園の何気ない一言で、胸が冷たくなる。
(……まさか)
信じたくなかった。でも、事実だった。
直己が、彩香と付き合い始めた。
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
笠原に向ける笑顔を見た時よりも、
彩香に近づかれた時よりも、
ずっと深く、鋭く。
(……なんで、あいつなんだよ)
言葉にならない感情が、静かに胸の底へ沈んでいった。
直己と彩香が付き合い始めてから、俺たちはほとんど会わなくなった。
医学部と看護学科ではもともと接点が少ない。
それでも以前は、月に一度くらいは顔を合わせていた。
だが、彩香と付き合い始めてからは──
その“月一”すら消えた。
中庭で見かけても、直己の隣には必ず彩香がいた。
(……もう、俺の入る隙なんてねぇな)
そう思うたび、胸の奥がじわりと痛んだ。
◇
ある日、直己から珍しく連絡が来た。
『話したいことがある』
思わず胸が跳ねた。
久しぶりに会える嬉しさが先に立った。
だが──直己の口から出たのは、予想もしなかった言葉だった。
「彩香って、前にお前とも付き合ってたんだよな」
「ああ」
直己は苦しそうに笑った。
「知ってた。噂も……全部」
胸がざわつく。
その笑みは、笑っているはずなのに、どこか泣き出しそうで。
直己が言っている“噂”が何なのか、すぐに察した。
彩香が、直己以外の男と遊んでいること。
智幸の名前も、その中に含まれていること。
さらに、大学の金持ち連中にまで声をかけているという、あの嫌な話。
直己は全部知っていた。
知っていて、それでも彼女を信じようとしていたのだ。
「……あいつは詐欺師だ。男を金としか見てねぇよ」
言った瞬間、直己の表情が固まった。
「……片倉、そんな言い方……」
「事実だろ。あいつは──」
「やめろよ!」
直己が怒鳴った。驚くほど強い声だった。
「彩香を悪く言うな。お前にそんなこと言われたくない!」
「直己──」
「もういい!」
背を向けて歩き去る直己を、俺は追いかけられなかった。
──それから、完全に連絡が途絶えた。
直己は看護学科を先に卒業し、医療センターへ就職したと風の噂で聞いた。
俺は医学部の残り二年間を、空っぽな心で過ごした。
講義を受けても、実習に出ても、何をしても心に色がつかない。
(……直己に嫌われたまま、終わるのか)
その思いだけが、ずっと胸の奥に沈んでいた。
◇
医療センターに研修医として配属されて数日。
胸部外科のフロアは慌ただしく、俺は毎日必死に走り回っていた。
そんなある朝──
ナースステーションでカルテを確認していると、聞き慣れた声が背後から飛んできた。
「片倉先生、回診お願いします」
振り返ると、そこに直己がいた。
二年ぶりの再会だった。
けれど直己の表情は、驚きでも懐かしさでもなく、ただの“業務上の顔”だった。
(……そうか。俺はもう、ただの研修医の一人か)
直己は必要最低限の説明だけして、すぐに別の看護師へ指示を出しに行ってしまった。
その背中は、二年前よりずっと大人びていて、
そして──俺から遠かった。
回診中も、直己は徹底して“業務の距離”を守った。
必要な情報だけを淡々と。視線も、声も、温度がない。
まるで俺が“過去の知り合い”であることすらなかったかのように。
(……矢木、そんなに俺が嫌いか)
胸の奥がじわじわと痛む。
俺は、あいつが好きだった女の本性を暴露した。
直己を守りたかった。傷ついてほしくなかった。
なのに──その結果がこれか。
(……俺は、あいつにとって大切な友人にもなれないのか)
直己は俺を避けているわけではない。
ただ、徹底して“距離”を置いている。
それが余計に苦しかった。
回診が終わり、ナースステーションに戻ると、直己は看護師たちと淡々と業務の話をしていた。
俺が近づくと、直己は一瞬だけ目を合わせたが、すぐに視線を逸らした。
その一瞬の冷たさが、胸に深く刺さる。
(俺は、お前の何を壊したんだろうな)
二年前のあの日、俺は直己のためだと思って言った。
あの女は結婚詐欺師だ、金しか見ていないと。
でも直己は、彩香を悪く言うなと怒った。
そして連絡を絶った。
(……俺は、どうすればよかったんだ)
答えは出ないまま、俺はただ、直己の背中を見つめるしかなかった。
友達に戻りたい。
でも、戻れない。
その現実だけが、静かに胸を締めつけていた。




