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相棒  作者: 蒼龍 葵
16/18

第16話 友達以上


 顔が離れた瞬間、


(……え? 今の……キス……?)


 と、三秒どころか、頭が真っ白になって理解が遅れた。

 触れたところがじんわり熱い。

 でも──そんなことより、なんで。


「お、おい……なんで俺に」


 声は震えていたが、怒鳴るほどの力はなかった。

 むしろ、自分でも驚くほど静かだった。

 けれど胸の奥では、何かがざわざわと音を立てている。

 こいつ、寝言で“なお”って呼んでいた。

 女の名前だと思っていた。

 なのに、どうして──俺に。


「俺は、“なお“さんじゃない。……間違えるなよ」


 押し返した胸板は固くて、手のひらがじんと痺れた。

 震えているのは手なのか、心なのか分からない。


「え……?」


 片倉は口元をそっと押さえ、困惑したように目を瞬かせた。

 その仕草は驚くほど静かで、俺を刺激しないようにしているようにも見えた。


「俺……寝言、言ったのか?」

「言ってた。“なお”って。女がいるのに……なんで俺に」


 あの夜、片倉に貪るようにキスをされた。

 しかも、愛おしそうになおと何度もよび、背中を掻き抱いて。

 完全に間違えられたと思って、衝動的に片倉の頬を殴った。

 初めて人を殴った。

 その痛みがまだ手に残っている。

 けれど今は、その痛みすら遠い。


「……俺は、直己のことが好きだよ」


 その声は驚くほど優しかった。

 押しつけるでもなく、責めるでもなく、

 ただ“本当のこと”をそっと置くような声音。


「……俺も片倉のこと好きだよ」


 友達として。

 それ以外の意味なんて、考えたこともなかった。


 なのに片倉は、どこか寂しげに視線を逸らした。

 その横顔が、痛いほど優しい。


 そして、もう一度顔が近づく。

 頬にそっと唇が触れた。


「……っ」


 息が止まった。

 跳ねるような驚きではなく、静かに凍りつくような衝撃。

 心臓の音だけが、やけに大きく響く。


 片倉はすぐに離れ、俺の反応を確かめるように目を細めた。

 怯えさせないように、距離を取りながら。


「直己、お前って……本当に天然だよな」


 その言い方も、どこか優しくて。

 責める気なんて、最初からない。


「……どういう、意味だよ」


 自分でも驚くほど小さな声だった。


「──俺が言ってんのは、なお。お前のことだ。分かっていると思うけど、恋人としての好きだよ」


 その言葉は、まるで落ち葉が水面に触れるみたいに静かだった。

 大きな音も衝撃もないのに、胸の奥に深く沈んでいく。


 理解が追いつかない。

 でも、逃げることもできない。


 片倉は、俺が混乱しているのを分かっているように、ただ黙って、そばにいるだけだった。

 触れもしないし、急かしもしない。

 けれど、離れようともしない。


「こ、恋……?」


 声が震える。喉が乾く。頭が追いつかない。

 俺は男だ。片倉も男だ。

 寝言の“なお”は女じゃなかったのか。

 今、なおって俺に向けて言った。

 つまり、そういうこと?


 そんなはずない。

 そんなわけがない……!


「友達としてじゃねぇ。直己を“好きな人”として見てるって話だ」


 片倉の真剣な目が、怖い。逃げ場がない。

 胸の奥がざわついて、息が苦しくなる。


(……冗談じゃないのか?)


 彩香の記憶がよみがえる。

 裏切られた痛みが、胸の奥で鈍く疼く。


 また傷つくかもしれない。

 信じたら、また笑われるかもしれない。


「いつから……?」


 震える声で問うと、片倉は迷わず答えた。


「お前が、俺を片倉智幸として見てくれた日からずっと」


 胸がぎゅっと締めつけられる。

 まさか、大学のサークル飲み会の時からそんなふうに見られていたなんて、知らなかった。

 知らなかったからこそ、余計に怖い。


「……俺が片倉を好きなのは、友人としてであって……その……」


 言葉が喉でつかえる。

 否定したいのに、声にならない。


 片倉は、俺の混乱をそっと受け止めるように言った。


「分かってるよ。直己が怖いのも、迷ってるのも……全部」


 その優しさが、胸に沁みて苦しい。


「だから……もう少し待ってほしい。今は……すぐに答えが出せない」


 そう告げると、片倉は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ──ふっと、安心したように笑った。


「……ああ。待つよ。友達としてでも、お前のそばにいられるなら、それでいい」


 その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。

 けれど、不安もまだ消えない。


 俺たちは、いったん“友達”に戻った。

 でも──

 さっきまでとは、確かに違う距離で。



 目を覚ますと、見慣れない天井。

 一瞬で昨夜のことが蘇り、心臓が跳ねた。


(……やば。俺、片倉の家に泊まったんだ)


 そして次の瞬間、もっと重大なことに気づく。


(……着替えがない)


 更衣室に入ってしまえば白衣がある。

 問題は通勤途中に誰かに見つかった時だ。

 昨日と同じ服──まして違う方向からの出勤。

 ネタにされたくない……!


「か、片倉……!」


 寝癖のままリビングに飛び出すと、コーヒーを淹れていた片倉が振り返った。


「おはよ、直己。朝から騒がしいな」

「騒がしいじゃないよ! 俺、着替え持ってきてない!」


 片倉は一瞬ぽかんとしたあと、ふっと笑った。


「そんなことかよ。俺の貸してやるから」


 有り難い話だが、俺と片倉ではサイズが二つ違う。


「大きいどころじゃないだろ……!」


 文句を言いながらも、片倉が差し出したTシャツとシャツとスラックスを受け取る。

 袖を通した瞬間、予想通りぶかぶかだった。

 肩は落ちそうになるし、袖は手の甲まで隠れるし、ウエストなんて拳が二つ入る。

 仕方がないのでズボンは昨日と同じジーパンを履き、上着だけ拝借した。


「……似合ってんじゃん」

「絶対似合ってない!」

「可愛いよ」

「可愛いって言うな!」


 片倉はコーヒーを飲みながら、俺の着替えを見て楽しそうに笑っていた。

 急いで洗面所で歯磨きをして顔を整える。


「片倉、服ありがと。じゃ、俺先に行くから」

「なんで?」

「お前と一緒に出勤したら、絶対バレるだろ!」


 片倉は吹き出した。


「別にお泊まりしたからって、何もしてねぇのにな」

「そ、そんなのわかんないだろ。いってきます──智幸」

「!? あ、おい」


 言った瞬間、耳まで熱くなった。

 慌ててドアを閉める。


(……名前で呼んだ)


 胸がどくんと跳ねる。

 昨夜のことが頭をよぎり、顔がさらに熱くなる。

 片倉が言うとおり何もなかったし、ただキスをして寝ただけ。

 なのに、俺の中で何かが変わり始めている。

 あいつが俺を名前で呼んだ時と同じように。


 友達のままのはずなのに、

 その歯車は、ほんの少しだけ違う方向へ回り始めていた。

 でも──

 その変化は、嫌じゃなかった。



 矢木に突然名前を呼ばれた片倉は、閉まったドアをしばらく見つめたまま、ゆっくり口角を上げた。


「……まいったな」


 嬉しさを隠しきれず、ひとりごとのように呟く。


「ほんと、直己は可愛いな」


 その声音は、誰にも聞こえないほど小さくて、

でも確かに愛しさが滲んでいた。


 片倉は、矢木のああいうところが──

 どうしようもなく好きなのだ。

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― 新着の感想 ―
同じ服でも絶対に困らないはずなのに、わざわざ智幸の服を借りてまで出勤しようとする直己が天然すぎて。 まさかパンツも借りたんでしょうか。ユニフォーム着るから借りなくてもいいのに、智幸の匂いが欲しかったの…
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