第16話 友達以上
顔が離れた瞬間、
(……え? 今の……キス……?)
と、三秒どころか、頭が真っ白になって理解が遅れた。
触れたところがじんわり熱い。
でも──そんなことより、なんで。
「お、おい……なんで俺に」
声は震えていたが、怒鳴るほどの力はなかった。
むしろ、自分でも驚くほど静かだった。
けれど胸の奥では、何かがざわざわと音を立てている。
こいつ、寝言で“なお”って呼んでいた。
女の名前だと思っていた。
なのに、どうして──俺に。
「俺は、“なお“さんじゃない。……間違えるなよ」
押し返した胸板は固くて、手のひらがじんと痺れた。
震えているのは手なのか、心なのか分からない。
「え……?」
片倉は口元をそっと押さえ、困惑したように目を瞬かせた。
その仕草は驚くほど静かで、俺を刺激しないようにしているようにも見えた。
「俺……寝言、言ったのか?」
「言ってた。“なお”って。女がいるのに……なんで俺に」
あの夜、片倉に貪るようにキスをされた。
しかも、愛おしそうになおと何度もよび、背中を掻き抱いて。
完全に間違えられたと思って、衝動的に片倉の頬を殴った。
初めて人を殴った。
その痛みがまだ手に残っている。
けれど今は、その痛みすら遠い。
「……俺は、直己のことが好きだよ」
その声は驚くほど優しかった。
押しつけるでもなく、責めるでもなく、
ただ“本当のこと”をそっと置くような声音。
「……俺も片倉のこと好きだよ」
友達として。
それ以外の意味なんて、考えたこともなかった。
なのに片倉は、どこか寂しげに視線を逸らした。
その横顔が、痛いほど優しい。
そして、もう一度顔が近づく。
頬にそっと唇が触れた。
「……っ」
息が止まった。
跳ねるような驚きではなく、静かに凍りつくような衝撃。
心臓の音だけが、やけに大きく響く。
片倉はすぐに離れ、俺の反応を確かめるように目を細めた。
怯えさせないように、距離を取りながら。
「直己、お前って……本当に天然だよな」
その言い方も、どこか優しくて。
責める気なんて、最初からない。
「……どういう、意味だよ」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「──俺が言ってんのは、なお。お前のことだ。分かっていると思うけど、恋人としての好きだよ」
その言葉は、まるで落ち葉が水面に触れるみたいに静かだった。
大きな音も衝撃もないのに、胸の奥に深く沈んでいく。
理解が追いつかない。
でも、逃げることもできない。
片倉は、俺が混乱しているのを分かっているように、ただ黙って、そばにいるだけだった。
触れもしないし、急かしもしない。
けれど、離れようともしない。
「こ、恋……?」
声が震える。喉が乾く。頭が追いつかない。
俺は男だ。片倉も男だ。
寝言の“なお”は女じゃなかったのか。
今、なおって俺に向けて言った。
つまり、そういうこと?
そんなはずない。
そんなわけがない……!
「友達としてじゃねぇ。直己を“好きな人”として見てるって話だ」
片倉の真剣な目が、怖い。逃げ場がない。
胸の奥がざわついて、息が苦しくなる。
(……冗談じゃないのか?)
彩香の記憶がよみがえる。
裏切られた痛みが、胸の奥で鈍く疼く。
また傷つくかもしれない。
信じたら、また笑われるかもしれない。
「いつから……?」
震える声で問うと、片倉は迷わず答えた。
「お前が、俺を片倉智幸として見てくれた日からずっと」
胸がぎゅっと締めつけられる。
まさか、大学のサークル飲み会の時からそんなふうに見られていたなんて、知らなかった。
知らなかったからこそ、余計に怖い。
「……俺が片倉を好きなのは、友人としてであって……その……」
言葉が喉でつかえる。
否定したいのに、声にならない。
片倉は、俺の混乱をそっと受け止めるように言った。
「分かってるよ。直己が怖いのも、迷ってるのも……全部」
その優しさが、胸に沁みて苦しい。
「だから……もう少し待ってほしい。今は……すぐに答えが出せない」
そう告げると、片倉は一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ──ふっと、安心したように笑った。
「……ああ。待つよ。友達としてでも、お前のそばにいられるなら、それでいい」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
けれど、不安もまだ消えない。
俺たちは、いったん“友達”に戻った。
でも──
さっきまでとは、確かに違う距離で。
◇
目を覚ますと、見慣れない天井。
一瞬で昨夜のことが蘇り、心臓が跳ねた。
(……やば。俺、片倉の家に泊まったんだ)
そして次の瞬間、もっと重大なことに気づく。
(……着替えがない)
更衣室に入ってしまえば白衣がある。
問題は通勤途中に誰かに見つかった時だ。
昨日と同じ服──まして違う方向からの出勤。
ネタにされたくない……!
「か、片倉……!」
寝癖のままリビングに飛び出すと、コーヒーを淹れていた片倉が振り返った。
「おはよ、直己。朝から騒がしいな」
「騒がしいじゃないよ! 俺、着替え持ってきてない!」
片倉は一瞬ぽかんとしたあと、ふっと笑った。
「そんなことかよ。俺の貸してやるから」
有り難い話だが、俺と片倉ではサイズが二つ違う。
「大きいどころじゃないだろ……!」
文句を言いながらも、片倉が差し出したTシャツとシャツとスラックスを受け取る。
袖を通した瞬間、予想通りぶかぶかだった。
肩は落ちそうになるし、袖は手の甲まで隠れるし、ウエストなんて拳が二つ入る。
仕方がないのでズボンは昨日と同じジーパンを履き、上着だけ拝借した。
「……似合ってんじゃん」
「絶対似合ってない!」
「可愛いよ」
「可愛いって言うな!」
片倉はコーヒーを飲みながら、俺の着替えを見て楽しそうに笑っていた。
急いで洗面所で歯磨きをして顔を整える。
「片倉、服ありがと。じゃ、俺先に行くから」
「なんで?」
「お前と一緒に出勤したら、絶対バレるだろ!」
片倉は吹き出した。
「別にお泊まりしたからって、何もしてねぇのにな」
「そ、そんなのわかんないだろ。いってきます──智幸」
「!? あ、おい」
言った瞬間、耳まで熱くなった。
慌ててドアを閉める。
(……名前で呼んだ)
胸がどくんと跳ねる。
昨夜のことが頭をよぎり、顔がさらに熱くなる。
片倉が言うとおり何もなかったし、ただキスをして寝ただけ。
なのに、俺の中で何かが変わり始めている。
あいつが俺を名前で呼んだ時と同じように。
友達のままのはずなのに、
その歯車は、ほんの少しだけ違う方向へ回り始めていた。
でも──
その変化は、嫌じゃなかった。
◇
矢木に突然名前を呼ばれた片倉は、閉まったドアをしばらく見つめたまま、ゆっくり口角を上げた。
「……まいったな」
嬉しさを隠しきれず、ひとりごとのように呟く。
「ほんと、直己は可愛いな」
その声音は、誰にも聞こえないほど小さくて、
でも確かに愛しさが滲んでいた。
片倉は、矢木のああいうところが──
どうしようもなく好きなのだ。




