第15話 ほどけていく輪郭
「悪いな、飯買ってきてくれて」
片倉はいつもと変わらない調子で、何のためらいもなく俺を部屋に入れた。
警戒しているのは俺だけで、あいつは最初から何も変わらない。
その温度差が、逆に胸に刺さる。
「顔……」
「あん?」
気づけば、俺は無意識に片倉の右頬へ手を伸ばしていた。
朝よりも青あざが広がっていて、目の下まで薄く内出血している。
「ごめん、片倉……顔、殴ってしまって」
あの夜──
“なお”なんて女の名前を呼びながら、俺の身体を触って、キスまでしてきた。
怒って当然だと思っていたのに、こうして腫れた頬を見ると胸が痛む。
なのに、片倉はヘラヘラ笑っている。
悪びれた様子なんて一つもない。
(……なおさんって女性に謝れよ)
心の中でそう吐き捨てながらも、指先はそっと頬に触れてしまう。
「俺、寝ぼけたのかな……よくわかんねぇけど、この程度で済まされたんだから、いいんじゃねえの?」
日焼けした肌のおかげで目立たないと笑いながら、片倉はリビングへ歩いていった。
その背中に、妙な距離を感じる。
ほっとするような、寂しいような……自分でもよく分からない感情が胸に渦巻いた。
「弁当が売り切れで無かったからおにぎり適当に買って……あとおかずとつまみはこれな」
「おう、助かる。飯を見るとやっぱり腹減るな」
テーブルに夕飯を並べても、片倉はなぜかキッチンから戻ってこない。
「……片倉」
「んー?」
携帯から顔を上げた片倉は、いつもよりずっと疲れた顔をしていた。
目の下の影が濃い。
寝ていないのか、それとも──神野さんに何か言われたのか。
「お前、すげえ疲れてるな、大丈夫か?」
「あー……大丈夫、今日は寝るから」
“今日は”という言い方が引っかかった。
つまり、昨夜は眠れなかったということだ。
のろのろとリビングに戻ってきた片倉は、ソファーではなく、わざわざ俺から距離を取るようにフローリングへ腰を下ろした。
(……気を使ってる? それとも、俺が来たこと自体迷惑なのか?)
胸がざわつく。
「おっ、塩おにぎりいただき」
「真弥が作るもんが一番だけどな」と笑いながら片倉は嬉しそうにおにぎりにかぶりついた。
その笑顔が、なんだか遠く感じる。
「神野さんの作るおにぎり、塩が違うんだよな。食べた後、スッと疲れが取れた」
「なんだっけなあ……沖縄の塩って言ってた気がする。真弥はわざわざネットで取り寄せているからな」
片倉は嬉しそうに言った。
その横顔を見ながら、胸の奥がじんわり痛む。
(……なんで俺、こんなに気にしてるんだろう)
怒っているはずなのに、
距離を置くべきなのに、
片倉の疲れた顔を見ると、心がざわつく。
“なお”という女の名前を呼んだくせに。
俺を抱きしめて、キスまでしてきたくせに。
なのに──
片倉が弱っていると、放っておけない。
そんな自分が、一番厄介だった。
「……やっぱり、好きな奴と飯食うと何食べても美味いもんだな」
「は?」
片倉は、俺がおにぎりを頬張る姿をまるで宝物でも見るみたいに見つめていた。
その目は、どこか安堵と温かさが混ざっていた。
「昨日から何食べても味しなくてさ。味覚終わったかと思った。でも直己が来てくれて……同じおにぎりでもちゃんと味がした。安心した」
「片倉……」
弱々しい声。
こんな片倉を見るのは初めてだった。
「……なぁ、片倉。本院に行くなんて言わないでほしい。お前が居なきゃ胸外病棟は完全に終わりだ。代替えが来ればいいって話じゃない。調整できるのは部長じゃない……お前しかいないんだ」
片倉は、おにぎりを持ったまま視線を落とした。
その沈黙が、痛い。
「もし俺の存在が邪魔なら、別の部署に移動希望出すし──」
「んなわけねぇだろ!」
怒鳴り声に肩が跳ねた。
でも、その声は怒りよりも必死さの方が強かった。
「直己がいるから病棟は回ってんだよ。師長は会議ばっかで現場を見れてねぇ。尻拭いしてるのはいつもお前だ。お前が居なくなったら、みんな辞めちまうぞ」
「そんなこと……」
「頼むから……お前は移動しないでくれ」
片倉の声は震えていた。
大きな身体を小さくして、今にも泣きそうな顔で。
(……こんな顔、初めて見る)
胸がぎゅっと締めつけられた。
「片倉」
硬いフローリングにあぐらをかいている片倉に声をかける。
「そんなとこ座ってたらケツ痛いだろ。こっち来いよ」
「でもよ……」
「その厄介な頭痛、取ってやるから」
渋る片倉をソファーに座らせ、俺は背後からこめかみに指を添えた。
片倉は偏頭痛持ちだ。この弱った様子は、その前兆だ。
「ここがツボなんだよ。前に鍼の先生に教わった」
片倉は目を閉じ、俺の手に体重を預けてきた。
その信頼が、妙に胸に響く。
「あー……気持ちいい」
手首、腕へと指を滑らせる。
オペで酷使している片倉の腕は、思った以上に硬かった。
「あー、やっぱお前の腕、めちゃくちゃ凝ってるな」
「……そんなに俺に優しくすんなよ。勘違いしちまうだろ」
「勘違いって、何を──」
振り返った瞬間、片倉の顔がすぐそこにあった。真剣で、迷っていて、でもどこか決意したような目。
息が止まる。
片倉の指先が、俺の頬に触れた。
その触れ方が、あまりにも優しくて──
胸の奥が熱くなる。
そして、片倉はゆっくりと距離を詰めてきた。




