第14話 親友の距離
ー智幸視点ー
外来を終えて病棟に戻ると、まだ直己が残業していた。
リーダーの看護師は時短で帰るパートだったはずだ。
結局、時間外の業務は“残っている人間”に降りかかる。
竹山の指示抜けチェックだろう。俺もそのために戻ってきた。
「お疲れさん」
「科長……お疲れ様です。戻られて早々申し訳ありません。竹山先生のこの指示なんですが、いつもの倍になってます」
「またこんな初歩的ミスか……どうしようもねぇな。変なカルテ全部こっちに寄越して」
「はい、これは単位が間違ってます。あと、間口さんの退院は25ではなく29の予定です。この日が整形外科と重なるので丁度いいと家族とも話がついています」
直己は病棟のスケジュールを師長以上に把握している。
坂野師長は悪い人ではないが、会議に追われて現場を見きれていない。
だからこそ、直己の説明はいつも完璧で、無駄がない。
俺はその端的な指示を受け取りながら、ミスだらけのカルテを一気に捌いた。
これが終わらないと直己も帰れない。
だが──夜勤の時間帯で出た指示を、なぜ直己が受ける必要がある?
「……この時間の指示は夜勤でいいんじゃねえのか?」
「いえ、あくまで日勤の指示受けミスなのでこちらで対応します。夜勤看護師は二人しか居ませんので」
日勤だって暇じゃねぇだろう、と喉まで出かかった。
それでも直己は淡々と、真面目に仕事を続けていた。
せっかく話すチャンスなのに──
また拒絶されたらどうしよう。
その不安が喉に引っかかって、言葉が出ない。
「科長、後は大丈夫ですので、おかえりください」
その言葉に、胸が少しだけ沈んだ。
「──飯、行かねぇか?」
「……」
直己の手が止まった。
数秒の沈黙。
そして、ゆっくりと首を振られる。
「──すいません……いつ終わるか分かりませんので」
その声は、仕事の都合じゃない。
俺への気持ちの整理がついていない──そう言っているように聞こえた。
「──今日な、部長から本院に移動してくれないかって打診があったんだ」
「えっ……」
直己の手が止まる。
驚きと動揺が混ざった目で、俺を見た。
「俺が居なくなったら、お前も仕事しやすいだろ。いちいち顔色伺わなくていいもんな。来月中に、あっちの仕事できる医者とチェンジしてもらうから」
直己は何か言いかけて、視線を逸らした。
その仕草が、胸に刺さる。
「悪かったな。お前を元気づけるどころか、俺は自分の欲求を抑えられなかった」
「かた──」
直己の声が震えた気がした。
でも、俺はもう聞けなかった。
心臓に穴が空いたようだった。
居心地のいい親友を、自分の欲望で壊してしまった。
足が重い。
本院に行けば、真弥もいない。直己もいない。
知らない環境で、ゼロからのスタートだ。
それでも……
直己が俺から離れたいのなら──
あいつのために、俺はこの場から消えるしかない。
逃げられている。
そう思った瞬間、胸がひどく痛んだ。
俺の腫れた右頬は、どうやら直己が殴ったらしい。
理由を尋ねても「自分の胸に聞いてみろ」と吐き捨てられ、それきりプライベートな話は一度もしていない。
あの晩──
真弥と酒を飲んで、直己への気持ちに気づいて、“振られたんだな”と思ってやけ酒して、気づけば真弥の策略で直己が迎えに来ていた。
迎えに来た、というのも変な話だ。
干物屋から俺のマンションなんて目と鼻の先。
直己は終電を失うほど反対側に住んでいる。
俺のマンションに泊まらない限り、翌日の仕事に出勤できない距離だ。
あの晩に俺たちの関係に歪みが生じたのは間違いない。
なのに、俺は一体どこでしくじったのか分からないまま今日まで過ごしていた。
直己が怒っている理由も、距離を置く理由も、“嫌われた”以外に思いつかない。
詫びるのが正解なのか。
それとも──
詫びたところで、もう戻れないのか。
胸の奥で、答えの出ない問いだけがずっと渦を巻いていた。
◇
俺は空腹も忘れて、ぼんやりしたままソファーに身体を投げ出していた。
何も考えたくない。何もしたくない。
ただ天井を見つめていたら、珍しくプライベートの携帯が鳴った。
「はい……」
『ごめん、片倉! 本院に行くなんて言わないで欲しい』
直己の声だった。
その瞬間、半分閉じかけていた目が一気に覚める。
まさか──引き止められるとは思わなかった。
「お前は俺の顔も見たくないんだろ。嫌いな人間と毎日仕事するのは辛いし」
自嘲気味に言うと、受話器の向こうで直己が息を呑んだ気配がした。
『違う……片倉は大切な親友だし、これからもそうだって思っている。お前が何考えているのか、わからなくて……』
直己は直己なりに、俺への感情を必死に整理していたらしい。
その言葉が胸に刺さる。
『片倉、お前飯食った?』
「あ、あぁ……そういや腹減ってたのも忘れてたな」
どん底の気分で帰宅して、そのまま動けなかった。
飯も風呂も放置。
こんなに何もかもやる気が出ないのは、生まれて初めてだ。
『お前のマンションに行くから』
「なお──」
呼び止めた声は、情けないほど震えていた。
『夕飯、一緒に食べよう』
いつもの優しいトーン。
その声だけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
携帯を握りしめたまま、俺は小さく頷いた。
直己がどんな気持ちで来るのかは分からない。
ただ──
俺が変な欲望を出さなければ、今までと同じ関係を続けられる。
完全に失ったと思っていたものが、まだ繋ぎ止められるかもしれない。
その可能性に、ほっと胸を撫で下ろした。
けれど同時に、胸の奥で小さな痛みがじくじくと残っていた。
(……本当は、ただ“親友”でいたいわけじゃないのにな)
その本音だけは、誰にも言えなかった。




