第12話 その手を取るなら
ー智幸視点ー
「どうしたの、智幸……溢してるよ」
「は……あ、ホントだ」
気づけば、手に持っていたジョッキが傾き、ビールが腹回りに溢れていた。俺はそれすらも分からないほどぼんやりしていたらしい。
腹回りに垂れたビールを真弥が甲斐甲斐しく拭いてくれたので大惨事には至らなかった。
「矢木くんのこと?」
「んぐっ……!!」
「ちょっと……智幸、顔に出過ぎ。まずは深呼吸して」
ホッケに手をつけていたら図星を突かれて今度は盛大に咽せた。
真弥にはどうせ隠し事なんて通用しない。俺は開き直って本音を話した。
「直己に、キスした」
直球だったけど、真弥にはこれくらいが丁度いい。案の定、さほど動揺することもなく俺の目の前で頬杖をついて話を聞きにきた。
「直己とは、これからも隣で肩を並べて歩きたいって気持ちが強いんだ。それが愛情になのかどうなのか……」
「うん。智幸は俺相手じゃ勃たないから、矢木くんにキスしたのは友情よりも愛情の方が強いんじゃない?」
「……お前、そういう言い方すんなよ」
思わず顔を覆った。
真弥は悪気なく言っているのは分かっている。
でも、図星すぎて胸の奥がざわついた。
「だってさ、智幸。お前は誰にでもキスするタイプじゃないだろ。酔ってても、女にも男にも絶対しない。なのに矢木くんにはした」
「……あれは……なんか、衝動っていうか……」
「衝動って、一番正直な感情だよ」
真弥は淡々としているのに、言葉の芯は鋭い。
くそっ、逃げ場がない。
「嫌がられたらどうしようって、そんなに怯えるくらい大事なんだろ? それ、もう答え出てるじゃん」
「大事なのは……そうだよ。大事だよ。だけど……」
言葉が続かない。
胸の奥にあるものを認めたら、もう戻れない気がした。
「直己は……俺の人生で、一番“失いたくない”やつなんだよ」
言ってから、自分で驚いた。
こんな言葉、誰にも言ったことがない。
真弥はふっと目を細めた。
「ねえ智幸。矢木くんのお母さんのために、あんな無茶して、あんな顔して……あれ見てたら分かるよ。お前はもうとっくに落ちてる」
「落ちてるって……」
「恋に、だよ」
ビールの泡が静かに弾ける音だけが聞こえた。
否定しようとしても、喉が動かなかった。
「……でも、もし直己に拒絶されたら……俺、どうすりゃいいんだよ」
「拒絶される前提で考えるのはやめなよ」
「……俺、どうしたらいいんだろうな」
「簡単だよ。逃げないこと。明日、ちゃんと顔見て話しなよ」
真弥は優しく笑った。
「智幸が怖がっていると矢木くんが一番気づくよ。そういうとこって、みんな敏感だから」
ジョッキを握る手が震えた。
でも、さっきまでの“拒絶される恐怖”とは違う震えだった。
胸の奥で、何かが静かに形を変えていく。
(……逃げない。明日、ちゃんと向き合う)
そう決めた瞬間、ほんの少しだけ息がしやすくなった。
けれど同時に、心臓が落ち着かないほど速く脈打っていた。
直己の顔が、何度も頭に浮かぶ。
驚いた顔も、困った顔も、泣きそうな顔も──全部。
(……俺、あいつのこと……)
そこから先の言葉は、まだ怖くて飲み込んだままだった。
◇
「酔っ払い、頑張って歩けよ」
「う、うぅ……もう飲めない……」
久しぶりに日本酒を煽ったせいで、完全にダウンしていた。
真弥の肩を借りて外に出たものの、タクシーが捕まらない。
生ぬるい夜風が頬を撫で、酔いがゆっくり引いていく。
(……明日、直己とどう接すりゃいいんだ)
“忘れろ”と言ったのは俺だ。
でも本当に“なかったこと”にしたら──傷つくのは直己だ。
そして、俺たちの関係もきっと元には戻らない。
「真弥ー、俺振られたみたいですよー」
「……そんなの、本人に聞かないと分からないだろ」
「聞かなくても分かるだろ……友達だった男にキスされて平然としてる奴なんていねぇよ」
自分で言ってて胸が痛くなる。
なんであの時、直己にキスしたんだ。
あいつを元気づけたかっただけなのに──
「逆効果じゃねぇか……」
「ほら、智幸。お迎えが来てくれたよ」
「あん?」
タクシーかと思って顔を上げると──
そこには、居心地悪そうに視線を逸らす直己が立っていた。
「はい。そういうわけで後は矢木くんに託していいかな?」
「すいません神野さん……科長は責任持って俺が送り届けます」
「あぁ?! 真弥はどこ行くんだよ!」
真弥に状況を聞こうとしたが、あいつは小悪魔みたいな笑みを浮かべて手を振った。
どうりで……タクシーが来ないわけだ。
真弥が裏で直己を呼んだに決まってる。
(……最悪だ。今この状態で直己と二人きりとか)
「──科長、歩けそうですか?」
外なのに“科長”。
その他人行儀な呼び方が胸に刺さる。
もう“片倉“とすら呼んでくれないのか。
「……酔いなんて、完全に冷めたよ」
直己の顔を見られず、俺は窓の外のどうでもいい景色に視線を落とした。
「そうですか……すいません。俺、科長を送り届けたらこのまま帰りますんで」
「何言ってんだよ。真弥に呼び出されたんだろ。終電もねぇし、お前の家遠いだろ。嫌じゃなければ泊まっていけって」
嫌じゃなければ──。
自分で言ったその言葉が、胸の奥で重く響く。
この返事次第で、俺たちはもう友人にも戻れないかもしれない。
数秒の沈黙。
そして、直己は小さく息を吸ってから言った。
「……じゃあ、お言葉に甘えます」
その声は、震えているようにも聞こえた。
◇
気まずい。
直己は真面目な人間だ。
だからこそ、あいつはあいつなりに“線”を引いて、これからは仕事上の上司として接しようとしているのだろう。
なのに、なんでこんな時に限って酒の力は切れるんだ!
さっきまで真弥の肩を借りていた千鳥足が、今は嘘みたいにしっかりしている。
タクシーを降り、マンションのドアを開ける。
背後には、申し訳なさそうな顔をした直己がゆっくりついてきていた。
「そんなに警戒すんなって。別に取って食ったりしねぇよ」
「いえ、そんなつもりじゃ……」
ああ、やっぱりきつい。
大切な友達を失うのは、こんなにも堪えるのか。
笠原と彩香に裏切られた直己を、俺だけは理解して守れると思っていた。
なのに──俺がしたことは、混乱している直己に追い討ちをかけただけだ。
それでも、あの瞬間だけは止められなかった。
直己に向けた、この説明できない感情を。
「片倉、水飲んだ方がいいよ」
俺がノロノロ靴を脱いでいる間に、直己は勝手知ったる様子で台所へ向かっていた。
外では“科長”呼びだったのに、家に入った途端これだ。
(……完全に拒絶されたわけじゃないのか?)
最後の望みに賭けるように、俺は直己の背中を追った。
「直己は飲まないのか?」
「コンビニでお茶買ったから大丈夫だよ」
水を受け取り、隣に腰を下ろす。
直己はジャスミン茶を口にしながら、いつもの落ち着いた声で言った。
「片倉にお礼言わなきゃな。母さんのこと、説得してくれてありがとう」
「代替え案があっても、納得するかどうかは本人次第だ」
「うん……来週から片倉が入れてくれたシャントが使えるみたい」
「そっか、良かったな」
直己の不安がひとつ減った。それだけで嬉しい。
外での他人行儀さとは違い、家に入ってからの直己はいつもの直己だった。
拒絶されていない──その事実に、少しだけ胸が軽くなる。
「なあ、直己……俺のこと、怒っていないのか?」
「怒る? 何を」
「いや、その……キスしたこと」
「あぁ」
直己は“なんだそんなことか”とでも言うように、肩の力を抜いて苦笑した。
その反応に、胸がズキッと痛む。
俺にとっては人生最大級の勇気だったのに──直己はまるで、軽い挨拶みたいに受け止めている。
「怒る理由、ある?」
「いや、あるだろ普通……」
「え? だって雅臣さんは病棟でいつも片倉にキスしてるじゃん。あれと同じでしょ?」
「…………は?」
頭が真っ白になった。
直己は本気でそう思っているらしい。
雅臣の“帰国子女の挨拶キス”と、俺が直己にしたキスを──同列にしている。
「いや、あれはアイツの文化で……俺は……」
「片倉も別に嫌がってないし、普通なのかと思ってた」
天然か。
いや、天然にもほどがある。
俺がどれだけの覚悟で、あの一瞬に踏み込んだと思ってるんだ……!
雅臣の“ハローキス”と一緒にされるなんて、冗談じゃない。
「……直己、お前……本気でそう思ってんのか」
「うん。だって片倉、雅臣さんにされても普通の顔してるし……俺も別に嫌じゃなかったし」
“嫌じゃなかった”
その言葉が、胸の奥で静かに弾けた。
直己は本当に、悪気なく言っている。
だからこそ、余計に苦しい。
(……違うんだよ直己。俺は、お前だからキスしたんだよ)
喉まで出かかった言葉を、飲み込んだ。
今ここで言えば、もう後戻りできなくなる。
直己は呑気にジャスミン茶を飲みながら、俺の反応を不思議そうに見ている。
その視線が、たまらなく愛しくて、たまらなく苦しい。




