第11話 緊急オペ
「矢木くん、よろしく。器械は片倉が持っていくから、言われた場所を引っ張るだけでいいよ」
「は、はい……よろしくお願いします」
「じゃあ手洗いの説明するね。こっち」
オペ室に入り、男子更衣室でモスグリーンのユニフォームに着替えると、そのまま四番の胸外の部屋へ案内された。
そこには“戦場の天使”と呼ばれる神野さんがいて、俺に柔らかく微笑んだ。
だが──「引っ張るだけでいい」と言われても、正直イメージが湧かない。
渡されたマニュアルには、綺麗な字とイラストで手順がまとめられていたが、胸のざわつきは消えなかった。
「真弥、人工血管二種類出しといて」
「使えそうなの、三種準備してる」
神野さんの完璧な段取りに、片倉は満足そうに頷く。
「縫合糸は多めに頼む。余分に針糸かけといてくれ」
「六個作ったけど足りないなら、俺も手袋つけてサポート入るよ」
「助かる。閉創は早めにいきたいからな」
二人の会話は無駄がなく、緊張感の中にも信頼があった。
その横で、俺の心臓だけが落ち着かないリズムを刻んでいる。
母さんの血圧は危険域。
急変も十分あり得る。
──でも、やるしかない。
早く解毒しなければ、母さんは昏睡に落ちる。
俺は深く息を吸い、震える指先を握りしめた。
「俺に出来ることって……何もないですよね」
「何言ってるんだよ、矢木くん」
力なく笑った俺に、神野さんはまっすぐ言った。
「きみがお母様を救うんだよ。最高の親孝行じゃないか」
その言葉に胸が熱くなり、涙がこぼれそうになる。
準滅菌エリアに入った俺たちの前を、意識の戻らない母さんがストレッチャーで運ばれてきた。
◇
手術は緊張の連続だったが、片倉の手際は驚くほど速かった。
俺の役目は筋鉤を引くだけ──それでも手が震える。
片倉は古いシャントの位置を説明しながら、迷いなくメスを進める。
神野さんは完璧なライトワークで術野を照らし、二人の動きは息が合っていた。
「血圧八十.出血十グラム。ガーゼカウントお願いします」
「は、はい……!」
教わった通り、ガーゼを広げて数える。
「“わさ”を持つと数えやすいよ。下が二枚、上が十八枚ならOK」
「上十八枚です!」
形式的な確認でも、俺の声は震えていた。
「よし、閉じるぞ。真弥、交代できるか?」
「矢木くんはお母様のそばにいてあげて。モニターは自動で記録されるから大丈夫」
「ありがとうございます……!」
汗で濡れた術衣と手袋を外し、俺は母さんの横に立つ。酸素マスクをつけた顔は真っ白で、ただ眠っているようにも見えた。
モニターの波形は安定している。
昏睡なのか、眠りなのか──それすら分からない。
「母さん……片倉が助けてくれるよ」
返事はない。
それでも手を握り、流れてくるデータを記録した。
「よし、一時間半なら上出来だな」
「お疲れ様でした」
「お、お疲れ様でした!」
「矢木さん、終わりましたよ。分かりますか?」
片倉は手袋を外すと、すぐに母さんの肩を軽く叩いた。
局所麻酔だから深い眠りではない。心電図も乱れていない。
母さんは朦朧とした意識の中で、俺の手をぎゅっと握り返した。
その右目から、一筋の涙が静かに流れ落ちる。
──本当は、延命なんて望んでいなかったのかもしれない。
それでも俺と美香は、新しいシャントと臨時カテーテルを依頼した。
母さんに生きてほしいと願ったからだ。
その願いを、片倉が確かに繋いでくれた。
◇
無事にオペを乗り越えた母さんの意識はまだらだったけど、俺と美香の顔を見て小さく笑う。
局所麻酔での処置は相当痛いはずなのに、片倉は腎臓への負担を最小限に抑え、最良の選択をしてくれた。
「おう、お疲れさん。これ、矢木母さんの指示な」
呼び方が「矢木」に戻っていて、なぜかほっとした。
片倉が男を名前で呼ぶのは、本当に特別な相手だけだ。
「科長、お忙しい中、緊急対応ありがとうございました……」
深く頭を下げると、片倉は一瞬だけ寂しそうに眉を寄せた。
「……抱え込むなよ。お前の母さん、『孫の成長を見たいから、もう少し生きたい』って俺に言ってた。だから、この処置は間違ってない」
「──ッ……」
「俺は大切な人の命なら動く。でもな、俺だって人間だ。誰にでもじゃない。矢木の母さんだから今回は動いた。それだけだ」
その言い方が、妙に胸に刺さった。
“誰にでもじゃない”
そこに含まれている意味を、俺はまだ理解できていなかった。
「納得できないなら……そうだな、また干物屋に行こう」
「分かった。今度は俺が奢るよ」
「今度は、って……この前も札置いて帰っただろ。ちゃんと俺に奢らせろよ」
片倉は神野さんが好きなのに、俺が一緒にいたら気まずいだろう──そう思って席を外したのに。
どうしてこいつは、俺の配慮に気づいてくれないんだ。
「ほら、また考え込んでる顔してる。──直己」
名前で呼ばれ、顔を上げた瞬間──
片倉の顔がすぐ目の前にあった。
唇に、何かが触れた。
一瞬で離れた。
──今、俺、何された?
「え……」
片倉は視線を逸らし、ほんの少しだけ頬を赤くした。
「……悪ぃ。忘れてくれ。また明日な」
その声は、いつもの片倉よりわずかに低かった。
そのまま夜勤看護師に何か短く告げると、片倉はさっさと医局へ歩いていった。
ぽかんと立ち尽くしたまま、俺は動けなかった。
キスの理由なんて分からない。
ただ──
あの一瞬の距離の近さと、片倉の表情だけが、頭から離れなかった。
胸の奥がざわついたまま、最後のカルテを片付け、俺の足は母さんの病室へと向かった。




