表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
相棒  作者: 蒼龍 葵
11/18

第11話 緊急オペ


「矢木くん、よろしく。器械は片倉が持っていくから、言われた場所を引っ張るだけでいいよ」

「は、はい……よろしくお願いします」

「じゃあ手洗いの説明するね。こっち」


 オペ室に入り、男子更衣室でモスグリーンのユニフォームに着替えると、そのまま四番の胸外の部屋へ案内された。

 そこには“戦場の天使”と呼ばれる神野さんがいて、俺に柔らかく微笑んだ。


 だが──「引っ張るだけでいい」と言われても、正直イメージが湧かない。

 渡されたマニュアルには、綺麗な字とイラストで手順がまとめられていたが、胸のざわつきは消えなかった。


「真弥、人工血管二種類出しといて」

「使えそうなの、三種準備してる」


 神野さんの完璧な段取りに、片倉は満足そうに頷く。


「縫合糸は多めに頼む。余分に針糸かけといてくれ」

「六個作ったけど足りないなら、俺も手袋つけてサポート入るよ」

「助かる。閉創は早めにいきたいからな」


 二人の会話は無駄がなく、緊張感の中にも信頼があった。

 その横で、俺の心臓だけが落ち着かないリズムを刻んでいる。


 母さんの血圧は危険域。

 急変も十分あり得る。

 ──でも、やるしかない。

 早く解毒しなければ、母さんは昏睡に落ちる。


 俺は深く息を吸い、震える指先を握りしめた。


「俺に出来ることって……何もないですよね」

「何言ってるんだよ、矢木くん」


 力なく笑った俺に、神野さんはまっすぐ言った。


「きみがお母様を救うんだよ。最高の親孝行じゃないか」


 その言葉に胸が熱くなり、涙がこぼれそうになる。

 準滅菌エリアに入った俺たちの前を、意識の戻らない母さんがストレッチャーで運ばれてきた。



 手術は緊張の連続だったが、片倉の手際は驚くほど速かった。

 俺の役目は筋鉤を引くだけ──それでも手が震える。

 片倉は古いシャントの位置を説明しながら、迷いなくメスを進める。

 神野さんは完璧なライトワークで術野を照らし、二人の動きは息が合っていた。


「血圧八十.出血十グラム。ガーゼカウントお願いします」

「は、はい……!」


 教わった通り、ガーゼを広げて数える。


「“わさ”を持つと数えやすいよ。下が二枚、上が十八枚ならOK」

「上十八枚です!」


 形式的な確認でも、俺の声は震えていた。


「よし、閉じるぞ。真弥、交代できるか?」

「矢木くんはお母様のそばにいてあげて。モニターは自動で記録されるから大丈夫」

「ありがとうございます……!」


 汗で濡れた術衣と手袋を外し、俺は母さんの横に立つ。酸素マスクをつけた顔は真っ白で、ただ眠っているようにも見えた。

 モニターの波形は安定している。

 昏睡なのか、眠りなのか──それすら分からない。


「母さん……片倉が助けてくれるよ」


 返事はない。

 それでも手を握り、流れてくるデータを記録した。


「よし、一時間半なら上出来だな」

「お疲れ様でした」

「お、お疲れ様でした!」

「矢木さん、終わりましたよ。分かりますか?」


 片倉は手袋を外すと、すぐに母さんの肩を軽く叩いた。

 局所麻酔だから深い眠りではない。心電図も乱れていない。

 母さんは朦朧とした意識の中で、俺の手をぎゅっと握り返した。

 その右目から、一筋の涙が静かに流れ落ちる。


 ──本当は、延命なんて望んでいなかったのかもしれない。

 それでも俺と美香は、新しいシャントと臨時カテーテルを依頼した。

 母さんに生きてほしいと願ったからだ。


 その願いを、片倉が確かに繋いでくれた。



 無事にオペを乗り越えた母さんの意識はまだらだったけど、俺と美香の顔を見て小さく笑う。

 局所麻酔での処置は相当痛いはずなのに、片倉は腎臓への負担を最小限に抑え、最良の選択をしてくれた。


「おう、お疲れさん。これ、矢木母さんの指示な」


 呼び方が「矢木」に戻っていて、なぜかほっとした。

 片倉が男を名前で呼ぶのは、本当に特別な相手だけだ。


「科長、お忙しい中、緊急対応ありがとうございました……」


 深く頭を下げると、片倉は一瞬だけ寂しそうに眉を寄せた。


「……抱え込むなよ。お前の母さん、『孫の成長を見たいから、もう少し生きたい』って俺に言ってた。だから、この処置は間違ってない」

「──ッ……」

「俺は大切な人の命なら動く。でもな、俺だって人間だ。誰にでもじゃない。矢木の母さんだから今回は動いた。それだけだ」


 その言い方が、妙に胸に刺さった。

“誰にでもじゃない”

 そこに含まれている意味を、俺はまだ理解できていなかった。


「納得できないなら……そうだな、また干物屋に行こう」

「分かった。今度は俺が奢るよ」

「今度は、って……この前も札置いて帰っただろ。ちゃんと俺に奢らせろよ」


 片倉は神野さんが好きなのに、俺が一緒にいたら気まずいだろう──そう思って席を外したのに。

 どうしてこいつは、俺の配慮に気づいてくれないんだ。


「ほら、また考え込んでる顔してる。──直己」


 名前で呼ばれ、顔を上げた瞬間──

 片倉の顔がすぐ目の前にあった。


 唇に、何かが触れた。

 一瞬で離れた。


 ──今、俺、何された?


「え……」


 片倉は視線を逸らし、ほんの少しだけ頬を赤くした。


「……悪ぃ。忘れてくれ。また明日な」


 その声は、いつもの片倉よりわずかに低かった。

 そのまま夜勤看護師に何か短く告げると、片倉はさっさと医局へ歩いていった。


 ぽかんと立ち尽くしたまま、俺は動けなかった。

 キスの理由なんて分からない。

 ただ──

 あの一瞬の距離の近さと、片倉の表情だけが、頭から離れなかった。


 胸の奥がざわついたまま、最後のカルテを片付け、俺の足は母さんの病室へと向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ