第10話 命の現場に立つ
午後から病棟に戻ると、外来を終えた片倉が誰かと電話で言い合っていた。
普段ほとんど怒りを見せない男の険しい顔に、師長も落ち着かない様子で俺を呼び寄せる。
「師長、午前中のお休みありがとうございました」
「実はね、片倉科長が腎臓内科の中田部長と揉めてて……午後のオペ枠を二つ寄こせって」
二枠も必要なほど手際が悪いということだ。
片倉は自分で麻酔もこなすが、中田部長は全て麻酔科任せ。
腕を疑われたくないのか、負担の大きい全身麻酔ばかり選ぶ。
「麻酔科が詰まってるので無理です。──じゃあ、そのシャントは俺がやります」
『いえ、それは申し訳ないので当科で──』
「四時間もかけてたら褥瘡ができますよ。今日のシャントは全部こっちで引き受けます。指示だけください」
苛立ちを残したまま通話を切った片倉だったが、俺を見るなり表情を和らげた。
「矢木、母さんは無事に帰れたのか?」
「昨夜はすみません。妹夫婦と同居なので、何かあれば連絡が来ます」
「そうか。困ったら言えよ。お前の母さんなら、俺がさくっとシャント再建してやる」
胸の奥が跳ねた。
本当はその言葉を待っていたのに、俺からは言い出せない。
他科依頼は通らず、中田部長は胸部血管外科にも回してくれなかった。
もし患者家族として片倉に頼んでも、退院後はまた腎臓内科のフォローに戻る。肩身の狭い思いをするのは俺ではなく、母だ。
どうにか穏便に、片倉に頼む方法はないだろうか。
「矢木、これ確認済みだから続き頼む。オペ室にいるから、何かあればPHS鳴らして」
「分かりました」
片倉は忙しさを表に出さない。指示を置くとすぐ麻酔科へ連絡し、階段を降りていく声が遠ざかっていった。
「全く、科長があんなに働くから、研修医の竹山先生が育たないのよ」
珍しく師長も文句を言っていた。
出勤して早々、リーダー机に並ぶ指示の山。
俺は小さくため息をつき、気合いを入れ直した。
◇
午前中に実家へ送った母の容体は気になっていたが、携帯を見る余裕もない。休憩も取れず、午後三時を過ぎた頃には空腹で足元がふらついた。
「少しだけ」と仮眠室のソファーに身を沈めた瞬間、ポケットの携帯が激しく震える。
「……はい」
『兄貴! 母さんが──!』
その一言で、眠気も疲れも吹き飛んだ。
◇
救急搬送された母のデータは、見た瞬間に息が詰まるほど悪かった。
「血圧60台。意識レベル3桁……」
何十年も透析を続けてきた母が、二日空いただけでこんな急変をするなんて。
俺の手は震えていたが、隣に立った片倉は一瞬で状況を把握し、迷いなく動き始めた。
「お疲れ様です中田先生、胸外の片倉です。矢木さんのお母さんが急変で入りました。はい……リスクは高いですが、シャント再建して治療に入るべきです」
声に揺れがない。
判断も早い。
その場の空気が、片倉の言葉ひとつで引き締まっていく。
俺が反応のない母の顔を見つめて立ち尽くしている間に、片倉は次の指示へ移っていた。
「──胸外の片倉です。真弥にシャント再建の器械出しを。三十分後に入る。外回りが無理ならこちらで一人つける。四番が空いてるはずだから、すぐ押さえてください」
淡々としているのに、圧倒的に速い。
誰も逆らえない“現場のトップ”の声だった。
その背中を見て、胸が熱くなる。
俺がどうしようもなく揺れている時、片倉だけは揺れない。
母の命がかかったこの瞬間に、迷わず前へ出てくれる。
頼もしさという言葉では足りないほどだった。
連続の電話を終えた片倉は、俺と美香をIC室に呼び出し、母の状態を簡潔に説明した。
毒素が溜まっているだけで、透析さえ再開できれば持ち直す──ただ、母が代替手段を拒否していたせいで腎内が手をこまねいていただけだ。
「俺が矢木の母さんのオペを引き受ける。上腕の古いシャントを使えば再建できる」
「こ、こんな状態で……本当にやるのか」
「血圧が落ちてる分、出血は少ない。リスクはあるが、今やらなきゃもっと危ない。麻酔は局所でいく。器械出しはプロを一人確保した。あとは──」
片倉は俺の目を真っ直ぐに射抜いた。
「直己。お前が自分の母さんを救うんだ。一緒にオペ室に入るぞ」
今、こいつ……俺の名前を呼んだ?
胸がぎゅっと縮んだ。
そして同意書に走らせていたペンが止まる。
一緒にオペ室に入る──
俺が、母さんを……?
「緊急オペは人が足りない。だが、お前の母さんは一刻を争う。動ける人間でやるしかない」
「で、でも、俺……オペ室なんて……」
言葉が喉で詰まる。
怖い。
失敗したらどうしよう。
オペ室に申し送り以外で入ったことなんてない。
もし、俺のせいで何かあったら──。
母さんの命を天秤にかけられない。
「真弥を外回りに出してもらった。俺が執刀する。間違えない。だから直己──お前が器械出しをやれ」
「む、無理だ……俺、病棟しか知らないんだぞ……!」
「他に方法はない。シャント増設には鉤を引く人間が必要だ。真弥は外回りと記録で手一杯。お前しかいない」
片倉の声は強いのに、不思議と突き放す感じがない。
“できるからやれ”じゃない。
“お前だから任せる”という響きがあった。
それが余計に苦しかった。
美香はすでに片倉に頭を下げていた。
今、母を救えるのは片倉しかいない──それは痛いほど分かっている。
「三十分後に入室だ。早く来ても構わない。介入するのは俺と直己だけだ」
「し、師長に──」
「もう伝えてある。お前をオペ室に借りる許可も取った」
逃げ道は、どこにもなかった。
いや──逃げたくないのに、足がすくんでいるだけだ。
「兄貴……」
美香が泣きそうな顔で俺の袖を掴む。
その手が震えているのを見て、胸が締めつけられた。
「大丈夫だよ、美香。片倉先生は……最高の外科医だから」
「うん……お願い。ママを救って」
片倉の背中は、緊迫した空気の中で唯一揺るがない。
その背中に、俺はすがるように視線を向けた。




