元令嬢が〝選ぶ〟未来
イザベラとナンシーと共にエリオットの元に戻ると、彼らは未だ地べたに座ったままだった。
しかし、ガラウの視線や纏う空気は穏やかだ。当初の剣呑さは無くなっている。
エリオットはジゼルの戻りに気づくと安堵の表情を見せた。そして後ろにいたイザベラを見て微かに目を瞠る。
「戻りました」
「ーーあぁ」
一拍遅れて返事がくる。そして、元婚約者の変貌ぶりを見て痛ましそうに顔を歪めた。それでもイザベラは毅然とし、エリオットに腰を折った。まだ目元は赤く泣いたことはわかるだろう。
少し離れた場所にいたケインは彼女の元に今すぐにでも駆けつけてきそうな様子を見せている。それでも足早に二、三歩進めた歩みを止めたのは、彼女が取り乱すことなく堂々としていたからに違いない。
「エリオット様、ファッジ夫人です」
「ーーイザベラ・ファッジです。ご無沙汰しております、侯爵様」
草臥れた服を着ても髪や肌に艶を失っても、その姿勢や佇まいは凛として美しい。青空と青々とした牧場が王城のパーティー会場に錯覚するほどに、彼女は気品に溢れていた。
「丁寧な挨拶に感謝する。突然だが邪魔をさせてもらっている」
「なにもおもてなしできず、申し訳ございません」
「いや。彼と話をしたかっただけだ。かまわなくていい」
エリオットがそう言うと、イザベラは軽く頭を下げて後ろに控えた。二人のやりとりをハラハラしつつ見守っていたが、何事もなく終わりジゼルはほっと胸を撫で下ろす。
そして、心配そうにこちらを窺っているケインが可哀想なのでイザベラに声をかけた。彼女はジゼルに頷くと夫の元に向かう。
その様子を見届けて、ジゼルはエリオットの隣に両膝をついた。ナンシーは呆れているが止めはしなかった。多少汚れてしまうが、侯爵家の使用人は優秀なので汚れはすぐに落ちるはず。
(それに黄色なら、茶色は目立たないよね……!)
きっとアリアが聞けば「そういう問題じゃありません!」と笑顔で青筋を立てるという器用な技を披露してくれるかもしれない。
「エリオット様、話はまとまりましたか?」
「あぁ。ーーガラウ殿が請け負ってくれることになった」
「なぁに。ちょいとツレに声をかけるだけでさぁ」
ガラウは日にやけた顔をくしゃくしゃにして、カカと笑う。
まるでちょっとそこまでという気安い雰囲気だが、散り散りになった元同僚たちを探すのは大変だろう。
前世のように、スマホがあれば簡単に連絡は取れるが、今はどこにいるのかすら知らない人ばかりだ。
「まぁ、俺たちには俺たちの情報網があるんで心配しなさんな」
「あ、ありがとうございます! とても心強いですっ」
ジゼルは安堵と喜びの滲んだ声で頭を下げる。
するとガラウが「おいおい」と慌ててジゼルを止めた。
「そう簡単に頭を下げちゃいけねえよ」
「いいえ。この軽い頭でよければいくらでも下げます!」
新参者とはいえ、ジゼルは領主の妻だ。エリオットのために頭は下げるし、働きもする。
ガラウは一瞬目をぱちくりさせるとガハハと笑い出した。
「領主様がおっしゃる通り面白い嬢ちゃんだ」
「エリオット様? なにをお話しされたのですか」
「ジゼルのかわいくてお転婆具合をたっぷりと」
(たっぷりとって……!)
エリオットは至極真面目に言ってのけた。しかもまったく悪いと思っていないらしい。
ジゼルはむぅと唇を尖らせると、にやにやしているガラウと目が合った。彼はふっと肩の力を抜く。
「でもよ、奥様。家臣はさ、主人にそう簡単に頭を下げさせたくないんだわ」
「……はい」
「お心はとても立派だが、安売りはしないでくれよ?」
「はい。善処します」
「おう、頼むわ」
ジゼルがキリリと表情を引き締めていると、少し離れた場所から素っ頓狂な声が聞こえた。
「あ、アクスバン商会で働く?!」
「……えぇ。ジゼル様がどうか、と」
その言葉を聞いたエリオットが目を丸くする。そして「本当か」と問うような視線をジゼルに向けた。
ジゼルは小さく頷いて頭を下げる。
「……すみません、やっぱり駄目でしょうか?」
ジゼルはエリオットに相談しなかったことを悔やんだ。
商会に関してはある程度裁量権をもらっている。ただ、エリオットの元婚約者だ。
アクスバン商会はアクスバン家が出資している商会で、いくらジゼルが妻でもいち商会員と変わらない。
しかしエリオットは戸惑いこそはすれど、否定はしなかった。
「いや、駄目ではない。ジゼルがそうしたいのであればそうすればいい」
「事後報告ですみません」
ジゼルはぺこりと頭を下げる。それでもエリオットは怒ったり注意したりはしなかった。
本当にジゼルに任せるといったところらしい。
「もし、できればケイン様もいいですか?」
「ケイン?」
「ええ。同じ場所では働けないかもしれませんが、店舗の護衛とか、劇場の護衛とかもできますし」
エリオットは顎に指をかけてフムと頷く。
「もし、アクスバン領で必要であれば考えます。もちろん、ケイン様にも確認しますが」
まだ彼の要望はなにも聞いていない。
もしかすると、彼はイザベラを働かせたくないかもしれないし、どう考えているのかもわからない。
そこはジゼルの関知するところではなく、夫婦の問題だ。
「ーージゼル様」
ナンシーにそっと声をかけられて振り返る。すると硬い顔をしたケインと覚悟を決めたイザベラが立っていた。ジゼルは立ち上がると彼らと向き合う。
「なんでしょうか」
「イザベラを商会で働かせると聞きました」
「もし、働く意志があるならどうかと尋ねただけです」
「……本気ですか? 失礼ですが、世間からどう見られるかもう少しよくお考えになった方が……」
ケインはイザベラが傷つくことを恐れているのだろう。きっとこの話を聞いた世間は面白可笑しく噂をするはずだ。
「でしたら、断ればよいのです。どのみちどこにいても、事実は消えるものではありません」
イザベラはたしかに貴族社会から消えた。そしてまたなんらかの形で関われば、過去の傷をほじくり返されるだろう。そこにアクスバン侯爵家が関われば一層世間は興味を持つかもしれない。
「ただし、それを選ぶのはイザベラです」
「……!」
「イザベラの人生です。彼女は伯爵令嬢ではなく、侯爵夫人でもありません。ただの〝イザベラ〟という女性がこの先どう生きるか考えるべきことです」
イザベラが貴族の女性なら当然守ってもらうことができた。しかし、平民であればそうはいかない。性別関係なく生活のために働く人がほとんどだ。10歳に満たない子どもでも家の手伝いと称して働くことが普通。
ーーでは、イザベラが自分の身を守りつつ、生活を維持していくためにできることはなにか。
厳しい評価だが、ケインだと心許ないのも事実。
「……どちらにせよ、わたくしはここにはいない方がいいのです」
「イザベラ」
「足手纏いですもの。腫れ物扱いはもううんざりですわ」
イザベラは自重気味に笑う。そして深爪気味の指先をキュッと丸めて、秘めていた思いを吐き出した。
「……それに嫌なのです。〝できない〟と頭から決めつけられるのは。やってみないとわかりませんわ。彼らはただ、わたくしの後ろを気にして大人しくしていて欲しいだけなのです」
イザベラは状況を正しく理解している。だからこそ、イザベラも彼らの意を汲んで大人しくしていたのだろう。それでもきっとずっと悔しかったはずだ。荒れた唇を震わせて、必死に涙を堪える様子が彼女の惨めな気持ちを表していた。
「ジゼル様は言ってくださいましたもの。ーー〝一緒に働きませんか〟と。初めてでしたの。そう言ってくださる方は」
伯爵令嬢時代はきっと打算や下心で近づいてくる人が多かったのだろう。なんと言っても、次期アクスバン侯爵夫人だ。
寂しげに微笑む瞳に僅かに希望が灯る。喜びの種が小さく芽を出し、強くまっすぐな芯が通った。
まだ細く頼りないものかもしれないが、その芯が彼女をしっかりと支えている。
「どうせ働くのであれば、必要とされる場所で働きたいのです」
「……イザベラ」
「わたくしはもう、〝スマジェク〟の名も〝伯爵家〟の重積も〝次期侯爵夫人〟の名誉からも解放されました。失うものはなにもありません。ーーケイン、あなた以外に」
まだ赤みの残る、チョコレートブラウンの瞳が花が綻ぶように笑う。ケインはなにか言いたいことはあるだろうが、それでもすべて飲み込み、その場に片膝を付いた。
「ーーわたしは生涯あなたを守る、と誓いました。あの時の誓いに嘘はありません」
「ならば、一緒に考えてくださいませ」
生粋の貴族であるイザベラが想像しているより、〝働く〟ことは大変だ。
それでも彼女が自分の足で立とうとしている。自分の手で明るい未来を掴もうとしている。
その強さや逞しさを、きっとケインは誇りに思っているはずだ。
「イザベラ。ケイン様とよく話し合って考えてください。答えが決まったら王都の屋敷に手紙をください。こちらは慌てません」
「……はい」
「ケイン様、もし興味があるなら任せたい仕事があります。条件は相談ですが、イザベラと過ごす時間も確保しつつ働けるので、悪い話ではないと思いますよ」
貴族家の護衛になると、夜勤や早朝勤務がある。また要人専属の護衛ともなれば、休みなど合ってないだろう。その代わり給金は高く、また自分になにかあれば、見舞金が出る。高位貴族になればなるほど、見舞金が高くなるのは命の危険性が高いからだ。
「これから家族も増えるでしょう? あなたは一日でも長く健康に働かなくちゃね」
そう言うとケインとイザベラは顔を真っ赤にして俯いた。




