玉の輿
玉の輿なんて、御伽噺の世界だと思っていた。憧れはあったが、前世は結婚はおろか恋人もいなかった寂しい人生を過ごした。死ぬ前に何を思って死んだのか正直覚えていない。この世界に生まれ変わり、20年という短くない時間を過ごしてきたが、変わらず結婚に興味はなく、むしろ縁談がなくてよかったと思っていたぐらいだ。
貧乏子爵家という生まれで、持参金も用意できず、かつ、学歴は中卒。デビュタントは父と踊った後、壁の花になり、窮屈なドレスを早く脱ぎたくて早々に帰宅した。今世もきっとひとり身だと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
(ーー侯爵家から縁談って。いったい何をどうしたらそうなるの)
前世の方がハードモードだったのでつい油断してしまっていた。この世界には、絶対的な権力があり、簡単に白が黒、黒が白になる。
ジゼルはぎゅうぎゅうコルセットを締められて餌付きながら内心で悪態をつく。
(ーーって、家格は合うの? 大丈夫なの? アクスバンって)
「ぐ、苦しい、苺でそう」
「我慢してください」
「もういいよ〜。綺麗に見られなくても」
「お嬢様は原石なのですよ。磨いてないだけで」
突貫工事はボロが出るのだ。だいいちすでに、麦わら帽子を被ってタオルを首に巻いた農作業スタイルを見られている。今更取り繕ったところで遅すぎるのに。
「お腹っ引っ込めてください、ジゼル様」
「無理ー、グェええええ」
”縁談”とエリオットが言ったせいで、屋敷は大騒ぎだ。とりあえず風呂に入れられ、母が昔着ていたドレスを身につけたが、丈は足りないしつんつるてんだ。パニエを減らして少しマシになったが、やはりちょっと短い。ちなみにジゼルより義母のヘレナ方が背が低いのでドレスは共有できなかった。ヘレナは申し訳なさそうにしていたが、こんなこと誰も想定していない。
(ーー仕方ないじゃない。ドレスなんて着ないし)
ココアブラウンのハネやすい髪をハーフアップにし、はちみつ色の瞳がいつもより大きく見えるように、顔を作り込まれる。鏡の前でそれなりに見えるようになったジゼルは追い立てられるように父の執務室に向かった。
「旦那様、お嬢様をお連れしました」
「入りなさい」
随分と昔に習ったマナーを思い出しながら、ジゼルは作り笑顔を浮かべる。
「お、お待たせいたしました」
「いや。こちらが事前連絡もなしに来たのが悪い」
「ジゼル、こちらに座りなさい」
父の隣の腰をかけて、淡紫の瞳とまっすぐに対峙する。前世でこういう色の天然石を見たことがあるなぁ、と思いつつその名前がなんだったのか思い出せない。
「ホースター子爵には許可をいただいた。が、ご令嬢の気持ち次第だと言われている」
「え?」
侯爵家から縁談を提示されて(しかも当人から)、それを断れる子爵家がいたらぜひ手本を見せてもらいたいが。
「ーージゼル。嫌ならこの縁談を断ってもいいと侯爵様は仰ってくれた。が、とてもいいお話だ。ぜひ前向きに考えなさい。侯爵様、あとはジゼルと二人でお話しください」
父はジゼルに目配せして、席を立つと部屋から出ていった。笑顔は固いが悪い話ではないのだろう。シーンと静まる部屋でジゼルはどう切り出そうか悩む。
「まずは、突然のことに驚かせてすまない」
「い、いえ」
「お父上に話した内容を同じではあるが、説明する」
エリオットはそう言うと、指先でテーブルを叩いた。すると「婚姻に関するお約束ごと」と書かれた書式が現れる。
「まず、持参金等は不要だ。身ひとつで我が家に来てくれ。ドレスもジュエリーもすべてこちらで準備する。手元におきたいものがあればまとめておいてほしい。どれだけの物になるかわからないが、多そうなら馬車を準備するので、そちらに乗せて欲しい」
父のご機嫌の理由がわかった。持参金が不要で高位貴族に嫁げる。しかも王族の血を引くアクスバン家だ。ただし身分不相応でもある、とジゼルは思っている。普通なら伯爵家もしくは公爵家のご令嬢たちが望む嫁ぎ先だ。なのにどういて貧乏子爵家に? と不思議で仕方ない。
「次に妹君、弟君の学院の学費及び成人式の費用等もこちらで負担しよう」
「え、そ、そんな!」
「家族になるのだから、できることをするのは当然だ。また、自然災害でなかなか復旧ができていない領地の整備でも協力する。資金も技術も頼ってほしい」
なんか裏があるんですか、というぐらいの破格の待遇にジゼルの目が据わっていく。疑問が募りに募ると胡散臭く見えてしまう。当然エリオットとジゼルは初対面だ。初対面の相手になぜこんな高待遇の条件を提示するのか甚だ疑問だ。
(ーーなんか怪しい)
顔の横でさらりと揺れる銀色の髪。ジゼルの目と紙を行き来する淡紫の瞳。声の抑揚は少なく淡々と話す様子は随分とシステマチックだが、イケボなのですべて許される。って今はそんなこと考えている場合ではない。
「……我が家にメリットしかありませんが、侯爵様のメリットはございますか?」
「あるから提示している。それに無礼なことをしている自覚はあるんでな」
「本音はなんですか? まどろっこしいことが苦手なのではっきりと言って頂きたいです」
うまい話には裏がある。必ずそうだ。はちみつ色の瞳が疑い深く淡紫の奥の心理を探る。
彼は口元を綻ばせると、降参だと言うように両手を上げた。
「……結婚式は一週間後だ」
「い、一週間後?!」
「あぁ。それに出る前提であの条件を提示している。つまり君にはこの場で返事をもらいたい」
たしかにその事情なら理解はできる。家によっては、ドレスを作ったり列席者のリストアップをしたりときっと楽しいはずだ。だが、すべて整えられたうえで「出てほしい」とのことだ。
「ーーこうなった理由をお伺いしても?」
「それはこの話に承諾した後だ」
たしかにこれは侯爵家の醜聞になる。誰彼構わず話せる内容ではないのだろう。
「結婚後は高位貴族のマナーやアクスバン侯爵家の歴史等、アクスバン侯爵家当主の妻として必要なことは学んでもらうが、それ以外は好きにして過ごしてくれて構わない」
「……お茶会は?」
「行かなくていいし開催しなくてもいい。無論、夜会もだ」
それは嬉しい。お茶会の開催や夜会への参加ほど面倒くさいものはない。
「それと、後継の件だが」
「あ、はい」
背筋が伸びる。避けたくても避けられないのが後継問題だ。
「わたしには兄がいるし、必要なら王家から養子を取るので気にしなくていい」
(ーーつまり子作りはせずに書類と表面的な妻でいいってこと?)
ジゼルの肩から力が抜けた。急に結婚して初夜だ後継だと求められるのは正直荷が重い。
いきなり「結婚しよう」と言われてその数日後に初夜です、なんて言われても心の準備ができるわけがなかった。
「つ、つまり、初夜はなしということでよろしいですか?」
つい、声に安堵が滲んでしまう。ジゼルの反応に書類から目を離したエリオットが嫣然と微笑んだ。
「ああ。ーーきみが望むなら構わないが」
ただ微笑まれただけなのに、色気が酷い。
(ーーこの色気、殺人的だわ! よく今まで襲われなかったのね)
テーブルを挟んで顔を合わせているだけなのに、笑顔だけで射殺されそうになった。顔がいいって世界で一番の凶器かもしれない。バクバクする胸を手で抑えて、深呼吸する。
「質問があれば聞こう」
「こ、侯爵様のご要望は?」
「仕事の邪魔をしないでくれ。それ以外なら好きにして構わない」
これぞ、亭主元気で留守がいいというやつだ。衣食住を確保されてしかも放置。
おまけに、妻に求められる後継は不要、お茶会の開催や夜会の出席も不要。
(さい&こう!じゃない? しかも堂々と家から出られるし)
ジゼルの覚悟が決まる。まっすぐエリオットの目を見て告げた。
「……わかりました。その申し出お受けします」
「……そうか、では早速行こう」
エリオットはそう言って立ち上がる。
「え? い、行くってどこに?」
「どこにって我が家にだが?」
「に、荷物を」
そうは言ってもそれほど重要なものは持っていない。
「言っただろう? 身ひとつで来てくれて構わないと」
「あ、あの五分、いえ、十分だけ待ってください〜!」
ジゼルはエリオットに頭を下げると大急ぎで自室に戻った。必要なものと言われても母の形見のペンダントとお手製の下着、ワンピースぐらいだ。
「あ! ネリー! 今日お昼お好み焼きにしようと思ってキャベツを採ってきたんだけど、準備できそうになくて」
ホースター家の料理長はジゼルだった。せめてお昼ご飯の準備ぐらいしたかったが、侯爵様をお待たせしている状況でのんびり包丁など握っていられない。
「あと、裏の苺がいい感じだから、収穫して食べるように言って」
ジゼルはネリーに必要事項だけ伝えると、大慌てで階段を降りてくる。
「お、お待たせしました」
「ジゼル」
玄関では父と義母がいて、レッスン中だったはずの義弟妹まで部屋から出てきた。
「……お父様、19年間ありがとうございました。わたしはアクスバン侯爵家に嫁ぎます」
父は一瞬悲しげな顔をしたが、すぐに「おめでとう」と言って抱きしめてくれた。
義妹は「玉の輿だわ!」と叫び、ヘレナが苦笑している。義弟は不服そうに唇を尖らせた。
「ヘレナさん、おせわになりました」
「何言っているの。わたしこそ、とてもお世話になったの。この子達のことも。ーーあなたが娘でよかったわ」
幸せになって、と言われてジゼルは曖昧な笑みを浮かべる。
たとえもし、これが破滅への道だとしても、この温かい思い出があれば十分生きていけると確信した。




