アクスバン領の異変
ジゼルがアクスバン侯爵家に嫁いで早三ヶ月。季節は春から夏になり、気温は穏やかに上昇の一途を辿っていた。それと比例するように、ジゼルとエリオットの仲も親密になっている。
「……ジゼル、こちらを向いてくれないのか」
「景色がとても綺麗なので」
エリオットが話すと首筋に吐息があたる。そのたびにジゼルは微かに反応してしまうのだが、馬車がガタリと揺れ、彼の高い鼻がぶつかった。
(ーーっ)
いたずらな唇が肌を滑る。温かく濡れた舌先がジゼルの気を引こうとしていた。ジゼルはそれに気付かぬふりしてやり過ごす。
「あまり景色は変わらないと思うが?」
「いいえ。そんなことはありません。時々動物が見えますし、面白い仕掛けなどもあります」
「それは魔物を捕獲するための罠だな。ホースター子爵家にはなかったのか?」
「ーーん」
痺れを切らしたエリオットに抱き寄せられてしまう。はずみで、彼の膝に乗り上げた。慌てていると、淡紫色の瞳がつまらなさそうにジゼルを見上げる。あまり表情を変えない夫だが、この三ヶ月で随分といろんな表情を見せてくれるようになった。
探るように目がなにかを訴えている。シャープなフェイスラインがわずかに傾き、ジゼルを見上げていた視線は、薄く開いた唇に注がれていた。ジゼルは気づいていないふりをして、彼の肩を押し返す。
「わ、わたしは実際に見たことがありません」
「アクスバン領にもたくさんある。実物を見せてやろう」
「あ、ありがとうございます」
だから今はこっちを見てくれてもいいのでは? という無言の圧を感じながらジゼルは言い訳を探した。
エリオットの提案で二人は現在新婚旅行中だ。
子爵家にいた時はほとんど外に出たことがなかったので、こうして堂々と旅行ができるのは、すごく嬉しい。しかも目的地は温泉。おまけに行ったことのない街を通って行くというのだから、ジゼルはずっと楽しみにしていた。
ただひとつだけ、時を戻せるのであれば、「移動時間も旅の醍醐味」と言う言葉を訂正したかった。「転移する」と言った夫の言葉を受け入れておけばよかった。そうすれば、こんな風に、見つめられて困るという事態が頻発に起こることはなかったのに。
「ーージゼル」
「な、なんでしょう」
「そんなにも嫌なのか?」
エリオットは突っ張っている腕を見て悲しげに眉を下げる。麗しい夫に溜息を突かれて、ジゼルの良心がグサグサ傷んだ。
夫は隙あらばところ構わずジゼルに触れようとする。街の中だと自重して、手を繋いだり腕を組んだりするだけに止まるが、今は馬車の中だ。道中何度も彼の膝の上に座らされたり、膝枕をねだられたりしている。
「嫌、ではないですが……」
そして、今朝までいた温泉宿では、毎晩のように可愛がられた。
許可した覚えはないのに、一緒に温泉に入り、夜は彼の腕に抱かれて眠る。
悪戯好きの唇が、何度も愛の言葉を紡ぐのを、どこか夢心地で聞いていた。
「ならいいだろう」
「……もう少し考えてください」
「二人きりだ。誰も見ていない」
「そういう問題じゃなくて」
「ーー当主様、失礼します」
「あぁ、どうした?」
ジゼルは内心で「助かった」と息を吐き出した。だが、エリオットはジゼルを膝に乗せたまま、扉を開けるのを許可する。
ジゼルは慌てて膝から降りようとしたが、エリオットの腕でがっちりと抱きしめられているせいで、降りることができなかった。
「身分証をご提示してください、とのことです」
「ほぅ。この馬車では分からないと? いったい誰の領地に住んでいるんだ、そいつは」
エリオットが獰猛な笑みを浮かべる。護衛騎士のマーカスは膝の上に座っているジゼルを見て、残念な子を見るような目でエリオットに頷いた。
馬車は少し前にアクスバン領に入ったところだった。今は領都に入るため、城門に並んでいる。今回はお忍びで新婚旅行といった理由もあり、馬車は豪華絢爛なものでなく見た目は簡素だが、機能性に富んだものを選んでいた。
もっとも、馬は立派で、他家よりも素材にはこだわって作られた馬車だ。普通の街馬車のようなものではないので、誰が見ても高位貴族が乗っていることは想像できるだろう。当然家紋もついている。
「どうやら新人のようです」
エリオットは好戦的に微笑んで「まぁいい」と頷く。
マーカスの後ろで怯えつつ、これは自分の仕事だと意気込んだ青年がちらっと見えた。さすがにジゼルは膝の上から降りようとした。が、失敗する。
青年はジゼルを見て、その視線を斜め後ろのエリオットに向けて、慌てて平伏した。
「し、失礼しました…!」
「初めて見る顔だな。いつ入隊した?」
「こ、この春からであります!」
ジゼルよりも年下に見える彼は、しどろもどろになりながら答えた。どうして家紋を信じなかったのか、と言えば彼はとても言いずらそうに理由を説明する。
「その、領主様が領地を見捨てた……という噂がありまして」
「領地を見捨てた? なぜだ?」
「バーモン! 貴様何をしているっ!」
「は、はい!!」
バーモンと呼ばれた兵士は慌てて返事をした。ただならぬ様子にエリオットは顔を顰めた。
「彼は私と話していただけだ。貴様こそ何の用だ?」
「彼は私の部下です。失礼があってはと……り、領主様?」
「ほう。私の顔は知っているのか」
淡紫色の双眸が細く鋭くなる。バーモンの上司だと名乗った無精髭の男性は「いや、その、あの」と目を泳がせた。
「私の知らぬ間に、領地に変な噂があるようだな?」
「え、いや、え? そ、そんなことは……」
「バーモンと言ったな」
「は、はい!」
無精髭の男の後ろで様子を伺っていた彼は、エリオットに名前を呼ばれた途端、仰反るように姿勢を正した。
「アクスバンに生まれた限り、わたしは民のために働いている。見捨てることで得るものはなく、失うものの大きさはよく分かっているつもりだ」
「ーーっ!!」
「それこそ、簡単に切り捨てようなどとは思わない」
真摯な答えにバーモンはグッとなにかを堪えるように飲み込んだ。
ジゼルは先ほどまで甘えていた彼が、一瞬で領主の顔になったことにドキッとする。
「噂の出所は気になるが……まぁいい。お前たちは仕事に戻れ。あと、私は今新婚旅行中だ。けして邪魔はするな。いいな? 屋敷にも知らせる必要はない」
アクスバン領では、兄弟の不仲は有名な話だった。また、前領主が次男を可愛がり、前侯爵夫人が長男を可愛がっているという話も同じく皆が知るところである。だからだろう、上司を名乗った彼はあからさまに安堵したように胸を撫で下ろしていた。
エリオットが馬車の窓を閉めて、気難しい顔で腕を組む。ジゼルは不穏な雰囲気を感じながら、恐る恐る夫に尋ねた。
「……エリオット様? 大丈夫でしょうか」
領主が領地を見捨てた、なんて聞いた領民たちはエリオットをどう思っているのだろう。
変に誤解が広がらないうちに、対処をした方がいいかもしれない。
「きっと彼は見捨てた領地にいまさら何をしに来たんだ、と思ったのだろう。正義感が強い奴なら、領主に変わって民を守らねば、と思うかもしれん。ーー兄上はなにをやっているんだ」
エリオットは小さく呟いて、窓の外を見る。その景色の奥には一際大きくて目立つ建物が堂々と立っていた。
「こちらが、ご希望に一番近い物件でございます」
今回、ジゼルがアクスバン領に立ち寄りたかった理由は二つある。
ひとつは、純粋にエリオットの生まれ育った故郷に興味があったから。もうひとつは、フリージアをアクスバン領でも出店する場合の物件探しだ。
王都で開店し、早三ヶ月。
売り上げは上々で、生産が追いつかないほどだった。元々数を作っていないため、余計にプレミア感があるのだろう。オーダーメイド商品は、デザインひとつをとっても時間がかかるが、平民たち用に作ったリーズナブルな商品は、次第に在庫が増えている。あと、数ヶ月もすれば、別の店に置けるぐらいにはなるだろう、算段だ。
在庫を抱えているよりは、捌ける方が好ましい。
そして、アクスバン侯爵夫人が自領に店を出さずに他領に出すことはできない。
ジゼルは短い滞在期間の中で、街並みや人々の様子を見つつ、いくつか物件を実際に確認しようと考えていた。
「広さはどれぐらいだ?」
「2階と合わせると、王都のお店とさほど変わらないかと」
「そうか」
ジゼルは商業ギルドの前で馬車を降りると、事情を説明し物件を紹介してもらった。ギルドでは突然の領主夫妻の来店に驚かれたが、ギルド長が快く対応してくれているのでありがたい。
「たとえば、1階はパジャマをメインにして、2階に下着やフィッテングがあってもいいのでは? その方が男性客は入りやすいかと」
「そうだな」
「ただ、動線は複雑なので、少し古くても先ほどの店舗の方が使い勝手はいいかもしれません」
ジゼルは「うーん」と悩みながら店内をうろうろする。
王都は服飾店が立ち並ぶ一角に店がある。道路に面しているため、外から中はよく見えて、立ち寄りやすい工夫をしていた。それでも、まだ”下着にそこまでお金をかけるのは”という層が多い。
(そういう意味でも、アクスバン領から発信できればいいのだけど)
アクスバン領は、王都の南西に位置している。周囲には温泉街のある男爵領を含めると、いくつかの領地と接しており、前世でいうターミナル駅のような役割をしていた。
そんな領地に、王都とは雰囲気の違う話題の店があれば、きっと足を伸ばす人はいるだろう。もしくは、買い足したり、別の商品を求めて立ち寄ることもあるかもしれない。
「あ、お肉がありますよ。あちらにはフルーツジュースも」
物件は一旦保留にして、ジゼルは広場で腹ごしらえをすることにした。ここだ!と思える店舗がなかったこともある。エリオットは街の様子を眺めながら、ずっと仏頂面だった。商業ギルド長はなにも言わなかったが、なにか聞きたそうな顔をしていたので、気掛かりだったのだろう。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない。それより、何にするか決めたか?」
「はい!」
今世ではあまり買い食いというものをしたことがない。憧れているが、レストランに入って座ってゆっくり食べるほうが美味しいからだ。だが、広場には多くの屋台が出ているので、いくつか買ってみるのも悪くないと思った。
ジゼルはエリオットと共に列に並び、串の刺さった肉とさっぱりした柑橘系のジュースを購入した。
ついでにおやつの焼き菓子もだ。これは馬車移動のおやつにするつもりだった。
「いただきまーす。……んん〜。脂が甘くてジューシー〜♡」
肉はシンプルに塩胡椒で味付けされており、肉の旨みが感じられてとても美味しい。
エリオットの様子を窺うと眉間の皺が少し薄れており、美味しそうに肉を頬張っていた。それを見れただけで胸を撫で下ろす。
「エリオット様」
「なんだ」
護衛のマーカスが、エリオットに呼びかける。彼はせっかく和らいだ皺を戻し、さらに表情を険しくした。ジゼルには聞かせないようにか、彼は背中を向け、声を顰めて話している。
(……なんでも話してほしい、と思うのは間違いなのかな……)
アクスバン領は初めて来た。だから街の変化は分からない。だけど、ジゼルはもうアクスバン家の一員だ。もし何か問題があるなら、一緒に解決していきたいと思う。
「おねえちゃん、僕もお腹すいた」
ジゼルがぼんやりしながら肉を齧っているとボロボロの布を纏い痩せほそった男の子が近づいてきた。
随分と髪を洗っていないのか、埃っぽく塊がある。潤んだ瞳で見つめられて、ジゼルの良心が痛んだ。
「あ!」
膝の上に置いていた紙袋が奪われる。その紙袋の中には先ほど買った焼き菓子が入っていた。
「待ちなさい!」
脚力には自信がある。ジゼルは慌ててその子どもを追いかけた。
「ジゼル!」
そして駆け出したジゼルをエリオットが追う。彼は転移すると、その子どもの前に立ち塞がった。
転移ってほんとチートですね。鬼ごっこで勝てない……笑。そしてエリオットは大人気ない。




