プロローグ
お待たせしました。二章スタートです。
ストックないので、のんびり更新ですがよろしくお願いします。
心地よい揺れの中、エリオットはジゼルの華奢な肩にもたれかかっていた。
左側からじんわり伝わる優しいぬくもり。柔らかく甘い匂いは妻の体臭だ。同じ家で生活し、同じシャンプーやボディーソープを使っているはずだが、彼女から香る甘い匂いはエリオットの心を落ち着かせる。
ジゼルがなにも言わないことをいいことに、エリオットは首を伸ばした。
鼻先を彼女の首筋に近づけ息を吸い込む。すると、安らいでいたはずの心に、ある悪戯心が芽生え始めた。
(ーーもし今ここで唇を押し付ければ、ジゼルはどんな反応をするだろうか)
視線だけで下から様子を窺うと、ジゼルは夫の甘えた様子など気にも止めず、窓の外を眺めていた。変わりゆく景色がよほど面白いらしい。学院に入るまで領地から出たことがなかったのだから、無理もないだろう。
(それにしても、知識には貪欲だな……)
魔物除けの罠やその構造についての知識は、領主やその周辺の者でなければ知る機会はない。この国では女性が領主になることができないので、ジゼルが知らなくても仕方なかった。冒険者として活動していれば別だが、彼女は〝貴族令嬢〟だ。
(だが、アクスバン侯爵家では、その知識すら求められる……。そういう意味では彼女はやはり、アクスバン家に相応しい人材だったかもしれない)
現在、領地は兄スティーブンと、トマスが推薦した代官クグスにより運営されている。
父の死後、エリオットは一度だけ領地を訪れたことがあるが、それ以降はすべて兄に任せていた。兄からの月次報告で書面上の状況は把握している。
とはいえ、書面上のことがすべてではない。それは亡き父が口酸っぱくエリオットに言い聞かせていたことだ。想定以上に早い代替わりで、その父にあまり教えてもらうことはできなかったが、彼が定期的に転移魔法で領地に戻っていることは知っていた。
今回は以前から検討していた新婚旅行のため、王都を一週間ほど離れることにした。目的地はアクスバン領の隣にある温泉街。当初は今話題のリゾート地を検討していたが、ジゼルの希望もあり、温泉街になった。ついでに領地に立ち寄って彼女を案内するつもりだ。
「……ジゼル、そろそろこちらを向いてくれてもいいと思うが」
かわいい妻が外を見て楽しんでくれているのは嬉しい。しかし、新婚旅行はまもなく終わりだ。温泉街への道中はたびたび、馬車を降りて観光した。人目も憚らず手を繋いで歩いたり、デートらしいデートをしたのだ。目的地に到着しては、嫌がるジゼルと無理矢理一緒に風呂に入り、ナンシーから軽蔑した目を向けられた。
それでもエリオットは満足していない。もっとジゼルと仲良くなりたいし、ジゼルに自分を好きになってもらいたかった。
「そ、それは……っ」
ジゼルはなにか言いたげに振り返る。だが、あまりにも顔の距離が近すぎたせいか、ぐるんと窓の方を向いてしまった。彼女の耳は真っ赤で、白い首まで朱に染まっている。
「それは、なんだ?」
「それは」
「もしかして、まだ怒っているのか? 一緒に風呂に入ったことを」
「〜〜〜っ!!」
ジゼルは振り返り口をパクパクさせる。蜂蜜色の瞳は怒っていないが戸惑いと羞恥が混ざっていた。エリオットは素直な反応を見せる妻に微笑みながら、細い腰を抱き寄せる。
「それに温泉街に行きたいと言ったのはジゼルだろう?」
「お、温泉に入ってのんびりしたかっただけで」
「新婚旅行なのだから、気にする必要はない。それにすでにジゼルの隅々まで知っている」
「〜〜〜っ!!」
ジゼルは目を見開くとさらに頬を赤くして顔を背けた。事実を言ったまでだが、こう初々しい反応をされると、悪戯心がくすぐられる。もっと困らせてやりたくなるし、もっと彼女が自分のことを考えてくれればいいのに、と思う。
結婚して三ヶ月。商会の設立や、ジゼルの服飾ブランドの立ち上げ等々、目まぐるしい日々を送ってきた。そんな忙しい中でも、きちんと妻と向き合う時間をとってきたので、それなりに彼女と深い関係を築けているはず……だと思っている。
故に、ジゼルは恥ずかしがっているだけで、本当に嫌がっているわけではないとわかっている。今は思い出して恥ずかしさがぶり返しているのかもしれないが、夫婦なんだからヤるべきことはヤるし、見るべきことは見るものだ。
「そ、そういうこと言わないでください〜!」
「事実だろう? それに馬車の中だ」
エリオットはわざと妻の細い首に鼻を押し付けた。触れた場所からぬくもりが伝わる。驚いたジゼルが小さな悲鳴をあげ、その声に反応したのは、御者席に座る護衛のマーカスと侍女のナンシーだ。二人は振り返って車内が見える小さな窓から主人たちのいちゃつきを見て呆れた目を向けた。特にナンシーに至っては冷え冷えしている。
ジゼルが嫁いできた当初は彼女に対して不満があったようだが、一度衝突した後は心を入れ替えて、ジゼル付きの侍女として働いていた。今は主人のエリオットよりも、ジゼルへの信頼が厚い気がする。
「もう、エリオット様っ」
「鼻がぶつかっただけだ」
「ぶつかっただけ、ではないです」
「次は唇がぶつかるかもしれない」
真面目腐った顔で宣言すると、ジゼルは目を丸くして項垂れた。
「だったら離れてください」
「どうしてだ? 馬車移動がいいと言ったのはジゼルだろう?」
移動も旅の醍醐味だ、とジゼルは言った。そして、道中で金を落とすのも旅の務めだと。かわいい妻にそう言われたら、エリオットも頷かないわけにはいかない。
効率を重視するあまり、これまで道中で金を落とすことはほとんどなかったから。
「馬車移動も悪くないな。ずっとジゼルとのんびりできる。会議やなんだって言い出す奴もいないし、トラブルを起こす部下もいない」
エリオットはジゼルの非難も気にせず大きな身体を無理矢理小さくして、ジゼルの膝を枕に寝転がった。コルセットのないしなやかな腰を抱き、まだ名残があるだろう腹部に顔を埋める。
スンと息を吸えば、布越しから彼女の甘い肌の匂いが鼻腔を通り抜けた。
「も、もう。エリオット様……」
「あと数日でこの時間が終わるのかと思うと惜しい。毎月新婚旅行に行きたいぐらいだ」
もちろん馬車で行くのもいいが、やはり早く目的地に到着して、ホテルや宿でのんびりする方がいい。道中でお金を落とすことはしないが、転移で移動すれば観光だけすることもできる。今回旅先に選んだ温泉街は、他にも宿泊施設があったので、別の宿泊施設を選ぶのもいいだろう。
「……ふふふ。いいですね。年に二回ぐらい、こうしてのんびりエリオット様をお出かけできるのは嬉しいです」
ジゼルは優しい。エリオットが駄々を捏ねているのに、見ないふりをしてくれる。
仕方ないなぁ、と呆れるように笑って、許してくれた。
「そうだな。新婚旅行と商会設立記念にどうだ?」
「それだと時期が被りますよ」
「では冬の社交の時期に行こう。人が少なくていいぞ」
堂々と「社交はしない」と言えば、かわいい妻に呆れた目を向けられた。
それでもジゼルはエリオットを嫌ったりしない。どうしようもない人ね、と笑われるだけだ。
「もうすぐですか?」
「あぁ。あの大きな木の向こうに塀が……ほら」
「わぁ」
エリオットは物心がつく頃から王都にいたので、あまり領地に馴染みはない。しかし、彼らのおかげでエリオットは今領主として立てているし、ジゼルとも出会えた。愛する妻に、できれば彼女の故郷と同じぐらい、アクスバン領を愛してほしいと願う。
馬車の中なので、エリオットは人目も憚らず甘えています。ジゼルは照れ////




