どさくさに紛れて
夕食を終え、緊張の糸が切れたようにグイドはコテンと寝てしまった。子どもらしからぬ目の下に隈があり、ジゼルは義弟の苦悩を知った。だが、エリオットを前にして、義姉にも伝えていなかったことを、涙ながらに訴えるところが抜け目ない。
(あの子も随分と策士だわ)
義弟は簡単そうに「馬車に乗せてもらった」と言ったが、8歳できちんと王都に送り届けてもらえる馬車を見つけて、かつ自分の身を守ってここまでくるのは”運”だけで済まないはず。それに随分と度胸もあった。
(その度胸はきっとヘレナ義母様似なのね)
グイドは母親の隠れた性格を暴露したが、ジゼルも薄々はそんな気がしていた。それでもあの家で過ごすなら、厄介者は自分の方。だから割り切って物分かりのいいふりをして過ごしていた。必要とされたかったという理由もある。高等学院に進学しなかったのは、経済的状況とまだ幼かったグイドとエレナの面倒を見るためだ。
ジゼルが中等学院を卒業し領地に戻ってくると、それまで雇っていたナニーは解雇されていた。ヘレナは父を支えるためといい領地経営を手伝い、後継はグイドだからとジゼルには携わらせなかった。
「ーージゼル、いいか?」
「あ、はい」
風呂から出てきてぼんやりと考えているとエリオットの寝室と繋がった扉がノックされた。脊髄反射のように返事をしてしまったが、本来ならジゼルが向かう方がいいだろう。
「あ、わたしがそちらに」
「もう来た」
エリオットはお盆にクッキーとホットミルクのカップをふたつ乗せていた。そういえば、そんな約束をしていたことを、ころっと忘れていた。
「おいで。すこし話そうか」
「はい」
ジゼルは自然と彼の隣に腰をかける。距離が一気に近くなりそわそわとしてしてしまった。食事中はいつも向き合っているので、隣が落ち着かない。先日も向き合っていたのに、どうして今日は隣なんだろう。
「ーー軌道修正はいつでもできる、だろう?」
以前ジゼルが言った言葉を持ち出され、ジゼルが小さく頷く。ややしてエリオットは言いづらそうに、静かに口を開いた。
「……たしかにわたしは自分の都合だけを考えて、今すぐ婚姻を結べる女性を探し、彼女らの中から消去法でジゼルを見つけた。でも、ジゼルに惹かれたのは本当だ」
エリオットの真摯な目を見つめ返す。
「きみが麦わら帽子をかぶって頬に土を付けて、屋敷から出てきた時、ーーとても可愛らしい人だと思った」
「か、かわいい、ですか」
「あぁ」
顔が熱くなるのを感じて、思わず両手で頬を包む。エリオットを窺うと、彼も耳を赤くしていた。
目が合うと恥ずかしそうに逸らされて、その仕草に胸がときめく。
「あの、はい、エリオット様の言葉を信じます」
「ーーあぁ、うん。よかった」
エリオットは普段の毅然とし態度を取り戻そうと咳払いをする。まだ耳が赤いが、安堵したように微笑んだ。そして長い指をジゼルの頬に滑らせる。
「なら、ひとつ撤回したいことがある」
「撤回?」
「……初夜はなくていいと言ったことだ」
「ぐふっ」
ジゼルは口に含んだホットミルクを危うく吹き出しそうになった。 なんとか飲み込んだものの、気管に入って咽せてしまう。
「こほっ、ごほっ」
「大丈夫か?」
「え、えぇ」
(ーーそれはつまり、初夜をしたいということ……?!)
ジゼルは咽せながら、今度は全身が熱くなる。おずおずとエリオットを窺うと彼はグッと何かを堪えるように呻いた。
「……そんな顔であまり見ないでくれ」
「え」
「触れたくなる」
「……っ」
エリオットの素直な言葉にジゼルは物理的に距離を取る。二人分ほど空間をあけると、エリオットは寂しそうに眉を下げた。
「……それほど嫌か?」
「い、嫌というわけでは」
「なら、もう少し来てくれ」
結局ジゼルは元の位置に戻る。エリオットを見ると嬉しそうだった。犬の尻尾があればブンブン高速で振られているだろう。クールな彼はどこかに消えてしまった。
「だからだな、その。……わたしに触れられることに慣れてほしい」
「……はい」
命令すれば今からでできるのに、エリオットはそうしない。ちゃんとジゼルの気持ちを尊重してくれる。だからジゼルもエリオットに対して情が膨らんでいた。まだ愛とも恋とも呼べない淡い名もなき芽が膨らんでいく。
「慣れるまでは手は出さない。ジゼルの準備ができるまで待つ。だからその時は……」
ジゼルは頭の中で自分を組み敷いて艶やかに微笑むエリオットを想像して顔を真っ赤にした。前世ではそういう漫画をよく読んだが、自分がそれを経験するとなるとハードルが高い。それでも彼に請われれば頷くしかなかった。
「……はい」
小さく頷いたジゼルを見て、エリオットは眉間に皺を寄せて目を閉じた。そして「ふぅー」っと深い息を吐く。
「あの……?」
「いや、なんでもない。それより子爵領のことだ」
「あ、はい」
「結婚の条件に”金銭面も含めた領地経営に関する援助”を申し出ているが覚えているか?」
ジゼルはそういえば、とすっかり失念していたことを思い出した。
「信頼している者を領地に送ろう。ホースター子爵にも聞き取り調査が入るだろう。表向きは必要な援助を把握するため。また、ジゼルがこの度商会を立てることになったので言葉を選ばずにいうと足枷にならないかどうかの調査だ」
ナタリエ夫人と相談した結果、ジゼルは商会を立てることになった。今は商会設立に向けて準備をしつつ、信頼できる針子を集めてくれている。すべてトマスとアリアに丸投げしているので、ジゼルの生活はほとんど変わっていないが、ケティとは頻繁に顔を合わせており、まずはモニターとして侯爵家の侍女たちに着用してもらう流れだ。
「アクスバン侯爵家が作った商会というだけで、信頼されるところもある。その信頼を踏み躙らないように厳重に調査をすればいい」
エリオットの言うことは最もだ。ジゼルは真面目に頷いた。
「状況によっては、グイドをこちらで教育してもいい」
「え、いいんですか?」
「かわいい妻の実家のことだ。力になれることはやるさ」
(かわいい妻……)
先ほども言われた”かわいい”を心の中で繰り返す。
人生で”かわいい”と誉めてくれたのは、家族と身内、仲のよかった友人だけ。それはほとんどお世辞に似た言葉だと理解していた。
デビュタントで父以外に誰にも誘われなかった自分が、かわいいはずがない。
だけど、こうしてエリオットに見つめられながら”かわいい”と言われると自分が本当にかわいいんだと信じてしまいそうになるから不思議だ。
「トマスに諸々伝えてある。だから心配しなくていい」
「……はい」
ジゼルは頷きながら冷めたマグカップを持ち上げた。エリオットの腕が肩に回りそっと抱き寄せられる。その勢いに任せてジゼルは彼の肩に頭をこてんと乗せた。すると、エリオットがバッと顔を逸らしてしまう。
「ど、どうして照れるんですか」
「照れるからだろう」
「結婚式のとき、平気でキスしたくせに」
前日に頬にすると言ったのに、堂々と唇にしたのは誰だ、と今になってその話を持ち出すとエリオットはばつが悪そうに目を逸らした。
「あれは」
「あれはなんですか?」
「……ジゼルがあまりにも綺麗だったから」
「え?」
「余裕そうな顔を見て意地悪したくなった」
「はぁ?」
「じゃあ、聞くが。頬だからって安心していたのではないか?」
そう言われるとぐうの音も出ない。
「だからちょっとした意趣返しだ」
わたしは悪くない、と言うエリオットがグイドみたいでかわいい。
思わず吹き出して笑うと、端正な顔が目を丸くした。
「なぜ笑う」
「理由が幼稚すぎて」
「ーーっ」
あのドヤ顔を見れば大した理由がないことはなんとなくわかったが。
「じゃあ、今しても問題ないな?」
「え?」
片手で顔を固定される。気づいた時にはもう唇からほんのりとした温かさが伝わっていた。はちみつ色の丸い目を見て、泡紫色の双眸が楽しげに和らぐ。ジゼルの両手にあるカップを指先ひとつでテーブルに戻すと、グッと抱き寄せられた。
「ーーいやか?」
「今、聞くんですか?」
「それもそうか」
エリオットはふわっと笑うともう一度唇を重ねる。ほのかに香るバターが芳醇で何度啄まれても唇が離れない。
「ん、んんんっ」
肩をトントン叩くとようやく解放された。涙目で睨みつけるとエリオットに笑われてしまった。
「言っただろう? 慣れてくれ、と」
「段階があると思いますけど!」
「なら、今日から一緒に寝てみるか?」
「え?」
「次はそこだろう?」
本来なら寝室は共にするものだ。だが、エリオットが初夜をしなくていいと言ったこともありジゼルは堂々と自分の寝室で寝ていた。キスの次は同衾だと言われてジゼルは戸惑う。
(手を繋いで、ハグして、キスしてそれからじゃないのか……!!)
どうしても前世の感覚が混じっているせいで、感覚が掴めない。前世に比べると、この世界では意外とステップが大きいと思う。しかも政略で結婚したよく知らない相手に簡単に身を委ねる勇気もすごい。
(だから、結婚前に好きな人に捧げる女性が多い……のよね)
恋も愛も縁談というものにも無縁だったジゼルは考えたことすらなかったが。
「では、明日からで」
「なぜ今日ではない?」
「ぐ、グイドが」
「ここには来ないだろう? それに明日もいるさ」
言い訳を考えてみたものの、エリオットは引く様子はない。むしろジゼルの答えを聞かずにベッドに連れて行かれた。
「わたしのベッドで寝るんですか?」
「隣に行くか? 慣れている方がいいかと思ったが?」
ジゼルが答えに迷っている間にエリオットはベッドに潜り込んでくる。
「明日からわたしの部屋で寝ればいい」
結局ジゼルが答えを出す前に明日以降の就寝ルールが決まった。




