第8章閑話
六月二十八日、木曜日。午後十二時三十三分。
束音宅にて。
キッチンのテーブルに座る雅とレーゼ。テーブルの上には、ごはんやおかずが盛り付けられた食器が並べられており、見ての通り昼食の真っ最中である。なおメインディッシュはアジのフライ。そこに漬物が添えられている。
しかし、レーゼがえらく真剣な表情を浮かべ、雅も緊張した面持ちで彼女を見守っていた。
およそ昼食には似つかわしくない表情。二人の目は――レーゼが持つ、箸に向けられている。
僅かに震えながらも、箸の上には一口分のご飯が乗っけられており、ゆっくりとレーゼの口まで運ばれていた。
そして十数分後。
二人の茶碗と皿が空になり、一呼吸置いた後、レーゼは小さく笑い声を上げる。
「ふふ……ふふふふふ……やったわ、ついにやったわよミヤビ! 私、ちゃんと箸を使えたわ!」
「おめでとうございますレーゼさん!」
二人は両手でハイタッチを交わす。肩で息をしているが、レーゼの顔には満足のいく達成感が浮かんでいた。
普段の彼女からは想像出来ない程喜んでいる理由は、言葉の通り箸を上手く使えたからである。
彼女が元いたナランタリア大陸には、箸を使う文化が無い。食事の際はナイフとフォーク、スプーンを用いる。別の地域――ヴェスティカ大陸の一部の国では食事の時に箸を使うため、レーゼも箸の存在や、どうやって使うのかは知っていたが……使い方を知っているのと、実際に使えるかは別問題。最初の頃はぎこちなさ過ぎて、見かねた雅がフォークやスプーンを出し、結局それを使うことに甘んじていた。
しかしそこはレーゼ。これでは良くないと思い、練習を続けた結果、その努力が今日、実ったのである。
「最初は、こんな棒で食事が出来るのかって思ったけど……要は慣れね。頑張れば何とかなるものだわ」
「まぁ、日常使いしている日本人でさえ、偶に持ち方が変な人もいますからねぇ……。あ、ところでレーゼさん、今日は夕方、愛理ちゃんの家に行くんでしたっけ?」
「ええ。サガミハラさんが迎えに来てくれるから、一緒に行くことになっているわ」
優と愛理が学校が終わった後、レーゼと三人で、明後日に迫る雅の誕生会の打ち合わせをすることになっていた。まさか当日の主役が打ち合わせの場にいるわけにもいかないから、雅は家でお留守番である。
「あー……ところで、ミヤビは元々学生だったのよね? 今は休学しているけど……今後はどうするの?」
「学校ですか?」
レーゼが躊躇いがちに尋ねれば、雅は視線を上に向けて考え込む。
正直なことを言えば、雅だって復学はしたい。高校生活には夢がある。
だが、
「しばらくはこのままですねぇ。学業に勤しむ余裕も無いですし……」
学生に戻れば、平日の朝から夕方までは学校に拘束されてしまうことを思えば、高校生に戻る選択肢は雅には無い。
それを聞いて、レーゼは小さく「そっか」とだけ呟いた。
雅が学生に戻らない理由は、レーゼにも分かる。
それでもレーゼとしては、折角元の世界に戻ってこれたのだから、将来のことも考えて学生に戻って欲しいと、どうしてもそう思ってしまったのだ。
***
夕方、午後六時三分。
新潟市中央区東堀通りにあるマンション。その七階に、愛理が住んでいる部屋がある。そこに、彼女は一人で暮らしていた。両親は健在だが、事情があり別居中である。
三LDKという、学生の一人暮らしにしてはちょっと広過ぎる一室。勿論家賃もそれなりにするが、月数十万をコンスタントに稼ぐWaytuber的には大きな負担でもない。その他諸々の生活費も含め、全て愛理が自分の稼いだお金で賄っていた。
動画撮影用の機材が置かれた部屋に、レーゼと優は通される。物珍しさにキョロキョロするレーゼを見て、優は初めて自分がこの部屋に来た時も同じ反応をしたなぁ、と懐かしさを覚えていた。
隅に置かれたテーブルを部屋の真ん中に持ってくると、愛理が二人に声を掛ける。
「適当に座ってくれ。飲み物は珈琲でいいか?」
「うん」
「お、お構いなく」
二人がそう答えると、愛理はキッチンの方に向かい、部屋にはレーゼと優だけが残る。
流れる沈黙。
特別仲が悪い、という関係でも無いのが、どうも互いに、何を話せば良いのか分からずこうなってしまう。ここに来るまでもこんな感じだった。言葉の無い空間を楽しめるほど、二人はまだ親密になっていない。
大体は、どちらかが無理矢理話題を捻り出すことで沈黙が破れるのだが、今回はレーゼの番だった。
「ミヤビの誕生会、去年はどんな感じだったの?」
「この間、愛理がみーちゃんの家で皆を呼び出したみたいに、色んな人を呼んだので、とても賑やかでしたよ。有名人の開いたパーティみたいなイメージかな? 毎年こんな感じだから、今年もそうしようかなって思ってる」
「あの子、友達が多いのね。分かってはいたけど」
この数日、自身の無事を色んな人に報告するために慌しくしていた雅の姿を思い出すレーゼ。老若様々で、まだ若いのに随分多くの友人がいるものだと感心してしまった。
「ちょっと目を離すと、すぐ友達が増えるんですよ。そんなに増やしてどうするんだって思うんだけど……」
「そう言えば昨日……ヤヒコってところにいった時も、初対面の年配の方と仲良さそうにしてたわね」
「あ、昨日と言えば、怪我とかないですか? 親と愛理から聞いたんですけど、レイパーに襲われたって……」
「例の鏡、片割れがもう一つあるんだけど、それを探しに山に登ったところでね。ミヤビとシノダさんと一緒に、何とか倒したわ、ところで、ご両親からは鏡の件、何か話はあったかしら? まぁ、昨日の今日で、何も無いとは思うんだけど……」
駄目元で聞いてみるレーゼだが、結果は予想通りだ。
「おまたせ。む? 何の話をしていたんだ?」
するとそこに、三人分の珈琲カップの置かれたお盆を持った愛理が帰ってくる。
「ありがとう。昨日の弥彦の話」
「なんだ、その件か。マーガロイスさん、昨日はありがとう。一緒に戦えて心強かったです」
「いえ、私なんて別に大したことは……。止めは、シノダさんとミヤビが刺したんだし」
「マーガロイスさんが隙を作ってくれたお陰ですよ。さて、早速打ち合わせを始めよう。当日まで、時間も無い」
世間話もそこそこに、三人は誕生会の打ち合わせを始めるのだった。
***
「そう言えば、レーゼさんの誕生日は何時なの?」
午後七時三十四分。打ち合わせも煮詰まり、一段落が着いた頃。
優の唐突な質問に、レーゼは壁に掛かったカレンダーに目を向ける。
「こっちの世界と向こうの世界じゃ、大体の時間感覚は同じだから……後二ヶ月半くらいで十七歳になるわね。このカレンダーで言うと、九月十六日あたりかしら?」
「へー。ちなみに私は八月三日。愛理は?」
「四月二十一日だな。もう十六歳だ」
「えっ? 言ってくれれば祝ったのに……!」
「何だかんだバタバタしていたからな。気にするな。ところで二人とも、夕飯はどうする? 食べていくか?」
「ありがたい申し出だけど、ミヤビがきっと何か作ってるはずだから、遠慮させて頂くわ」
時間も時間だ。折角だからと愛理が誘うが、レーゼは丁重に断りを入れる。
「そうか。なら、また今度。相模原は……」
「私もパス。お母さん達のご飯の用意もしておかなきゃだし」
「警察関係者だものな。帰りも遅いと、大変だろう」
「ま、慣れたけどね。あ、そうだ。慣れたと言えば、レーゼさん、もうこっちの生活には慣れた?」
「ええ。割と。でも、お金絡みのところはまだ勉強中よ。『デンシマネー』とかいうの、向こうには無かったし……。あ、そう言えば、ちょっと聞いて欲しいんだけど、今日はようやく箸を使えるようになったのよ」
そう言うと、レーゼは明るい口調で話し始める。
今日までの彼女からは想像もつかないその様子に呆気にとられる二人だが、レーゼは余程嬉しかったのだろう。
結局、若干置いてけぼりになる二人を余所に、しばらく箸が使えるようになるまでの苦労や喜びについて語り始めるのであった。
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