第439話『蘆薈』
淡の左腕に、包丁を突き刺そうとした杏。
その手が、背後から伸びてきた別の手に掴まれ、阻まれる。
同時に部屋の灯りが点き、杏が驚きの声を上げて振り返れば――
「……間一髪、間に合って良かった」
そこにいたのは、厳つい風貌に短髪の男性……相模原優一警部だった。
部屋の入口には、目つきの悪い、おかっぱの女性……優一の部下の、冴場伊織がいる。部屋の灯りを点けたのは、彼女だ。
二人とも、額や首筋に汗を浮かべ、肩で息をしている。全速力でここまで来たのだというのは、明らかだった。
「な、何故……」
掴まれた腕を振りほどこうとすることすら忘れ、わなわなと震える声で、杏はそう尋ねる。
一体どこで勘付かれたのか。頭の中は、そんな疑問で一杯だった。
この場で一切動じていないのは、淡くらいなものだろう。しかし彼女も、優一達が現れたことには不思議に思っている。
「我々も、危うく見逃すところだった。……あなたの計画に気づけたのは、瀬郷さんが、あなたを迎えに来ていたからです」
「……?」
答え合わせをするように優一がそう告げると、杏が眉を顰めた。
だが、優一は構わず続ける。
「村上からここまでは、片道おおよそ一時間。面会は三十分。つまり、会社を出発してから帰るまで、トータルで二時間半。そして瀬郷さんは社員。……彼女の業務を止めさせるには、あまりにも長すぎる時間です」
「一般的に、会社の役員が、運転手付きの役員車を用いるケースはあるっす。けど、浅見社長は今まで使ってねーっすよね? 運転は自分でやっていたはず。……経営が悪化して、社員もたくさん辞めている中で、運転業務に社員を使う理由はねーっす。それが疑うきっかけになったんすよ」
特に今回は、大学病院まで来るのに警察が用意した車両を使った。行きも帰りも、運転手の心配はいらない。
にも拘らず、由香里が来たことに、優一達は違和感を覚えたのだ。
「先程、彼女に話を伺ってきました。――認めましたよ。あなたが今夜、ここに忍び込めるように手筈を整えていたことを」
「あんたの指示でやったことまでは、頑なに認めねーっすけどね。でも、指示したんすよね? そうじゃなきゃ、やる理由がねーっすから」
二人の言葉に、杏は唇を噛み締めてから、悔しそうに「ええ、そうよ」と呟く。最早、言い逃れは出来ない。
「私達が面会に来るのに出発してから少し経った後、彼女にもここに来てもらっていたわ。警備システムをハッキングしてもらっていたのよ。彼女、うちのシステム関連全般の設計と管理をしているから」
面会の約束を取り付けさえすれば、淡がいる部屋は分かる。警備の問題がクリア出来れば、侵入は可能だ。
故に、杏が優一達警察官を引き受けている間に、由香里が大学病院に侵入し、システムに細工――遠隔からではどうにも出来なかったため、病院のメインシステムを直接弄る必要があった――をしたのである。
「道理で、面会中のあなたは大人しかったわけだ。事を荒立ててしまえば、最悪鬼灯淡への復讐を予想されてしまうかもしれない。それだけは、何としても避ける必要があったのですね」
「瀬郷は優秀だから、十分もあれば仕事は充分間に合う。……でも、うっかりしていたわ。彼女に、私を迎えに来たような演技をさせる必要は無かった。あなた方に、私の計画を勘付かれるリスクを冒したくなかったのだけど」
「……なんで瀬郷さんは、この計画に加担したんすか? 動機すらも黙秘してるんすよ」
「彼女、四葉とそれなりに交流があったのよ。四葉のトレーニング相手も務めていたことがあったし。だから、私と同じで我慢ならなかったのでしょうね。――この女が生きていることには……っ」
杏はそう言い放ち、あらん限りの憎しみを込めた視線を、無表情の淡に向ける。
「まだ未成年……それだけの理由で、私の娘を殺した罪から逃れている! それがどれ程……どれ程に苦痛か……あなた達に少しでも分かるっ?」
「…………」
「相模原警部……あなたにも娘がいるでしょう! なら、分かるはずよ! 想像してみなさいよ! 自分の娘が殺された時の心境をっ! ……この手を離してっ! 殺らせて……っ! その後に捕まったって……極刑が下されたって私は構わないっ!」
掴まれている腕と反対の拳を、優一の腕に叩きつけ、杏は涙ながらにそう叫ぶ。
だが、優一はその手を離すことは決してせず、静かに首を横に振る。
「……確かに、私にも優という娘がいる。日々レイパーと戦うという、危険極まりない行為を繰り返す困った娘だ。挙句、これが世の為になっているのだから、質が悪い。……もしもそんな娘が殺されたとなれば、私も決して許せんでしょう。殺したのが人間であれば、例え極刑になったとあっても、そいつを許すことは出来ないはずです。あなたと同じことを、私がしない自信は無い」
「なら――」
そこまで言いかけた刹那、杏は思わず黙らされる。
優一の掴む手に、力が籠ったから。
「警察官として恥ずべきことを正直に白状すれば、あなたが狙っているのが鬼灯淡ではなく、別の誰か……それこそ、四葉さんと何ら関わりのない相手だったとあれば、あなたを止めるのには間に合わなかったかもしれません。――何故、私が間に合えたのか、分かりますか?」
「……?」
「四葉さんは死ぬ直前、雅君にこう頼んでいたそうです。『淡を助けてあげて』と。自分を殺しにきたのにも拘わらず、彼女はまだ、その子を友達だと思っていた」
「…………」
「殺すんですか? 娘さんが、助けようとした人ですよ」
「………………っ」
「悩みませんか、殺してもいいのかと。……私があなたの立場なら、永遠に答えは出せません。だからこそ、あなたにここで、彼女を殺させるわけにはいかない。私が間に合えたのはきっと、四葉さんの、鬼灯淡への想いを知っていたからでしょう」
「……その言い方は、ズルいわ」
力が抜けたように、杏が震えた声でそう呟く。
カンと音を立てて床に落ちる、錆びた包丁。
優一が「自首、して頂けますね?」と尋ねると、杏は涙を零しながら小さく頷いた。
***
伊織に連れられ、病室を出ていく杏。
残ったのは、優一と淡だけだ。
「鬼灯さん、怪我はありませんか? 今、医者が来ます」
「ええ。大丈夫です。何も怪我なんて、していません」
平淡な言葉。
だが、優一は僅かに感じた。彼女の言葉の裏に、「どうして杏が自分を殺すことを止めたのか」と非難しているような、そんな気持ちを。
優一は少しの間、淡をジッと見つめ――やがて、決心したように口を開く。
「鬼灯さん。あなたに一つ。――生きなさい。それが、我々人間があなたに課した、たった一つの罰なのだから」
「…………」
無言で優一を見つめる、淡。
遠くから聞こえてくる、医者が駆け付けてくる足音。
淡が何を思ったのか、優一には分からない。そしてそれを聞くつもりは、今は無かった。
こうして、杏の淡への復讐劇は、未遂に終わったまま、幕を閉じた――。
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