第438話『大薊』
その日の夜、十一時四分。
新潟大学医歯学総合病院の裏口に忍び寄る人影。
本来なら警備がされているはずだが、今は何故か偶然、警備担当者が不在であり、警備システムも切られている。忍び寄ったその人物は、いとも簡単に中へと侵入していった。
だが、しばらく進んでいると、
「――っ!」
廊下の向こうから、看護師が歩いてくるのが見え、侵入者は慌てて近くの物陰に身を潜める。
その所作だけで、何かやましいことを企んでいるのは明らかだ。
看護師が通り過ぎ、姿を消したことを確認すると、侵入者はゆっくり、慎重に進んでいく。
警戒心こそ多分に含まれているが、その足取りに迷いはない。
夜中故に人は寝静まり、病室の外を出歩く人は少ないが、その人物はたっぷり三十分もの時間を掛け――とある一室に来ていた。
扉の横……そこに掛けられたネームプレートには、こう書かれている。
『鬼灯淡』と。
扉の取っ手を握る侵入者。その手には、自分でも制御できない程、強い力が込められていた。
***
そして、その病室内にて。
「…………」
ベッドにいるのは、目元まで伸びた前髪の、ボブカットの少女。目を閉じ、微かな寝息を立てている。周りには、検査に使うためなのか、色々な機械が置いてあった。
彼女こそが、鬼灯淡。――かつて、人工種のっぺらぼう科レイパーとなって久世の元で活動し、浅見四葉を殺した少女である。
憑りついた者をパワーアップさせる代償に、感情という形のエネルギーを奪う、四枚のお面。淡はそれを全て取り込み、長いこと同化していたせいで、今や感情を失ってしまった。
そんな彼女は――不意に目を開ける。
扉が開いた音が、聞こえてきたから。
うつらつらとした思考が、徐々に覚醒していく。
足音を立てないように気を付けているが、誰かが入ってきた気配がする。
こんな時間に来る看護師はいない。明らかに、招かれざる客が来たのだ。
……だが、淡は悲鳴を上げることはおろか、驚くこともなかった。
感情を失っているから、というだけではない。――ある種、予想はしていたのだから。
「……やはり、来ましたか。――杏さん」
全くと言っていい程、抑揚の無い淡の声が、病室にやけに大きく響く。
ピタリと止まる、忍び寄っていた人物の足音。どうやら、気付かれるとは思っていなかったらしい。
雲に隠れていた月が顔を出し、病室の中を照らすと、侵入者――杏の顔が露わになる。
冷酷な殺人鬼のような、その顔が。
僅かにざわつく、淡の心。背筋が凍るこの感覚は、酷く久しぶりだ。感情が消えた今でさえ、彼女は杏に対し、確かな恐怖を覚えていた。それ程までに、杏は恐ろしい表情をしていた。
「何故、分かったのかしら?」
肝が冷え、胃が痛くなるような杏の尖った声。常人であれば、それだけで泣いて逃げ出してしまいそうな迫力があるが、淡は表情を崩すことは無い。
「今日の面会、違和感はありました。私に言いたいこと、聞きたいことは山ほどあったはずなのに、すぐに切り上げてしまいましたから。……今日、この時間に、私と二人で会うことが、杏さんの目的だったのでしょう? どうやったのかは、分かりませんが」
「ええ。……夕方やって来たのは、ただ準備をするためだけよ。どうせ警察の監視下では、碌なやりとりも出来ないなんて、分かり切っていたわ」
夕方来た時に、淡の病室の場所は把握している。他にもいくつか、侵入するための細工もしておいた。
裏口の警備が異常に手薄だったのも、そのためだ。
再び淡に近づき始める杏。もう、気配を消すような足取りではない。走ることこそないが、それでも足早に、淡へ迫る。
そして淡は、見た。
杏の手に――錆びついた包丁が握られていることに。
その切っ先が、淡の左腕へと向けられ、杏は口を開いた。
「一つ、勘違いをしている。言いたいこと、聞きたいこと……そんなものは、もう何も無いわ。今日、私がここに来た目的は、ただ一つ――」
「私を殺したいのなら、そうして下さい。……あなたには、その権利がある」
杏の言葉を遮るように、淡はそう告げる。彼女の目を、しっかり見つめて。
淡々と、一切の感情も無く。だがその言葉には、はっきりとした諦観の心……いや、ある種の悟りを開いたようなそんな雰囲気が、確かに含まれていた。
ギリっと奥歯を噛み締める杏。
泣くことも、取り乱すこともないとは思っていた。だが、この反応は、杏の怒りにさらに火を点ける。
「言われなくても……っ」
包丁の持ち手に、怒りと憎しみ、恨み……ありとあらゆる想いが力となって籠り、切っ先がワナワナと震えだす。
「四葉が……私の娘が受けた苦しみを……痛みをっ、何倍、何乗にもして、味合わせてやるっ!」
「……まずは、左腕ですか」
スッと持ち上がる、淡の左腕。
何か月も入院し、弱く、儚くなったその青白い肌が、暗い部屋の中でもいやにはっきりと杏の目に映る。
僅かに震える、淡のその腕。
彼女は、今でもはっきりと覚えていた。四葉の腕、体を、あの鋭い鉤爪で、ばっつりと斬った、あの感触だけは。
だがあの時の気持ち、嫌悪感……そういったものは何もかも、もう思い出せない。きっと酷く気持ちの悪いものだったのだろうと、想像するくらいは出来る。だが、分からないのだ。何もない空間に手を突っ込んで、どんな形をしているかも分からないようなものを探そうとするような、そんな感じしかしない。
「私には、もう何もない。彼女を殺してしまった罪悪感も、悲しみも、後悔も。彼女を想い、涙を流すことすら出来なくなった」
杏に好きに切り刻んで貰えば、あの時の気持ちを、少しくらいは思い出せるだろうか。
ほんの僅かに、淡はそれを期待してしまう。
淡は、望んでいるだ。――多少なりとも、罪の意識を取り戻すことを。
それが例え、永遠に終わることの無い苦しみだとしても、きっと今よりはマシだと、何となく思えるのだから。
「どこまでも……っ、馬鹿にして……っ!」
もう、淡の言葉等聞きたくもないと、杏は包丁を振り上げると同時に、彼女の腕を乱暴に掴んで引き寄せる。
一切の抵抗もしない淡。
杏の眼から零れる液体。
その手が振り下ろされる直前。
「そこまでだ」
「っ?」
誰かが、杏の背後からその腕を掴んだ――
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