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第375話『過去』

(……あれ?)


 時計型アーツ『逆巻きの未来』で、元の時代へとタイムスリップを試みた雅。


 アーツのスイッチを押し、眩い光に包まれて目を閉じ――ヴァイオリンの美しい音色が聞こえてきて目を開けたのだが……雅はすぐに、おかしなことに気が付く。


 てっきり、元の時代の、関屋浜海水浴場に来ると思っていた。逆巻きの未来は基本的に時間の移動だけ……つまり、使った場所から移動するようなことはないはずだから。


 しかし、今雅が立っているはずのこの場所は……どこか見知らぬ部屋の中。


 さらに、


(あ、あれ? 私……なんか変……)


 辺りを見回そうとしても、体が自由に動かせない。


 声すらも出すことが出来ない。


 しかし、雅の視界だけは、時折動く。


 温かみのある、柔らかな光に照らされた室内以外で雅の目に映るのは、楽譜や、それを置くためのスタンド、それと、自分のものであるはずの腕。


 手には、ヴァイオリンの弓を持っていた。


(なんで私、ヴァイオリンを弾いて……あ、いえ、待った。もしかしてこれは――)


 ここまできて、雅はようやく気が付く。


 どうやらこの体は、自分のものではないらしい、と。


 そして――


「んー、ヤバいなー。本番前のウォーミングアップのつもりだったのに、なんか気が乗って来ちゃった。誰かに聴いてもらいたい。アングレー、近くにいるかな……?」


 この体の人物は、そう独りごちる。


 聞き覚えのある声だ。


 そう、彼女は――


(こ、この人は……っ!)


 偶然、鏡に映ったこの人物の姿を見て、雅は驚く。




 桃色のボブカット、そして渦巻きを描くアホ毛。


 この人物が大人になった姿を、雅は――レイパーが化けていただけではあるが――見たことがある。


 カレン・メリアリカ……雅と同じくらいの年齢の頃の、彼女だった。




(私……カレンさんの中に……?)


 カレン・メリアリカの中に、意識だけあるような感覚。


 理屈は分からないが、この状況を整理すれば、そういうことになる。


 そしてこのカレン・メリアリカは、メタモルフォーゼ種レイパーが化けた紛い物ではない。正真正銘、彼女本人だと、雅は感じ取っていた。


(それにしても……カレンさん、本当に上手かった……!)


 雅もヴァイオリンが弾けるから分かる。カレンの実力が。


 単に技術がある、というレベルではない。緩急や、音の清濁を巧みに使い分け、弾いている曲に感情や魂が籠っていた。


 演奏が終わった後も、いつまでもその余韻に浸りたくなるような、そんな力さえある。


(それにしても、カレンさんの持っているこのヴァイオリン……? なんですかね? 変な形です)


 雅が、カレンが今まで演奏に使っていたヴァイオリンを見て、そんなことを思う。


 全体が弓なりに曲がった形状をしているのだ。一見すると、演奏するには非常に不向きなように見える。


 こういう癖のあるヴァイオリンを使いこなしているのだから、やはりカレンのヴァイオリン技術は、他の人と比較にならないくらい高いのだろう。


 すると、


(……んん?)


 不意に、カレンの視界越しに映った、壁に掛けられたカレンダー。今日は、どうも大きなコンサートがあるらしい。


 となれば、ここはコンサートホールの控室であろうかと、雅は推測する。


 だが大事なのは、今日が、雅が元居た時代から『十一年前』だということ。


(も、もしかして、今日は……カレンさんが、行方不明になった日……?)


 現代に戻るつもりだったのに、そうならなかったというハプニング。そしてこの状況。……何事もない、平和な一日に飛ばされたとは、とても思えない。


 逆巻きの未来は、どういう訳か、カレンが消えた日へと、雅をタイムスリップさせたのだ。それも、雅の意志だけを。


(でも、なんで……今までこんなこと、無かったのに……!)


 突然の出来事に激しく混乱する雅。


 自分はこのままどうなるのか、無事に元の世界に戻れるのか、ずっとこのままなのか……不安が募った、その時。


「カレン、調子はどう?」

「おっ、アングレー! ベストタイミング!」


 控室に入ってきたのは、若き日のアングレー・カームリア。目元の辺りは、やや幼さが残っている。どうやらカレンの様子を見にきたらしい彼女を見ると、カレンは興奮気味に手招きする。


「いやー、今演奏していた曲が、中々調子良くてさー。ちょっと聴いていってよ」

「いやカレン……後少ししたら、本番始まっちゃうんだけど?」

「まだ十五分あるでしょ! ほらほら、そこ座って座って!」

「全く、あなたは本当に……」


 呆れたようにそう言うアングレーだが、その顔はどこか緩い。


 何だかんだ言って、アングレーもカレンの演奏を聴きたいようだ。


 言われるがままに椅子に座り、いざ、カレンがヴァイオリンを弾き始めた――その瞬間。




 この部屋まで聞こえる程の、耳を劈くような悲鳴が木霊した。


 しかも、一人ではない。大勢の悲鳴。その殆どが、女性のもの――。




「えっ? ちょ、なにっ?」

「――カレン、大変! コンサートホールの近くに、レイパーが出た! あなたに頼ってばかりで申し訳ないけど――」

「大丈夫、ヤバい時はお互い様さ! 私がそいつを食い止めるから、アングレーは他のバスターの人達と協力して、街の人の避難を!」

「助かるわ!」


 そんな会話をしながら、二人は控室を出る。


 その手に、今まで弾いていた、弓なりに曲がったヴァイオリンを握ったまま――。




 ***




 途中でアングレーと別れ、走って逃げ出す人々の流れとは逆方向に向かっていくカレン。


 その途中、カレンは多くの人に、助けを求められていた。


 その全てに彼女は「大丈夫! 私に任せて!」と告げていく。


 そして、コンサートホールを出た直後、


「なっ? もうこんなところまで!」


 コンサートホールの入口近くまで来ていた化け物を見て、カレンは思わずそんなことを口にする。


 全身を黒い刺に覆われた、人型のレイパーだ。人型のウニ、とでも言えば良いだろうか。


 手には、紐が付いた二股の銛が握られている。


 分類は『人型種ウニ科』。


 銛の先端には血がベットリと付いており、レイパーの後方には、カレンの視界に収まるだけでも十人近くの女性が倒れ、血を流して死んでいた。


 中には、全身がズタズタになっており、思わず目を背けたくなるような死に方をしている人さえいた。


(酷い……)


 雅がそう思ったのと同時に、カレンも唇を噛み締める。


 刹那、


「きゃぁっ!」


 逃げ遅れた女の子が転んでしまい、レイパーの目がその子に向けられる。


 そして、体に生えた針を一本抜き――銛に付いた紐に引っ掛け、まるでスリングショットのようにして、女の子を狙いだした。


「危ない!」


 レイパーが女の子目掛けて針を飛ばすのと、カレンが、弓なりに曲がったヴァイオリンを構えるのは同時。




 直後、焦燥の戦慄が辺りに響く――。

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