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悪党とバカと不思議な黒猫  作者: 赤井"CRUX"錠之介


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5/10

賢人、異変に気づく

 午後二時過ぎ、賢人はとある場所に向かっていた。

 夏の日差しはじりじりとアスファルトを焼き、空気はモワッと肌にまとわりついてくる。

 そんな中、彼はトレーニング用のシャツを着て短パンを履き、背中には黒いリュックを背負い歩いていく。決して急ぎ足ではないが、周囲の誰もが自然と道を空ける。

 それも仕方ないだろう。賢人は五分刈りの頭で目つきは鋭く、顔の造りも濃い。顔だけみれば、中東近辺の国の生まれかと誤解されることもあるくらいだ。その顔つきだけで、問答無用の迫力がある。

 しかも、筋肉質のガッチリした体つきだ。プロレスラーか、あるいはプロの格闘家か……と見紛うような迫力を放っている。彼が視界に入るだけで、人々は本能的に距離を取った。

 だが賢人の方は、誰の視線にも気づかぬように、ただ黙々と前を向いて歩いていく。他の通行人など、彼の目には映っていない。

 やがて、賢人は目指す場所に辿り着いた。


 ここは、賢人の自宅の近くにある市民センターだ。もっとも、彼が用があるのは中に設置されたトレーニングルームである。賢人は週に三度は足を運び、ウェイトトレーニングをするのが日課となっている。

 バーベルやダンベル、そしてマシンの並ぶトレーニングルーム。その片隅で、賢人はひとり黙々とトレーニングに励んでいた。

 ベンチに仰向けに寝て、バーベルを挙げるベンチプレス。重いバーベルを担いでのスクワット。さらにはダンベルを用いたベンチプレスや、足を鍛えるレッグエクステンションなどなど……賢人は、様々なものを用いて徹底的に己の体をいじめ抜く。

 汗が額から滴り落ち、シャツが肌に張り付く。筋肉が燃えるように熱く、血流が速まるのを体感しながら、賢人はただ黙々と動き続けた。


 もともと、体を動かすのは嫌いではなかった。幼い頃の賢人は、スポーツは得意だったし走るのも早い。小学生の頃は、その身体能力ゆえクラスでも人気者だった。あのままいけば、ひょっとしたらプロのスポーツ選手になれていたのかもしれない。

 それが、ちょっとしたことで狂ってしまった……賢人は当時のことをふと思い出し、ギリリと奥歯を噛みしめる。

 そんな過去の怨念をバーベルにぶつけるかのように、再び凄まじいトレーニングを再開する。


 そんな賢人を、周りの者たちはチラリと横目で見ていくだけだ。あの男は何者なのか、と誰もが思っていた。

 この時間帯、周りにいるのは暇な老人か学生である。彼らは、賢人のストイック過ぎるトレーニングメニューと扱う重量、さらにトレーニングにより生み出された肉体の迫力に、ただただ圧倒されていた。


 このトレーニングだが、賢人は健康のためにしているわけではない。見栄えのいい体を作るためにしているのでもない。では何のためと言えば、もちろん計画ゆえである。現金は、束になれば重い。ましてや、数千万ともなるとかなりの重量だ。

 そんなものを持って逃げるとなると、ある程度の筋力は確実に必要である。いざ、現金を持って逃げる段になり、重くて動けずヤクザに捕まる……これでは、もはやコントである。それも、全く笑えないコントだ。


 さらに、もうひとつ理由があった。これだけの大きな「仕事」をするとなると、プレッシャーもまた大きい。

 そのプレッシャーに潰されないため、あえてキツいトレーニングをしているのだ。トレーニングによりアドレナリンやドーパミンを出し、その効果でどうにかプレッシャーを受け流している状態だ。

 なにせ、人生を懸けた大仕事である。そのプレッシャーを上手く流していかなくては、こちらの精神がもたないのだ。

 そう、昭和の根性論のように、プレッシャーに耐えるばかりでは、こちらの心が持たなくなる。上手く流すこと……それが、強いプレッシャーと付き合っていくコツなのだ。




 トレーニングが終わると、まずは自宅で一休みする。シャワーで汗を流し、簡単に調理した鶏肉とご飯を口に運ぶ。タンパク質と炭水化物をバランス良く摂取し、体内に燃料を満たす。

 食後、わずかに仮眠を取りながら、賢人は計画のイメージを何度も繰り返した。手順を頭の中でなぞり、動線や周囲の状況を想定し、もしもの場合の脱出経路まで考慮する。彼の思考は正確で冷徹だが、その背後には、ほんのわずかな不安が潜んでいる。その微細な動揺を、自らの鍛え上げた肉体で押しつぶす……そんな気持ちで。イメージトレーニングにも励む。

 しばらくすると、賢人は立ち上がった。これから行うのは、トレーニングよりも重要な日課である後藤ビル周辺の偵察だ。これは、一度や二度で終わらせていいものではない。むしろ、一日も欠かせてはいけないものなのだ。

 街灯の下に浮かぶ人々の動き、呼び込みの声、車の騒音。それら全てを五感で読み取り、計画のリズムに落とし込む。賢人の目は冷たく光り、細部を見逃さない。


 午後六時、狂言町はにぎわっていた。通りには、今日も大勢の人間たちが蠢いている。老若男女、様々な年代の者たちが、思い思いの方向に歩いていた。

 今は、もっとも人の多くなる時間帯であろう。仕事帰りのサラリーマンや学校帰りの高校生、さらにはキャバクラや風俗店の呼び込みや裏社会の住人らが入り混じり、通りは混沌とした状況になるのだ。

 この人混みはうっとおしいものであるが、見方を変えればチャンスでもある。木を隠すには森、という言葉があるが、人を隠すにも人混みが最適だ。

 狂言町のにぎわいを、賢人は上手く利用させてもらうつもりであった。


 賢人の頭の中では、裏カジノ売上金強奪計画の骨格は既にできあがっている。あとは、偵察を重ねていき細かな肉付けをしていくだけだ。

 もっとも、その作業は決して容易ではない。通りの喧騒は、絶えず集中を乱す。夏のせいだろうか、時おり奇声を発する高校生などが通りかかることもある。苛立ち、思わず拳を固めていることもあった。

 その上、夏の暑さと湿気が凄まじい。命知らずな計画を立てた賢人を嘲笑うかのように、容赦なく彼を苦しめてくれる。最初のうちは、立っているだけでも熱中症になってしまうのでは……と不安を覚えたくらいだ。

 何より、計画そのものの重圧が賢人の心を締め付ける。

 失敗すればどうなるか……想像するまでもない。広域指定暴力団・仁龍会の金を狙うのだ。もし捕まれば、ただでは済まない。生きては帰れないだろう。特に、こうして後藤ビルを見ていると、リアルな恐怖として襲ってくる。

 それでも、賢人は自らに言い聞かせていた。


「恐怖を飼い慣らせ。鍛錬は無駄ではない。準備を怠らなければ、突破口は必ず開ける」


 どこかの自己啓発本に載っていた言葉だ。口に出すことで、プレッシャーをはねのけ闘志を振るい立たせる。

 深く息を吐き、再び双眼鏡を覗いた。その時だった。

 突然、パァンという乾いた音が雑踏を切り裂いた。銃声にも似た鋭い破裂音だ。賢人は、思わず双眼鏡を落としそうになった。

 通りを歩いていた人々も、すぐに反応した。一瞬、何事かとざわめき動きを止める。その光景を見ている賢人の心臓は、反射的に跳ね上がった。


 おい、今のなんだよ!?


 彼は双眼鏡を手に、慌てて周囲を見回した。万が一、自分より先に裏カジノを襲った者がいたとしたら……仁龍会の警備は、さらに厳重なものになるだろう。

 しかも、銃器を使ったとなれば警察も動く。流れ弾が市民に当たったら、それだけで一大事となるからだ。

 そうなれば、警察のパトロール回数も増える。いや、それどころか売上金を運ぶパターンそのものが変わってしまう可能性もある。その場合、計画は完全に御破算だ。

 様々な思いに襲われながらも、賢人はどうにか偵察を続行した。と、意外なものが視界に入る──


 



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