賢人、奇跡の存在を実感する(2)
こんな偶然が、あっていいのだろうか──
賢人は、自分の人生にいいことなど起きるはずがないと確信していた。期待すれば、ほぼ間違いなく裏切られる。巡ってくるのは、いつも貧乏神か死神。今のところ、死神だけは避けられているが、それもいつまで持つだろう。金は天下の回りものというが、回っているのは「天」であり「下」の方ではない。
そもそも最初から期待しなければ、裏切られることもない。裏切られなければ、淡々と対処できる。なまじ期待などして裏目に出ると、まず精神的なダメージが来る。次いで、肉体や金銭のダメージだ。
このうち、肉体や金銭のダメージは防ぎようがないが、精神面なら「どうせ、こうなると思ってたよ」と言って、後は一切振り返らない。
それが、賢人の悪党としてのセオリーだった。実際、恋愛映画や恋愛ドラマにある「偶然の出会い」なるものを信じたことはない。
そう、裏社会の人間は極力ツキの部分を減らし、自分でコントロールできる部分のみを徹底的に重視していく。結果、百パーセントになることはないが、どうにか六十パーセントから七十パーセントの成功率を得ることができた。
もっとも、これはあくまで独断によるものである。本番までは、何が起きるかわからない……これが怖いところだ。
しかし今、賢人の前には外国人の女性がいる。
一回目に会った時は、路地裏でふたりのチンピラに絡まれていた。かかわりたくなかったが、知らん顔して引き返せば、ヤクザに怪しまれていた。だから、ふたりを殴り倒した──
本当に、そうなのか?
あの時、賢人は自分に問うた。外国人の女性が襲われ、チンピラに引きずられて行こうとしていた。
外国人女性と目が合った時、助けを求めていた。
だから、放っておけなかった。
少年刑務所にいた時、賢人は弱者をいたぶり強者に媚びへつらっていた。そんな自分が、たまらなく嫌だった。
だからこそ、助けてしまったのかもしれない。
二回目も、狂言町で会ったのだ。その時は、彼女に向かいこんなことを言った。
「俺は今、忙しい。けどな、仕事が全て終わり、無事でいられたら……その時は、その、食事に誘っていいかな?」
何というバカなセリフだろうか。我ながら、あんなことを言ってしまったのが未だに恥ずかしい。違法ドラッグでイカれたジャンキーでも、もう少し気の利いたセリフを吐けるだろう。いや、今どきの小学生でも、もう少し洒落たセリフが言えたのではないか。
しかし、彼女はこう答える。
「うん、いいよ。約束だよ」
優しい声だった。危険な計画を実行に移す前段階だっただけに、心が癒やされた気がした。
だが、ここまではいい。どちらも狂言町であり、そこに住んでいるのだとしたら、再会する可能性もあるだろう。
しかし、これだけは有り得ない確率だ。
賢人が、命を懸けて救った教会で、よりにもよってイタズラ小僧が結婚式を挙げている。このイタズラ小僧がいなければ、賢人の計画は確実に失敗していた。
それだけでも、天文学的数値の確率になるだろう。だが、この教会で外国人女性と再会する……これは、まさにキリストの奇跡だ。いや、マリアさまの奇跡かもしれない──
外国人女性はというと、賢人を見た途端にパアッと顔が明るくなる。考えてみれば、裏社会でここまで表情豊かな者などいない。
なぜなら、感情を読まれることは敗北に直結するからだ。
「あ、あのさ、この後なんだけど、予定ある?」
気がつくと、口からそんな言葉が出ていた
直後、恥ずかしくなってきて目を逸らす。そもそも、この女と最後に会ったのは二ヶ月以上前だ。二ヶ月あれば、人の生活は変わる。
ましてや、これだけ可愛い娘だ。街で声をかけられる可能性も高い。
結果、賢人よりも遥かにマシな堅気の人間と知り合い、付き合っていても何の不思議もないだろう。
案の定、彼女は即答する。
「うん、あるよ」
賢人は、思わず溜息を吐いた。やはり、予定があった。だが、感情は表に出さない。
どうせ、こうなるだろう……そう思っておけば、精神的ダメージを避けられたはずだった。しかし、今回は期待してしまった。ひとつの奇跡を目撃してしまっただけに、自分にもあるのではないか……そう、思ってしまったのだ。
俺も、甘い夢を見たもんだ──
そんなことを胸で呟き、賢人は歩き出した。自分のような人間が、こんなめでたい場所にいてはいけない。
ふたりが、俺の救った教会で結婚式を挙げた。
それで充分だ。
その時、いきなり腕をつかまれた。誰かと思えば、あの外国人女性だ。どうやら怒っているらしく、眉間に皺が寄っていた。
お、怒った顔も可愛いな。
などと思った時、外国人女性が地団駄踏んで叫びだした。
「まだ話終わってないよ! なんで離れていくよ!」
「えっ? 何の話?」
困惑する賢人だったが、外国人女性は強引だった。腕を引っ張り、仲間たちのところへ連れていく。
そして、勝ち誇った顔で言った。
「紹介するよ! この人がミスターヒーローだよ! 私を助けてくれたよ! やっと会えたよ! だから、私この人を離さないよ!」
聞いている賢人は、頭が混乱してきた。
先ほど、この後に予定がある? という賢人の問いに、女は予定があると答えた。これは、大抵の場合「あんたと付き合う気はない」という意思表示なのだと思っていた。
この女の予定とは、文字通りの予定なのか? と考えた時、外国人女性が凄い剣幕で怒鳴りかかる。
「せっかく会えたのに、なんで消えようとするよ!? 私あなたと、ずっと会いたい思ってたよ! なのに、なぜ消えようとするよ! あなた奥さんいるのか!?」
外国人の勢いに押され、賢人は思わず下がっていた。しかし、胸の中には熱いものがこみ上げてくる。
「いや、奥さんどころか彼女もいない。だいたい、俺なんかと付き合っても面白くないよ」
言ったところ、外国人女性の目が吊り上がる。
「それはあなたが決めることじゃないよ! 私が決めることよ!」
何とも強烈な女性である。初めて会った時、路地裏でふたりのチンピラにさらわれそうになっていたのが嘘のようだ。
しかし、この性格は嫌いではない。むしろ好きだ──
その時、例のイタズラ小僧が近づいてきた。
近くで見ると、彼は変わっていた。これまでは、落ち着きのない態度でヘラヘラ笑い、あちこちを見回しイタズラのネタを探していた。しかし、今は落ち着きが感じられる。
もちろん、今もイタズラ好きな部分は変わっていないのだろう。だが同時に、意思の強さと何かを守ろうという気持ちも感じられた。
その守るものは、あのデカイ奥さんなのかもしれない。
その時、イタズラ小僧が口を開く。
「マリア、この人がミスターヒーローか? 確かに強そうだ」
なぜ、ミスターヒーローと呼ばれているのかは不明だ。しかし、賢人は別の部分に衝撃を受けていた。
(マリアさまは、悲しむ人のそばに、必ずいてくださいます。どんなに暗い夜でも、母のように静かに手を差し伸べてくださるのです。皆さん、優しさを忘れないでください。人の心にあるものは、醜いものだけではありません。自分の中にある強さを信じてください。弱い人に手を差し伸べる気持ちを、失わないでください)
昔、シスターに言われた説教の言葉だ。聖書の聖句もほとんど覚えていない賢人なのに、これだけはなぜか記憶していた。
そして今、マリアという名の女性に救われた──
「ちなみに、俺の名前は小林誠だよ。あんたの名は?」
聞いてきたイタズラ小僧……いや、小林誠に向かい、賢人はなんとなく照れくさそうな表情で答える。
「伊達賢人です」
◆◆◆
そんな皆の様子を、教会の中から眺めているものたちがいた。
片方は、賢人の初恋相手のシスターだ。さすがに歳はとったが、美貌は衰えていない。にこやかな表情で皆の様子を眺めつつ、時おり隣にいるものの背中を撫でている。
シスターの隣にいるのは、二本尻尾の黒猫である。エメラルドグリーンに光る瞳で、彼らの幸せそうな様子を見ていた。




