賢人、過去を振り返る
今日も、賢人は後藤ビルを見張っていた。
現在、午後三時である。にもかかわらず、裏カジノに数人の客が入っていくのを見た。いずれも、身なりはきちんとしていた。そして、金持ち特有の落ち着きがある者ばかりだ。
どうやら、裏カジノは繁盛しているらしい。不景気などと言われて久しいが、そんなものなど関係ない人種は大勢いる。
その時、賢人の目はあるものを捉えた。
作業着らしきものを着た青年が、後藤ビルの近くで小銭を落としたのだ。小銭はコロコロ転がり、よりによって後藤ビルの真ん前にある自動販売機の下に入っていった。
青年は、何を思ったか匍匐前進のような体勢になる。そして、自動販売機の下に手を突っ込み小銭を取ろうとしている。
「あいつ……何をやってんだよ?」
賢人が思わず呟いた時だった。突然、青年の周りをスーツ姿の男たちが取り囲む。間違いなくヤクザだ。彼らとしても、裏カジノの前で妙な動きをしてもらいたくないのだろう。
やがて、青年も男たちの存在に気づいた。さすがに、これはまずいと判断したのだろう。立ち上がり、ペコペコ頭を下げながら人混みへと消えていった。
一方、その一部始終を見ていた賢人は顔をしかめていた。たかが工員らしき青年が自動販売機の下の小銭を拾おうとしただけで、ヤクザが寄ってきたのだ。それも、十秒ほどで駆けつけてきた。
となると、警戒は想像よりもさらに厳重だ。しかし、今さら諦めるわけにはいかなかった。
なおも偵察を続けるうち、過去の記憶が蘇っていた──
◆◆◆
伊達賢人は、天涯孤独の身である。
両親は、物心つく前に交通事故で亡くなってしまった。幼い頃は、教会の併設された児童養護施設で育つ。
礼拝堂には毎朝のように光が差し込み、古びた十字架が静かに佇んでいた。日曜日ごとにシスターが説教を繰り返し、子どもたちは一緒に讃美歌を歌った。
だが、賢人はその列の中にいながら、どこか距離を置いていた。大人の言葉も、同じ境遇の子どもたちの慰め合いも、彼には何の意味も持たなかった。
それでも、胸の奥底では時折わずかな温もりを覚えることがあった。夕暮れ時に鐘が鳴ると、不思議と心が静まる瞬間があった。シスターの笑顔を見て、こちらも笑顔になる瞬間があった。
あれは、八歳くらいの頃だろうか……シスターの裾を引いて、必死に話しかけようとした日があった。友達とケンカをして泣きじゃくりながら、彼女の影に隠れるように立っていたこともあった。さらに、シスターの手に触れられた瞬間、胸の奥が熱くなったことも、はっきりと覚えている。
だが当時の賢人は、そんな感情を認めまいとした。弱さをさらけ出せば、また誰かに奪われる。そう信じていた。
賢人は、生まれついての問題児だったわけではない。だが、大半の人が彼を真正面から受け止めようとせず、寄り添おうともしなかった。
やがて賢人の心では、反抗の種が発芽してしまう。一度、芽生えてしまったものは、もう誰にも摘むことができなかった。
きっかけは、小学校四年生の時である。小銭を落とし、自動販売機の下に入ってしまった。
賢人は這いつくばり、手を伸ばして自分の小銭をどうにか回収した。
ところが、それを見ていた少年たちがいた。彼らは、こんなことを触れ回ったのだ。
「賢人が、自動販売機の下から落ちている金を拾っていたぞ。貧乏人はやることがセコいな」
それを機に、賢人はいじめられるようになった。が、彼はおとなしくやられっぱなしにはなっていなかった。さっそく逆襲し、相手の少年たちをぶちのめす。
すると、相手の親が学校に文句を言ってきたのだ……こんな乱暴な奴を野放しにするな、と。
賢人は、シスターと共に頭を下げる羽目になった。
それからの賢人は、もう何も信じない少年へと変貌する。
教師に噛みつき、同じ学校の子どもを殴り、街へ出れば万引きを繰り返した。誰も彼を制御できず、学校の教師はいつしか「手のつけられない不良少年」として扱うようになった。
そして賢人は、中学卒業と同時に施設を飛び出した。最後に背を向けたとき、シスターが何か声をかけていたが、耳に入れる気はなかった。教会は、もう自分の居場所ではない。そんな確信だけが胸にあった。
それからは、生きるためにほとんどの悪さはやった。窃盗、強盗、詐欺……生き延びるためなら何でもやった。
だが、人殺しだけは避けてきた。理由は、自分でもわからない。ただ、心のどこかで「越えてはならない一線」を本能的に感じていたのは確かである。
もっとも、賢人が犯罪者である事実に変わりはなく、こんな生活が長続きするはずもなかった。二十歳の頃に、強盗の容疑で逮捕される。賢人は潔く罪を認め、裁判では懲役四年を言い渡された。
そして、賢人は少年刑務所に入る。
逮捕された時、賢人は既に二十歳を越えており少年と呼ばれる年齢ではない。ところが、日本の法律では二十六歳未満の青年が罪を犯した場合、少年刑務所という矯正施設に収容されることとなっているのだ。
少年刑務所の日々はつらかった。新人の頃は、先輩受刑者によるいじめやしごきを受け、さらにキツい運動もやらされた。しかし、賢人はそれら全てに耐え抜いた。
やがて先輩受刑者の中からも「あいつは、根性がある」と認めてくれる者が現れる。これで賢人は、厳しい新人いじめの段階をクリアしたのだ。
受刑者となって、一年が経過した。
賢人は、ようやく刑務所の生活にも慣れてきた。その頃、とんでもない話を耳にする。
真幌市の狂言町にある後藤ビルの地下一階には、仁龍会の仕切る裏カジノがある。
二日に一度、時間は午後六時から午後八時の間。回収ルートは地下から北側の搬入口、そこから黒いワンボックスが迎えに来る。運び役はふたり。うち、ひとりは常に腰に拳銃を差しているらしい。
これらの情報は、全て刑務所で得たものだ。
ベラベラと喋ってくれた男は、かつて裏カジノで働いていたのだという。こうした犯罪者……特に、再犯者やヤクザの構成員のいないA級少年刑務所では、ヤクザと関係しているというだけでも自慢になるのだ。
ましてや、仁龍会といえば誰もが知る広域指定暴力団だ。そんな仁龍会の裏カジノで働いていたとなると……それだけで、刑務所では一目置かれるのだ。
「まあ、はっきり言って仁龍会の金を奪おうなんてバカは、この世にいやしねえからな。たとえ売上金を運ぶ時間帯を知られていても、別に関係ねえんだよ」
この言葉で、男は話を締めた。
正直に言うなら、当時は賢人も同意見であった。もちろん、裏カジノの金を強奪しようなどという気はなかった。ただ、暇つぶしに話を聞いていただけだった。
しかし、出所した今は違う。
今は、この強盗計画に全てを懸けている。無論、怖くないと言えば嘘になる。しかし、今さら失うものなど何もない。むしろ、この計画に賭けることでしか、自分の存在を証明できないとすら思えた。
仁龍会の金を強奪する、それは世間から見れば無謀で愚かな行為だろう。しかし賢人にとっては、ただひとつの「生きる道」だった。
計画決行のタイムリミットは、刻一刻と近づいている。悠長に構えてはいられない。
成功すれば、これまで見たこともない大金が一日で手に入る。しかし、それだけではない。賢人は本能的にわかっていた。この計画の先にこそ、自分が本当に求めてきたものがあるのだ。
それは金ではなく、暴力でもない。ましてや、刑務所で囚人仲間に語る武勇伝でもない。
ただ、ずっと心に巣食い続けてきた「罪悪感」に対するケジメであった。




